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IGNITION  作者: ムネディ


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Chapter 10 必要な言葉だけ

ラスタス・パルナーとの話が動き始めてから数日。

市原のファクトリーでは、IGP参戦へ向けた準備が続いていた。

LMP2で使ってきた設備が並ぶ作業エリアでは、その中央に置かれたMR-00を囲んでスタッフが動いている。

新しいカテゴリーへ挑むからといって、何もないところから始めるわけではない。

MUNEには人も設備も、積み重ねてきた経験もある。

ただ、IGPを戦うには足りないものがあった。

桐生が人員計画の資料を机に置いた。

「ストラテジストも必要ですね」

「うん。さすがにそこは経験者が欲しいな」

宗村が資料へ目を落とす。

少し離れた場所にいた藤原が、その言葉に反応した。

「だったら、1人います」

宗村が顔を上げた。

「また?」

「嫌ならいいですけど」

「嫌じゃないよ。むしろ助かる」

桐生が苦笑する。

「この前ラスタスさんを紹介してもらったばかりですから、宗村さんも驚いてるんですよ」

藤原は気にする様子もなく答えた。

「朝倉智樹。ストラテジストです」

その名前を聞いても、宗村には心当たりがなかった。

「知り合い?」

「以前、俺を担当してました」

それだけ言って、藤原は手元の資料へ視線を戻した。

宗村は少し待った。

だが、続きがない。

「……それだけ?」

「何がです?」

「いや、もうちょっとこう、どんな人とか」

藤原は少し考えた。

「仕事がしやすいです」

「藤原さん、それじゃ分からないよ」

「俺にはそれで十分なんですけど」

宗村が困った顔で桐生を見る。

「私に聞かれても分かりません」

藤原は2人を見て、わずかに息を吐いた。

「Eisenwerkにいた時、1度だけレースを一緒にやってます」

その言葉とともに、藤原の記憶は数年前のサーキットへ戻っていた。

*

予選は中団。

決勝でも、藤原のマシンに上位勢と正面から戦えるだけの速さがあったわけではない。

それでも、レースは長い。

藤原は序盤から無理をしなかった。

前を追えるところでは追う。

だが、タイヤを傷めてまで1台を抜きにいくことはしない。

その日のマシンが持っているものを、最後まで使い切る。

それが藤原の走りだった。

レース中盤。

ステアリングを切った時の反応が、それまでとは少し違った。

フロントが逃げ始めている。

〈フロントが少し逃げ始めた〉

ピットウォールでは朝倉がモニターを見ていた。

藤原の言葉だけで判断はしない。

ラップタイム。

セクターごとの変化。

タイヤの使用周回。

前方とのギャップ。

後方の車のペース。

必要な数字を追っていく。

〈あと4周だけ今のペースで。その後こちらから指示します〉

〈了解〉

それ以上の言葉はなかった。

藤原も理由を聞かなかった。

今すぐ危険になる症状ではない。

ならば走る。

4周後、朝倉から指示が飛んだ。

藤原はピットへ向かった。

奇抜な作戦ではない。

誰も思いつかなかった一手でもない。

コース上の状況とタイヤを見ながら、その時に必要なことをしただけだった。

だが、それが崩れなかった。

前方では接触やトラブルで脱落する車が出た。

順位が1つ上がる。

また1つ。

レース終盤。

藤原は5位を走っていた。

後方から1台が迫っている。

〈残り6周。後ろとの差3秒8。今のペースで大丈夫です〉

〈了解〉

もっと速く走れとは言わない。

守れとも言わない。

藤原は今までと同じように走った。

無理にペースを上げれば、最後にタイヤが苦しくなる。

かといって、後ろを意識しすぎれば自分のリズムを失う。

今のままでいい。

それだけ分かれば十分だった。

チェッカー。

5位。

藤原にとって、IGPでの最高位だった。

マシンを降りたあとも、2人の間に大げさなやり取りはなかった。

朝倉が藤原を見た。

「最後、余裕ありました?」

「少しだけ」

「なら良かったです」

「もう少し上げろって言われたら?」

朝倉はモニターへ目を戻した。

「言いませんよ。必要なかったので」

藤原はそれ以上何も言わなかった。

その短いやり取りだけは、何年経っても覚えていた。

*

「5位になった時の人です」

藤原の言葉に、宗村が資料をめくる手を止めた。

「なるほど」

それ以上、細かく尋ねる必要はなかった。

藤原は普段から人を大げさに褒めるタイプではない。

その藤原が自分から名前を出した。

宗村には、その事実の方が重要だった。

「連絡できる?」

「できます。ただ、来るかどうかは別ですよ」

「そこは俺が話してみる」

藤原は宗村を見る。

「簡単じゃないと思います」

「新規参戦だから?」

「それもあります。予算も多くないですし、朝倉にもキャリアがありますから」

宗村は頷いた。

当然の話だった。

MUNEに来ることが、誰にとっても夢になるわけではない。

相手には相手の人生がある。

「今のチームとの契約は?」

「ちょうど終わるはずです」

宗村の眉がわずかに動く。

それを見た桐生が先回りした。

「宗村さん」

「まだ何も言ってないよ」

「『ラッキー』は禁止です」

「思っただけ」

「顔に出てます」

藤原が小さく笑った。

宗村は咳払いをして話を戻す。

「じゃあ、1度だけ話をさせてもらえる?」

「聞いてみます」

*

その日の夜。

藤原は朝倉へ電話をかけた。

久しぶりに聞く声は、昔とほとんど変わらなかった。

「MUNE RACINGって知ってるか?」

『知ってる。お前が行くところだろ』

「ストラテジストを探してる」

少し間が空いた。

『まさか、俺に来いって?』

「一度、宗村さんと話してみてほしい」

電話の向こうで朝倉が息を吐いた。

『藤原。俺も仕事を選ぶんだぞ。新規参戦チームへ行くのは、それなりにリスクがある』

「分かってる」

『予算だって多くないだろ』

「多くないな」

『少しは否定しろよ』

「嘘ついても仕方ないだろ」

朝倉が笑った。

その声を聞いて、藤原もわずかに表情を緩める。

だが、朝倉はすぐに真面目な声へ戻った。

『どうして俺なんだ?』

藤原は窓の外を見た。

あのレースを思い出す。

残り6周。

後ろとの差3秒8。

今のペースで大丈夫。

それだけだった。

余計な指示はなかった。

必要な情報だけが届いた。

藤原にとって、それが一番ありがたかった。

「俺を担当した時と同じ仕事をしてくれればいい」

電話の向こうが静かになった。

藤原は待った。

説得するつもりはない。

MUNEを選ぶかどうかは、朝倉自身が決めることだ。

やがて声が返ってきた。

『……話を聞くだけだぞ』

「それでいい」

通話を終える。

まだ加入が決まったわけではない。

条件の話すらしていない。

それでも、MUNEと朝倉をつなぐ最初の糸口はできた。

藤原は携帯電話をポケットへ戻した。

5位になったあの日。

自分と朝倉の間にあった言葉は、決して多くなかった。

だからこそ、必要な言葉は残っている。

そして数年後。

その短い言葉が、2人をもう1度同じチームへ近づけようとしていた。

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