Chapter 4 もう一つのシート
「もう一人、決めないとな」
宗村宗一がそう言ったのは、MR-00の完成が見えてきた頃だった。
市原のファクトリーでは、今日も試作車の周囲を何人ものスタッフが行き来している。
走らせる準備は進んでいる。
だが、そのステアリングを最初に握る藤原蒼真は、まだ旧所属先との契約期間中だ。
ならば待っている間に、やるべきことを進めればいい。
宗村が見ているのはMR-00ではなく、ノートパソコンの画面だった。
「何を決めるんです?」
書類を抱えて部屋へ入ってきた桐生美咲が訊いた。
宗村は画面から目を離さない。
「もう一つのシート」
桐生が足を止めた。
「ドライバーですか」
「うん。藤原さん一人じゃレースできないからね」
「それはそうですけど……」
桐生は宗村の机へ近づいた。
画面には国内トップフォーミュラのリザルトが並んでいる。
順位、予選結果、決勝結果。
宗村は何度もページを切り替えていた。
「国内から探すんですか?」
「まだ決めてないよ」
「じゃあ、何を見てるんです?」
「気になったから」
「何が?」
宗村がマウスを止めた。
「この人」
画面の一角を指す。
そこに表示されていた名前は――中村信治。
桐生が成績を見る。
3年間の国内トップフォーミュラ参戦。
通算1勝。
表彰台4回。
年間ランキング最高6位。
「悪くはないですね」
「うん」
「でも、IGPへ連れていくドライバーを探しているんですよね?」
「そうだよ」
「だったら、もっと上の人もいるでしょう」
当然の疑問だった。
MUNE RACINGは新規参戦チームだ。
経験も資金も、既存のIGPチームには及ばない。
だからこそドライバーには、少しでも実績のある人間を選ぶ。
そう考える方が普通だろう。
宗村も、それを否定するつもりはなかった。
「いるよ」
「なら――」
「でも、なんか変なんだよね」
桐生が宗村を見る。
「何がです?」
「数字」
「だから、その数字なら――」
「順位じゃない」
宗村は別の画面を開いた。
レースごとの予選順位と決勝順位。
さらに周回ごとの記録。
公開されている範囲のデータを、一つずつ並べていく。
「これ。あと、これも」
「……何を見てるんです?」
「まだ分かんない」
「分からない?」
「だから気になってる」
桐生はしばらく黙った。
こういう時の宗村を、彼女は知っている。
答えを持っているわけではない。
むしろ逆だ。
何かが引っ掛かったのに、その理由をまだ説明できない。
宗村は、そういうものを放っておけない。
「優勝したレースがありますね」
「雨」
「得意なんですか?」
「それも分からない」
宗村はレース記録を開いた。
中村信治、24歳。
国内トップフォーミュラ参戦3年目。
初優勝。
雨によって荒れたレースだった。
結果だけなら、そう説明できる。
だが宗村が見ていたのは、雨が降ってからではなかった。
「降る前からポイント圏を争ってるんだよ」
桐生も画面を見る。
「本当ですね」
「雨が降って、前が崩れた。それで上がっただけなら気にしなかったんだけど」
宗村は少しだけ身を乗り出した。
「降ってからも崩れてない」
一発だけ速いラップを出したわけではない。
無理に順位を上げようとしているようにも見えない。
だが、周囲のペースが乱れる中で、中村のラップだけが大きく崩れていなかった。
結果として順位が上がり、最後には先頭へ出ている。
「雨で1勝したドライバー、じゃない気がするんだよね」
「では、どういうドライバーなんです?」
宗村は少し考えた。
「それを知りたい」
桐生が小さく息を吐く。
「また始まりましたね」
「何が?」
「宗村さんの『気になる』です」
「悪い?」
「悪いとは言ってません。ただ、その顔をすると長いんですよ」
宗村は笑った。
だが視線はすぐに画面へ戻った。
◇
数日後。
宗村は国内トップフォーミュラの開催地を訪れていた。
映像で済ませるつもりはなかった。
結果を知りたいわけでもない。
中村信治がどんな走りをしているのか。
それを確認したかった。
スタート。
ブレーキング。
タイヤの使い方。
前の車との距離。
後ろから迫られた時の反応。
派手な場面だけを追わず、一台の車をできるだけ見続ける。
「……速い、だけじゃないな」
宗村が呟いた。
目の前で、中村が前車へ近づく。
ブレーキングは攻撃的だった。
だが、無謀ではない。
入れない場所で無理に飛び込まない。
逆に、相手がわずかに隙を見せた時は躊躇しなかった。
ファクトリーへ戻ると、別のレース映像も見返した。
さらに別のレースも。
テクニカルな区間では、とくに挙動が安定していた。
もちろん、現地で走りを追い、映像を見返しても、すべてが分かるわけではない。
ドライバーだけの力なのか。
セットアップが合っていたのか。
チームの戦略が良かったのか。
外からでは判断できないことの方が多い。
だから宗村は、そこで結論を出さなかった。
電話を手に取った。
連絡先を探す。
少し迷ってから、発信する。
「もしもし。お久しぶりです」
相手と短い挨拶を交わす。
そして宗村は言った。
「ちょっと聞きたいドライバーがいるんですけど」
◇
それから、宗村の机に置かれる資料が増えた。
一般には出てこない話もあった。
チームの中で、中村がどう評価されていたのか。
エンジニアへ何を伝えていたのか。
セットアップを変更した時、どのような反応を示していたのか。
宗村は一つの評判だけを信用しなかった。
聞ける範囲で、別の人間にも確認した。
そして許された範囲で、公開されていない走行データにも目を通した。
そこで、最初に感じた違和感が少しずつ形になっていった。
速い。
だが、それだけではない。
車の状態が変わっても、走りの基準を作り直すのが早い。
そして自分の感覚を、エンジニアが使える情報として返す能力がある。
新規参戦チームに必要なもの。
それを考えた時、宗村の中で中村信治という名前が少しずつ大きくなっていった。
それでも、一人だけを見て決めるつもりはなかった。
宗村は別の資料を開く。
その年の国内トップフォーミュラ王者。
当然、速い。
予選でも決勝でも結果を出している。
比較すれば、現時点の純粋な速さは王者の方が上だと宗村も判断した。
桐生が資料を覗き込む。
「こっちの方が速いんじゃないですか?」
「うん。速いと思う」
「だったら、この人にも声をかけるんですか?」
「かけない」
即答だった。
桐生が宗村を見る。
「なぜです?」
宗村は2人分の資料を机へ並べた。
1人は、その年のチャンピオン。
もう1人は、年間ランキング最高6位。
実績だけなら迷う必要はない。
だが、宗村が作ろうとしているのは完成されたIGPチームではなかった。
フォーミュラカーを一から学び、MR-00で失敗し、その先でMR-01を作ろうとしているチームだ。
そして1台目には藤原蒼真が乗る。
速さだけではない。
車を作れるベテラン。
経験を言葉にできるドライバー。
その隣に、誰を置くのか。
「うちに必要なのは、一番速い人じゃない」
宗村が言った。
「じゃあ?」
「藤原さんと一緒に、MUNEを育てられる人」
桐生はもう一度、中村の資料を見る。
「中村信治……」
「うん」
「決めたんですか?」
宗村は少しだけ考えた。
数週間前なら、まだ答えられなかった。
公開された数字を見て。
実際のレースを見て。
人から話を聞いて。
データを確認して。
そして、チャンピオンとも比べた。
その上で残った名前だった。
「決めた」
宗村は中村信治の資料を手に取った。
「この人に会おう」
もう一つのシート。
そこへ座る人間を探す作業が、ようやく次の段階へ進んだ。




