Chapter 7 決断
市原からの帰り道。
信治は車を走らせながら、何度も昼間の光景を思い返していた。
MR-00。
使い込まれた作業台。
黙々と手を動かしていたスタッフたち。
壁に掲げられた、Every Lap Matters.のプレート。
そして――なめろう定食。
最後だけ少し毛色が違う気もする。
それでも、不思議と一番鮮明に思い出せた。
「次来た時ですね」
千夏が何気なく言った言葉も、まだ耳に残っている。
次。
自分は、もう一度あそこへ行くのだろうか。
信号が赤に変わり、信治は車を止めた。
最初に宗村から話を聞いた時は、もっと単純だった。
IGP。
その言葉だけで心が動いた。
世界最高峰のフォーミュラカテゴリー。
国内トップフォーミュラを3年間走り、1勝。表彰台は4回。年間ランキング最高は6位。
勝ったことはある。
だが、自分より多く勝ったドライバーも、自分より上の順位でシーズンを終えたドライバーもいる。
そんな自分に、なぜIGPの話が来るのか。
最初はそれが分からなかった。
宗村から理由を聞いても、すべて納得できたわけではない。
けれど今日、MUNEを実際に見て、少しだけ分かった気がした。
あのチームは、完成されたものを求めていない。
自分たち自身が、まだ完成していないからだ。
MR-00もそうだった。
速さを証明するための車ではない。
分からないことを知るための車。
失敗するために作り、その失敗を次へ持ち込まない。
普通なら、世界最高峰へ挑戦すると聞けば、もっと自信に満ちた言葉が並ぶと思っていた。
最高の技術。
最高のスタッフ。
勝てるマシン。
そんな言葉を宗村は一度も使わなかった。
むしろ、金がないと笑っていた。
だから2回しか走らせられない、と。
それでも、諦めているようには見えなかった。
できないことを嘆くのではなく、できることを考えている。
信号が青になる。
信治はアクセルを踏んだ。
国内で走り続ける道もある。
それは決して悪い選択ではない。
今の自分なら、まだ上を目指せる。
もう1勝。
ランキング5位。
その先。
積み重ねていけば、いつかタイトル争いに加われるかもしれない。
だが――。
それを想像しても、昨日までと同じ景色しか浮かばなかった。
一方で、MUNEを選んだ先には何があるのか。
分からない。
本当にIGPで戦えるマシンができるのか。
ポイントを取れるのか。
そもそもまともに完走できるのか。
何一つ保証されていない。
なのに。
その分からない景色を、見てみたいと思った。
*
翌日。
市原のファクトリーで、宗村は書類を眺めていた。
ノックの音がする。
「どうぞ」
ドアが開き、桐生が入ってきた。
「宗村さん、昨日の中村さんですけど」
「うん」
「どうでした?」
「なめろう定食、大盛り食べてた」
桐生は無言で宗村を見る。
「そういうことを聞いてるんじゃありません」
「分かってるよ」
宗村は笑い、書類を机へ置いた。
「まだ返事はもらってない」
「感触は?」
「悪くないと思う」
「珍しく曖昧ですね」
「本人が決めることだからね」
宗村は椅子にもたれた。
「IGPって言えば、普通は魅力的に聞こえるでしょ。でも、うちの場合はそこだけ見て決められると困るんだよ」
桐生が向かいの椅子へ座る。
「新規参戦ですからね」
「うん。最初から速い保証なんてない。トラブルだって出るだろうし、予選で苦労するかもしれない。国内に残った方が結果だけなら良かった、なんてことも十分あり得る」
「それでも来たい人じゃないと困る、と」
「そういうこと」
宗村は窓の向こうへ目を向けた。
作業エリアでは、今日もスタッフが動いている。
「俺が中村君を選んだ。でも、中村君にもMUNEを選んでもらわないとね」
机の上の電話が鳴った。
宗村が受話器を取る。
「はい、宗村です」
一瞬だけ表情が変わった。
「うん。昨日はどうも」
桐生が宗村を見る。
誰からなのか、それだけで分かった。
「今?」
宗村は時計を見る。
「大丈夫だよ」
少し間が空く。
「分かった。待ってる」
受話器を置いた。
「中村さんですか?」
「うん」
「何て?」
「今から来るって」
桐生が立ち上がる。
「じゃあ私、席を外しますね」
「いてもいいのに」
「本人から直接聞いてください」
ドアへ向かいながら、桐生が振り返った。
「宗村さん」
「ん?」
「変なこと言わないでくださいね」
「俺、そんな信用ない?」
「こういう時だけは」
扉が閉まった。
「ひどいなあ」
宗村は一人で呟いた。
*
しばらくして、信治がファクトリーへやって来た。
昨日とは違い、今日は見学ではない。
宗村の部屋へ通され、向かい合って座る。
「昨日はありがとうございました」
「どうだった?」
「なめろう、美味かったです」
宗村が笑った。
「そこ?」
「いや、それだけじゃないです」
信治も少し笑い、それから表情を戻した。
「帰ってから、ずっと考えてました」
宗村は何も言わない。
「国内に残ることも考えました。今のカテゴリーで、まだやれることもあります」
「うん」
「正直、MUNEに行ったらどうなるか分かりません。IGPに出ても、最初から戦えるとは思ってないです」
宗村は小さく頷いた。
「俺も思ってない」
「そこは少しくらい否定してくださいよ」
「嘘ついてもしょうがないでしょ」
思わず信治が笑う。
緊張が少しだけ抜けた。
そして、昨日見たMR-00を思い出す。
「昨日、あの車を見て思ったんです」
「MR-00?」
「はい」
信治は一度言葉を選んだ。
「完成されたチームに加わるわけじゃないんですよね」
宗村は答えない。
「まだ分からないことがあって、これからマシンも作って、チームもIGPに合わせて変わっていく。その変化の中に、ドライバーも加わる」
「そうだね」
「だったら俺も、乗るだけじゃないんですよね」
宗村の表情が少しだけ変わった。
「そのつもりで声をかけたよ」
短い言葉だった。
だが、それで十分だった。
信治は息を吐いた。
もう迷いはなかった。
「やります」
宗村が静かに信治を見る。
「MUNEでIGPに行きたいです」
数秒の沈黙。
宗村は派手に喜ぶこともなく、ゆっくり頷いた。
「分かった」
そして右手を差し出す。
「よろしく、中村君」
信治もその手を握った。
「よろしくお願いします」
世界最高峰への挑戦。
その瞬間は、想像していたよりずっと静かだった。
歓声もない。
フラッシュもない。
ただ、小さな部屋で二人が握手をしただけ。
それでも信治には、その手の感触が妙に重く感じられた。
もう、憧れているだけではない。
自分もそこへ行く。
そのための一歩を、今踏み出したのだ。
宗村が手を離す。
「じゃあ、これから忙しくなるよ」
「覚悟してます」
「まずは色々あるからね」
「色々?」
「色々」
信治は少し嫌な予感がした。
「具体的には?」
「それはこれから」
「宗村さん、そういうところありますよね」
「昨日1日で分かった?」
二人が笑う。
その声が廊下まで聞こえたのか、少ししてドアが開いた。
桐生が顔を出す。
「終わりました?」
宗村が振り返る。
「うん。決まったよ」
桐生は信治を見る。
「中村さん」
「はい」
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
桐生が微笑む。
宗村は満足そうに椅子へ戻った。
「これで2人だね」
「ドライバーは、ですね」
桐生が即座に返した。
宗村が止まる。
「……美咲さん、鋭いね」
「嫌な予感しかしません」
「いやあ、まだ人が足りないんだよね」
桐生は小さく息を吐いた。
「でしょうね」
「世界最高峰って、人がいっぱいいるんだよ」
「知ってます」
「だから集めないと」
「それも知ってます」
信治は二人のやり取りを黙って見ていた。
昨日感じたことを、もう一度思う。
ここはまだ、完成していない。
マシンも。
組織も。
そして、おそらく自分自身も。
それでも。
だからこそ、ここから始められる。
ファクトリーの向こうでは、MR-00が静かに次の時を待っていた。
MUNE RACINGの2つ目のシート。
そこに、中村信治の名前が入った。




