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IGNITION  作者: ムネディ


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Chapter 9 もう一人の経験者

「フォーミュラの経験があるエンジニアで、誰か心当たりない?」

宗村からそう聞かれた藤原は、すぐには答えなかった。

市原ファクトリーの一角。

MR-00はすでにほぼ完成し、あとは藤原が旧所属先との契約上の制約から解放されるのを待っている。

藤原は車体を眺めながら腕を組んだ。

「どういう人を探してるんです?」

「IGPを知ってる人」

「広いですね」

「そう?」

「設計、空力、レースエンジニア、データ。いくらでもいますよ」

宗村は少し考えた。

「じゃあ、神谷さんと喧嘩しない人」

少し離れたところで資料を見ていた神谷が顔を上げる。

「おい」

「大事でしょ」

「俺が誰とでも喧嘩するみたいに言うな」

藤原の口元がわずかに緩んだ。

「それなら、1人います」

宗村と神谷が同時に藤原を見る。

「本当に?」

「聞いたの宗村さんでしょう」

「いや、そんなすぐ出てくると思わなかったから」

藤原は少し考えてから、その名前を口にした。

「ラスタス・パルナー」

神谷の表情が変わった。

名前は知っていた。

IGPに長く関わってきたエンジニアだ。

「Apexの?」

「そうです」

「知り合い?」

宗村が尋ねる。

藤原は首を少し傾けた。

「知り合いというか、一緒に仕事したことがあります」

それは藤原が30歳の頃まで遡る。

Aster GPでテストドライバーを務めていた時、シーズン中のIGP合同タイヤテストに参加した。

ラスタスはApex側のレースエンジニアとして来ていた。

その時は顔を合わせた程度だった。

本当に仕事をしたのは、その翌年。

藤原が31歳でEisenwerk Motorsportへ移籍した直後に行われた、タイヤメーカーとの合同開発テストだった。

複数のチームからドライバーとエンジニアが参加する中、2人は同じタイヤ評価プログラムを担当した。

「高速は良くなった。でも、この変更だと低速でリアを待つ時間が増えてる」

走行を終えた藤原がそう伝えると、ラスタスは少し考えただけだった。

「なら次は全部戻す必要はない。リアだけ1段戻そう」

大量のデータを見る前に方向を決めた。

もちろん、データを無視しているわけではない。

限られた走行時間の中で、何を先に確認するべきかを判断したのだ。

変更を加え、藤原は再びコースへ出た。

戻ってきた時には答えが出ていた。

方向性は合っていた。

テスト終了後、ラスタスは藤原に言った。

「君は面白いね」

「何がです?」

「速いとか遅いとかじゃない。どうしてそうなったのかを説明できる」

藤原も同じことを感じていた。

自分の言葉を鵜呑みにしない。

だが、無視もしない。

必要な部分を拾い、次の一手へ変える。

短い期間だった。

それでも、仕事の能力を知るには十分だった。

「それから同じチームになったことはありません。でも、パドックで会えば話してました」

藤原の説明を、神谷は黙って聞いていた。

「で、なんでその人なんだ?」

「経験です」

藤原は神谷を見る。

「MUNEにはレースチームとしての経験があります。神谷さんも、車作りを知らないわけじゃない」

「フォーミュラは別物だ」

「だからです」

藤原はすぐに返した。

「別物だから、IGPで何を優先するのか知ってる人が1人いた方がいい」

神谷は何も言わなかった。

否定する理由はない。

MUNEがこれから作るのはLMP2ではない。

MR-00を作ったのも、自分たちが何を知らないのかを知るためだった。

ならば、知らないことを知っている人間から学ぶのは当然だった。

ただし――。

「俺の上司になるのか?」

神谷が宗村を見る。

「そのつもりはないよ。MUNEの車を作るのは神谷さんだから。IGP経験があるからって、その人に全部任せたら、俺たちがMR-00を作った意味がないでしょ。欲しいのは、代わりに答えを決める人じゃない。俺たちが知らないことを教えてくれる人」

神谷は宗村を見た。

藤原が小さく頷いた。

「ラスタスなら、その辺は大丈夫だと思います」

「偉そうにしない?」

「しないですね」

「頑固?」

「技術の話は」

「神谷さんと一緒じゃん」

「だから俺を見るな」

宗村は笑った。

「日本に来てくれるかな」

「そこは聞かないと分かりません。ただ、日本は好きですよ」

宗村が瞬きをした。

「日本語は?」

「話せます」

宗村は藤原の顔をしばらく見た。

「……そんな都合のいい人、本当にいるの?」

神谷が呆れた顔をする。

「宗村さんが聞いたんでしょう」

「そうなんだけどさ」

藤原が珍しく笑った。

「紹介くらいはしますよ」

宗村の表情が変わる。

こういう時の宗村は早い。

「お願いします」

「まだ来るとは言ってませんよ」

「話ができるなら十分」

藤原は頷いた。

ただ、1つだけ付け加えた。

「Apexでは、あの人の能力をうまく使えてないと思ってました」

「どういう意味?」

「大きいチームですから」

藤原はそれ以上を言わなかった。

組織が大きくなれば、役割も細かくなる。

優秀だからといって、その能力をすべて生かせるとは限らない。

「ちょうど契約も終わるはずです」

宗村が黙った。

そして神谷を見る。

「……ラッキー?」

「まだ何も決まってない」

「ですよね」

「藤原」

「はい」

「宗村さんをあまり調子に乗らせるな」

藤原は宗村を見てから答えた。

「無理じゃないですか?」

「藤原さんまで」

3人の間に笑いが起きた。

*

後日。

藤原から連絡先を受け取った宗村は、ラスタスと話す機会を得た。

画面に現れた52歳の男は、宗村が想像していたより柔らかな雰囲気だった。

「藤原から聞いてるよ」

最初から流暢な日本語だった。

宗村は少し驚いた。

「本当に日本語話せるんですね」

「そこから疑ってたのかい?」

「いや、藤原さんが嘘をつくとは思ってないですけど」

「なら信用してあげなよ」

いきなり笑われた。

宗村も笑う。

「すみません」

話はMUNEの現状へ移った。

LMP2では経験がある。

だが、フォーミュラコンストラクターとしては新参。

MR-00を作り、そこから得たものをMR-01へ持ち込もうとしている。

資金は潤沢ではない。

設備も人員も、IGPのトップチームには遠く及ばない。

宗村は隠さなかった。

ラスタスは静かに聞いていた。

「私に何をしてほしい?」

「IGPを教えてほしいです」

宗村は答えた。

「車を作れ、ではなく?」

「それは神谷さんの仕事です」

横に座っていた神谷が軽く頭を下げる。藤原も、その隣で話を聞いていた。

「最終的に車を決めるのは神谷さんです。ラスタスさんには、俺たちがIGPで遠回りしそうになった時に、経験を貸してほしい」

ラスタスが神谷を見る。

「それでいいのかい?」

神谷は少しも迷わなかった。

「むしろ、その方がありがたいです。全部教えてもらったら、次もあなたがいないと何もできなくなる」

数秒の沈黙。

ラスタスが笑った。

「藤原が君たちを勧めた理由が少し分かったよ」

「勧めたんですか?」

宗村が聞く。

「少なくとも、面白い連中だとは聞いた」

宗村が藤原を見る。

「面白い連中って言ったの?」

「間違ってないでしょう」

「もう少しいい言い方なかった?」

藤原は答えなかった。

その代わり、ほんの少し笑った。

画面の向こうで、ラスタスも笑っていた。

契約の話は、まだこれからだ。

条件もある。

生活も変わる。

長く身を置いたIGPの巨大組織を離れ、日本の新規参戦チームへ移る。

簡単な決断ではない。

それでも。

MUNEが世界へ踏み出すために必要としていた経験へ、一本の線がつながった。

その線を引いたのは、藤原だった。

藤原蒼真は、まだMUNEのマシンを1度も走らせていない。

それでもすでに、チームへ1つの大きなフィードバックを返していた。

――その答えは、人だった。

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