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IGNITION  作者: ムネディ


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Chapter 6 MUNE RACING

 市原の臨海工業地帯を走っていた信治は、ナビの案内が終わるより先に目的地に気づいた。

建物の壁に、MUNE RACINGのロゴが見えたからだ。

想像していたより大きい。

もっと小さな町工場のような場所を思い描いていた。

駐車場へ車を入れると、入口の前に宗村が立っていた。

「おはよう、中村君」

「おはようございます」

車を降りた信治は、改めて建物を見上げる。

「……結構、ちゃんとしてますね」

「どういうところ想像してたの?」

「いや、その……新規参戦って聞いてたんで」

「IGPには新規参戦だけど、昨日今日できたチームじゃないからね」

宗村が笑う。

その一言で、信治は少し思い違いをしていたことに気づいた。

MUNEはIGPでは新人だ。

だが、レーシングチームとして新人なのではない。

中へ入る。

最初に感じたのは匂いだった。

金属とオイル。それに、熱を帯びた機械の匂い。

信治にとっては馴染みのあるものだった。

作業エリアには工具や部品が整理され、LMP2時代から使われてきた設備に新しい機材が混ざっている。

新品ばかりではない。

使い込まれた工具も、擦れた作業台もある。

けれど雑然とはしていなかった。

何がどこにあり、誰が何をしているのか。

ここで働く人間なら迷わない。

そんな場所だった。

壁には一枚のプレートが掲げられている。

――Every Lap Matters.

信治が足を止めた。

「これ、スローガンですか?」

「うん。前からあるよ」

「一周一周に意味がある」

「そんな感じ」

宗村は特別な説明をせず、先へ進んだ。

信治はもう一度プレートを見てから、その後を追う。

作業エリアを歩けば、何人ものスタッフとすれ違う。

「宗村さん、おはようございます」

「おはよう。昨日のやつどう?」

「今、確認してます」

「了解」

代表とスタッフ。

それにしては距離が近い。

だが、馴れ合っている感じもしない。

信治は黙ってその様子を見ていた。

やがて、1台の車が見えてきた。

低いノーズ。

剥き出しのタイヤ。

明らかにフォーミュラカーだった。

「これ……」

「MR-00」

宗村が言った。

「IGPのマシンですか?」

「違うよ。勉強するための車」

信治は車体へ近づいた。

「勉強?」

「俺たち、LMP2はやってきたけど、フォーミュラコンストラクターとしては1年生だからね。いきなり本番車を作っても、分からないことだらけでした、じゃ困るで

しょ」

宗村はMR-00を見ながら続けた。

「だから、その前に1台作った。速い車を作るためじゃなくて、自分たちが何を知らないのか知るために」

「これでレースには?」

「出ない」

「本当にテストだけ?」

「うん。走らせるのも2回まで」

「2回?」

「お金ないから」

あまりにも普通に言われ、信治は宗村を見た。

「IGPに出る人が、そんな普通に金ないって言うんですね」

「ないものはないからね」

宗村が笑う。

「だから2回で、できるだけたくさん失敗する」

信治は再びMR-00へ視線を戻した。

失敗するための車。

奇妙な表現だった。

だが、その考え方は嫌いではなかった。

「契約したら、俺も乗るんですか?」

「乗らないよ」

宗村は即答した。

「中村君に乗ってもらうのは、その先」

その先。

まだ形すら見えない、本番用のマシン。

もしMUNEへ来れば、自分もその開発に関わることになる。

信治がMR-00を見ていると、宗村が時計を確認した。

「そろそろ昼だな。腹減った?」

「まあ、少し」

「じゃあ食堂行こう」

「食堂もあるんですか?」

「あるよ。うちでかなり重要な設備」

「かなり?」

「俺は工作機械の次くらいに重要だと思ってる」

「一番じゃないんですね」

「そこは神谷さんに怒られるから」

宗村について食堂へ入る。

作業エリアとは空気が一変した。

昼時を迎え、スタッフが集まり始めている。

話し声。

食器の音。

そして、炊きたての米と味噌汁の香り。

「宗村さん、今日は2人?」

カウンターの奥から声がした。

牧村和代だった。

「そう。見学のお客さん」

「じゃあ、ちゃんと食べてもらわないとね!生魚は大丈夫かい?本日のおススメは、なめろう定食だよ」

「じゃあ、それで...」

宗村がカウンターの席に座りながら、メニューを見ないで注文をした。

「おばちゃん、俺もなめろう定食で」

その横から、娘の牧村千夏が顔を出した。

「いらっしゃいませ」

明るい声だった。

「初めてですよね?」

「はい」

「ご飯、大盛りにしますか?」

にこっと笑う。

信治は一瞬だけ迷った。

「……じゃあ、大盛りで」

「はい、大盛りですね!」

すぐに千夏が茶碗を手に取る。

それを見た宗村が何気なく言った。

「千夏ちゃん。この人ね、ドライバー候補なの」

千夏の手が止まった。

信治を見る。

「えっ」

もう一度、宗村を見る。

「ドライバーの方だったんですか!?」

「そう」

「普通に見学の人だと思ってました!」

「まだ見学の人でも間違ってないけどね」

「宗村さん、そういう大事なこと先に言ってくださいよ!」

千夏が笑いながら言う。

信治もつられて笑った。

「すみません。まだ本当に候補なんで」

「でもIGPですよね?」

「……そうなるかもしれません」

千夏の表情がぱっと明るくなる。

「すごい! じゃあ、もっと大盛りにします?」

「いや、今ので大丈夫です」

「あ、そうですか?」

「千夏ちゃん、ドライバーを太らせないで」

宗村の一言に、食堂の奥で和代が吹き出した。

「宗村さんが大盛り勧めてる時もあるでしょう」

「俺はドライバーじゃないから」

「そういう問題じゃないです」

千夏が信治の前に盆を置いた。

「はい。なめろう定食、大盛りです」

「ありがとうございます」

目の前に置かれた料理を見て、信治は自然と背筋を起こした。

細かく叩かれた魚に味噌が絡み、葱と生姜が混ぜ込まれている。

派手な料理ではない。

けれど、魚の艶と味噌の香り、その隣から立ち上る白飯の湯気が、空腹を一気に刺激した。

箸でなめろうを取る。

口へ入れた瞬間、魚の濃い旨味が広がった。

味噌のコク。

葱の香り。

生姜の爽やかな辛み。

生魚独特の脂っぽさはなく、むしろ後味が軽い。

「……うまっ」

思わず声が出た。

カウンターの向こうで千夏が笑う。

「ですよね?」

「これ、すごいですね」

今度は白飯に乗せる。

温かい米となめろうが合わさった瞬間、味噌の塩気が米の甘さを引き立てた。

一口。

また一口。

大盛りにしたはずのご飯が、妙な速度で減っていく。

宗村が横から見る。

「大盛りにして正解だったね」

「ですね」

信治は箸を止めずに答えた。

千夏が嬉しそうに言う。

「足りなかったら、まだありますよ」

「大丈夫です。これ以上食べたら午後動けなくなります」

「じゃあ次来た時ですね」

その言葉に、信治の箸が一瞬だけ止まった。

次に来た時。

千夏は深い意味なく言ったのだろう。

それでも、不思議と耳に残った。

周囲を見る。

作業着姿のスタッフたちが食事をし、くだらない話で笑い、食べ終えればまた仕事へ戻っていく。

世界最高峰へ挑むチーム。

信治はもっと張り詰めた場所を想像していた。

だが、ここにはLMP2を戦ってきた時間がある。

設備がある。

人がいる。

そして昼になれば、腹を空かせたみんなが同じ食堂へ集まる。

MUNE RACINGは、これから作られるチームではなかった。

すでにあるチームが、次の世界へ進もうとしている。

「宗村さん」

「ん?」

「この前、言いましたよね。実際に見てから決めればいいって」

「言ったね」

信治は食堂を見渡した。

まだ答えを出すつもりはない。

けれど、ここへ来る前とは明らかに違う。

「もう少し、見せてもらっていいですか?」

宗村は軽く笑った。

「もちろん」

信治は最後の一口を白飯と一緒に食べた。

初めて訪れたMUNE RACING。

そこで最初に強く記憶に残るものが、フォーミュラカーだけではなく、なめろう定食になることを、この時の信治はまだ知らなかった。

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