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IGNITION  作者: ムネディ


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Chapter 8 藤原を選んだ理由

「これで2人ですね」

信治が帰ったあと。

桐生は宗村の部屋に戻ると、先ほどまで信治が座っていた椅子を見た。

「うん」

宗村は満足そうに頷く。

「よかったよ。断られなくて」

「断られる可能性も考えてたんですか?」

「そりゃ考えるよ。選ぶのは向こうでもあるからね」

桐生は小さく笑った。

「藤原さんの時より慎重でしたね」

宗村の動きが止まる。

「そう?」

「そうですよ」

「藤原さんの時もちゃんと考えてたよ」

「考えていたのは知っています。その後が問題です」

「その後?」

桐生は呆れたように宗村を見る。

「忘れたんですか?」

宗村は少し考えたあと、笑った。

「ああ」

「思い出しました?」

「ラッキー」

「それです」

あの時も、宗村は同じ顔をしていた。

*

IGP参戦へ向けた準備が始まった頃。

宗村の机には、何人ものドライバーの資料が並んでいた。

桐生が部屋へ入った時も、宗村は画面と紙の資料を交互に眺めていた。

「まだ見てるんですか?」

「うん」

「候補、そんなにいるんです?」

「候補ならいるよ」

宗村は画面をスクロールする。

「でも、欲しい人がなかなかいない」

桐生は机の端に置かれた資料を見る。

「条件が厳しすぎるんじゃないですか?」

「そんなことないよ」

「どういう人を探してるんです?」

宗村は指を折った。

「IGPを知ってる。開発ができる。マシンを壊さない。タイヤを使える。難しい車でも走れる。セットアップもできる。できればスポンサーを大量に持ち込まなくてもいい人」

「十分厳しいです」

「あと、うちに来てくれる」

「それが一番難しいでしょう」

MUNEは新規参戦チームだ。

LMP2では実績がある。

だが、フォーミュラでは何者でもない。

資金もトップチームとは比較にならない。

そんなチームが、経験豊富なIGPドライバーを欲しいと言っている。

桐生には、宗村がかなり無茶なことを考えているように見えた。

「速さは?」

「もちろん必要。でも、一番じゃなくていい」

宗村は一枚の資料を開いた。

「速いだけの人を乗せても、今のうちじゃ生かせないよ。俺たちはこれからIGPの車を作るんだから」

そこに表示されていた名前を、桐生は見た。

藤原蒼真。

「日本人?」

「うん」

宗村はその経歴を追っていた。

28歳。

Northbridge Racingのテストドライバー。サンマリノGPで急遽IGPデビューし

6位入賞。

続くスペインでは8位完走。

モナコでは5位入賞。

翌年もNorthbridgeでテストとリザーブを務めた。

30歳でAster GPへ移籍し、スポット参戦で6位入賞。

その後はメーカー系ワークスのEisenwerk Motorsportへ移り、32歳の時にスポット参戦で5位入賞。

34歳からはMistral Engineering。

そこでもスポット参戦で6位入賞を記録している。

だが――。

「ずっとレギュラーじゃないんですね」

「そうなんだよ」

宗村は椅子にもたれた。

「そこが気になった」

桐生が資料をもう一度見る。

「結果だけなら、悪くないですよね」

「悪くないどころか、かなり面白いよ」

Northbridge。

Aster。

Eisenwerk。

Mistral。

資金の少ないチームから古豪、メーカー系ワークス、そして再び限られた予算で戦うチームへ。

一つの環境しか知らないドライバーではない。

宗村が見ていたのは順位だけではなかった。

「この人、テストの評価が妙に高いんだよ」

「開発ですか?」

「それもある。セットアップもそうだし、タイヤも使える。難しい車でも大きく崩れない。それに、壊さない」

「ずいぶん気に入ってますね」

「でも、不思議じゃない?」

宗村が画面を指す。

「これだけいろんなチームで必要とされてるのに、フルタイムのシートがない」

調べていくうち、その理由も見えてきた。

当時のIGPでは、シート獲得にドライバーが持ち込むスポンサーが大きな影響を持っていた。

藤原には、そこが足りなかった。

一発の速さでトップドライバーをねじ伏せるほどではない。

だから正規シート争いでは、最後の一押しが足りない。

それでも、テストや代役では何度も呼ばれる。

必要とされ続けている。

宗村はそこに価値を見ていた。

「速いから欲しいんじゃないんですね」

桐生が言った。

「うん」

宗村は即答した。

「この人、チームを作れると思う」

桐生は黙った。

宗村の目に、いつもの光が宿っていた。

アルバイトだった自分を見ていた時と同じだ。

履歴書の肩書きではなく、その向こうにあるものを見ようとする目。

「MUNEに必要なのは、完成した車で0.1秒を削る人じゃない。もちろん、それもできた方がいいけどね」

宗村は藤原の資料を机へ置いた。

「分からないことだらけの車に乗って、何がおかしいのか俺たちに教えてくれる人が欲しい」

「それが藤原さん?」

「たぶん」

「たぶん?」

「本人に会ってないから」

桐生は嫌な予感がした。

「宗村さん」

「何?」

「まさか、もう連絡するつもりですか?」

「そのつもりだけど」

「来てくれると思います?」

宗村は少し考えた。

「五分五分?」

「そんなにあります?」

「じゃあ三分七分」

「下がってるじゃないですか」

「でも三分ある」

宗村は電話へ手を伸ばした。

桐生は止めなかった。

こうなった時の宗村を止めても意味がないことを、もう知っている。

*

実際に会った藤原は、資料から想像した通り、よく喋る男ではなかった。

宗村の話を途中で遮らず、静かに聞いていた。

MUNEがLMP2からIGPへ挑戦すること。

フォーミュラコンストラクターとしては新参であること。

資金に余裕はないこと。

MR-00という技術習得車を作っていること。

そして、その先に正式参戦車MR-01があること。

宗村は都合のいい話だけをしなかった。

藤原も、それを聞いた上で尋ねた。

「俺に何をさせたいんです?」

「車を作るのを手伝ってほしい」

藤原が宗村を見る。

「運転だけじゃなく?」

「むしろ、それだけなら藤原さんじゃなくてもいい」

少しだけ間があった。

藤原の口元が、わずかに緩んだ。

「ずいぶんな口説き文句ですね」

「そう?」

「普通はもう少し、乗ってほしいって言うものじゃないですか」

「もちろん乗ってほしいよ。でも、うちは新規参戦だからね。完成した車を渡して『あとはお願いします』なんてできない。一緒に基準を作ってほしいんです」

藤原はすぐには答えなかった。

それでよかった。

宗村も答えを急がせなかった。

長い間、レギュラーシートへ届かなかった男にとって、これは単なる転職ではない。

そしてMUNEにとっても、藤原はチームの方向を決める存在になる。

簡単に決める話ではなかった。

*

後日。

宗村が桐生のところへやって来た。

妙に機嫌がいい。

「美咲さん」

「何です?」

「ラッキー」

桐生は手を止めた。

「何がですか?」

「藤原さん、いけそう」

「……本当に?」

「うん」

桐生は思わず宗村を見つめた。

あれだけ条件を並べて、そんな都合のいい人が見つかるのかと思っていた。

しかも、相手は長年IGPで必要とされ続けてきたドライバーだ。

「宗村さん」

「ん?」

「まだ決まってないんですよね?」

「だから、いけそうって言ったじゃん」

「じゃあ浮かれないでください」

「浮かれてないよ」

「顔が浮かれてます」

宗村は笑った。

そして――。

藤原蒼真のMUNE加入が決まった。

その報告を受けた桐生の前で、宗村はしばらく黙っていた。

「どうしたんです?」

「いや」

「嬉しくないんですか?」

「嬉しいよ」

宗村は少し困ったように笑った。

「何とかなっちゃった」

桐生は額に手を当てた。

「そこは代表らしく『予定通り』くらい言えないんですか?」

「予定通りじゃないからね」

「もう……」

それでも桐生は笑っていた。

*

現在。

「――あの時は本当にどうなるかと思いました」

桐生が言う。

宗村も笑った。

「結果オーライ」

「まだ1戦も走ってません」

「そうだった」

机の上には、藤原と信治。

2人の名前がある。

36歳。

IGPを知りながら、初めてフルタイムのシートを手にする藤原蒼真。

25歳。

国内トップフォーミュラから未知の世界へ踏み出す中村信治。

歩いてきた道はまるで違う。

「いい2人になりましたね」

桐生が言った。

宗村は2人の名前を見ながら頷く。

「うん」

速さだけで選んだ2人ではない。

今のMUNEに必要な2人を選んだ。

だが、ドライバーが決まっただけだ。

世界最高峰を戦うには、まだ足りないものが山ほどある。

宗村は椅子から立ち上がった。

「さて」

桐生が嫌そうな顔をする。

「今度は何です?」

「人が足りない」

「知ってます」

「藤原さんにも聞いてみようかな」

「何を?」

宗村は笑った。

「IGPを知ってる、いい人いませんかって」

桐生は一瞬黙ったあと、ため息をついた。

「また始まった……」

2つのシートは埋まった。

次に必要なのは、その2人を走らせる人間たちだった。

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