Chapter 5 声をかけた理由
中村信治は、待ち合わせ場所に指定された店へ入る前に、スマートフォンの画面をもう一度確認した。
MUNE RACING。
名前はもちろん知っている。
LMP2で走ってきた日本のレーシングチームだ。
そして、次のシーズンからIGPへ参戦する。
そのチームの代表から、突然連絡が来た。
理由は聞かされていない。
ただ――会って話がしたい、と。
店内を見回すと、奥の席で一人の男が手を上げた。
「中村君?」
「はい」
「宗村です。わざわざありがとう」
立ち上がった宗村宗一は、信治が想像していたより普通だった。
世界最高峰へ挑もうとしているチーム代表。
もっと威圧感のある人物を勝手に想像していた。
「中村信治です。よろしくお願いします」
「どうぞ。座って」
向かい合って腰を下ろす。
飲み物を注文してからも、宗村はすぐ本題に入らなかった。
国内トップフォーミュラの話。
今のチームの話。
海外で走っていた頃の話。
信治は最初こそ警戒していたが、宗村の質問は妙に話しやすかった。
経歴を確認するような聞き方ではない。
「海外と日本で、車の作り方って違った?」
「結構違いましたね」
「どっちが好き?」
「どっち、というより……」
信治は少し考えた。
「エンジニアとちゃんと話ができるなら、どこでもいいです」
宗村の表情がわずかに変わった。
「ちゃんと話ができる?」
「俺が何か言った時に、それが正しいか間違ってるかじゃなくて、一回データと合わせて見てくれる人がいいです。感覚だけで全部決めるのも嫌ですけど、データだけで『違う』って言われるのも困るんで」
「なるほどね」
宗村はそれ以上掘り下げなかった。
信治は少し不思議に思った。
面接なのかと思っていた。
だが、どうも違う。
何かを試されている感じもしない。
しばらく話したところで、信治の方が耐えきれなくなった。
「あの」
「うん?」
「今日は、何の話なんでしょうか」
宗村が少し笑った。
「やっぱり気になる?」
「そりゃ気になりますよ」
「だよね」
テーブルの上で指を組む。
そして、あっさり言った。
「うちでIGPを走らない?」
信治は宗村を見た。
一瞬、意味が頭に入ってこなかった。
「……はい?」
「MUNE RACINGで走ってほしい」
今度は聞き間違えようがなかった。
「IGPですよね?」
「そう」
「俺が?」
「うん」
「……なんでですか?」
宗村は笑わなかった。
その反応を待っていたようにも見えた。
「それ、聞くと思った」
「聞きますよ」
信治は思わず身を乗り出した。
「俺、国内でチャンピオンになってないですよ」
「知ってる」
「1勝だけです」
「それも知ってる」
「表彰台だって――」
「表彰台は4回。年間ランキング最高は6位」
信治の言葉が止まった。
宗村は淡々と続ける。
「22歳から3年間。初優勝は24歳の時、雨のレース」
そこまで把握しているとは思わなかった。
「……調べたんですか?」
「調べたよ」
「そこまで?」
「そこまで」
宗村はテーブルの飲み物へ手を伸ばした。
「最初は公開されてるデータを見てた。そこで中村君がちょっと気になった」
「どこが?」
「それが最初は分からなかった」
「分からなかった?」
「うん。だから現地でレースを見た」
信治が黙る。
「現地で走りを見て、過去のレース映像も確認した。それでも気になったから、もう少し調べた」
宗村は具体的な情報源については触れなかった。
だが信治にも、それが単にインターネットで成績を検索したという意味ではないことは分かった。
「チャンピオンとも比べたよ」
信治の眉が動いた。
「今年の?」
「うん」
「だったら――」
宗村が先に言った。
「速いよ。今なら、君より速いと思う」
信治は一瞬だけ言葉を失った。
そこまで率直に言われるとは思っていなかった。
「……じゃあ、そっちに声をかければいいじゃないですか」
「そうはならなかった」
「どうしてです?」
宗村は少しだけ間を置いた。
「一番速い人を探してたわけじゃないから」
信治は黙って続きを待った。
「MUNEは新規参戦だよ。フォーミュラコンストラクターとしては1年生。これから失敗もする。たぶん、いっぱいする」
世界最高峰へ参戦するチームの代表が、自分たちは失敗すると言っている。
信治には、それが妙に引っ掛かった。
普通ならもっと景気のいい話をするのではないか。
勝てる。
成功する。
最高の環境を用意する。
だが宗村は、そう言わなかった。
「うちには藤原蒼真が来る」
その名前には、信治も反応した。
「藤原さんが?」
「うん」
宗村は頷く。
「藤原さんには経験がある。車を作れるし、チームが迷った時に基準を作ってくれる。でも、2人とも同じタイプにする必要はないと思ってる」
「それで俺?」
「中村君はまだ完成してない」
また、はっきり言われた。
信治は思わず苦笑した。
「結構言いますね」
「完成してるって言われた方がいい?」
「いや。それはさすがに嘘だと思います」
「でしょ?」
宗村も笑った。
空気が少しだけ緩んだ。
「でも、車のことを考えて走ってる。状況が変わった時の対応も悪くない。雨で勝ったレースも、雨が降ったから勝てただけじゃない」
信治の表情から笑みが消えた。
宗村は続けた。
「降る前からポイント圏で戦ってた。雨が来て周りのラップが崩れても、君は大きく崩さなかった。それで前へ出た」
信治自身にとっても忘れられないレースだった。
勝ったことだけではない。
自分が積み上げてきたものが、初めて結果になった日だった。
「そこまで見てたんですね」
「見ないでIGPのシート渡す方が怖いでしょ」
宗村は当たり前のように言った。
信治は返事をしなかった。
IGP。
子供の頃から見ていた世界だった。
海外へ渡った時も、その先にある場所として意識していた。
だが帰国し、国内トップフォーミュラを3年間走っても、そこへ届く具体的な道は見えなかった。
それが今、目の前に置かれている。
ただし、新規参戦チーム。
簡単な挑戦ではない。
「すぐ返事しなくていいよ」
宗村が言った。
「え?」
「大事なことだからね。今日会って、はい決めました、でいい話じゃない」
宗村はポケットから名刺を取り出し、テーブルに置いた。
「一回、うちを見に来ない?」
「MUNEを?」
「ファクトリーを実際に見た方がいい。俺の話だけで決める必要ないから」
信治は名刺を手に取った。
そこには、MUNE RACINGの名前と宗村宗一の名前。
そして所在地。
千葉県市原市。
「見て、話して、それから考えて」
信治はしばらく名刺を見ていた。
IGPのシートを提示された。
その事実だけなら、もっと浮かれてもいいはずだった。
だが今は、それ以上に知りたいことがあった。
MUNE RACINGとは、どんなチームなのか。
藤原蒼真と走るとは、どういうことなのか。
そして。
なぜ宗村宗一は、チャンピオンではなく自分を選んだのか。
その答えの一部は聞いた。
残りは、自分の目で確かめるしかない。
信治は顔を上げた。
「行きます」
「うん」
「MUNE RACINGを見せてください」
宗村はいつものように軽く笑った。
「もちろん」
もう一つのシートは、まだ正式には埋まっていない。
けれど、中村信治は初めて、その席へ続く道を自分の足で歩き始めた。




