Chapter 3 走れない車
MR-00に、4本のタイヤが付いた。
ただそれだけのことなのに、宗村宗一は少し離れた場所からしばらく車を眺めていた。
低いノーズ。剥き出しのタイヤ。LMP2とはまるで違う姿。
旧型LMP2の資産から始まった車が、ようやく1台のフォーミュラカーらしく見えるようになっている。
「できた?」
後ろから神谷英治の声が飛んだ。
「まだだ」
「聞いただけなんだけど」
「顔に書いてある」
宗村は笑いながらMR-00へ近づいた。
作業をしていた柴崎哲也が、車体の横から立ち上がる。
「組むところまでは、だいぶ来ました」
「じゃあ、もうすぐ走れる?」
柴崎は答えず、神谷を見た。
神谷が腕を組む。
「車だけならな」
その言葉の意味は宗村にも分かっていた。
MR-00を走らせるドライバーは、すでに決まっている。
藤原蒼真。
だが、藤原にはまだ旧所属先との契約が残っている。
MUNEと契約したからといって、その契約を無視してMR-00へ乗せることはできない。
「藤原さん、早く乗りたそうだった?」
「知らん」
「聞いてないの?」
「乗れるようになる前に聞いてどうする」
神谷らしい返事だった。
宗村はコクピットを覗き込んだ。
「せっかくできそうなのに、走れないのって変な感じだね」
「ちょうどいい」
「何が?」
「止まってる間に見るところはいくらでもある」
柴崎が頷く。
「走らせてから『ここ触れません』じゃ遅いですからね」
MR-00は、速さを証明するための車ではない。
MUNEが知らないことを見つけるための車だ。
ならば、走らない時間にも意味がある。
柴崎が車体の一部を指した。
「ここ、前よりは良くなりました。ただ、この状態で急いで作業すると、まだ工具の角度がきついです」
神谷がしゃがみ込む。
「交換頻度は?」
「走らせてみないと何とも。ただ、壊れたときに触る可能性はあります」
「なら直す」
「性能は変わりませんよ」
「だから今直すんだ」
宗村は2人のやり取りを黙って聞いた。
以前なら、神谷は性能を考え、柴崎が整備性を考える――そんな単純な分け方をしていたかもしれない。
今は違う。
設計する側が、直す側の都合を見る。
直す側も、ただ楽に作業したいのではなく、なぜ必要なのかを説明する。
フォーミュラカーを作るという作業が、少しずつチーム全体の仕事になっていた。
「宗村さん」
声を掛けたのは桐生美咲だった。
手にファイルを抱えている。
「今度は邪魔してませんよね?」
「まだ何も言ってません」
「先に確認しておこうかと」
「自覚があるなら大丈夫です」
宗村は少し傷ついた顔をしたが、桐生は気にしない。
「LMP2側の次の予定、まとめました。MR-00へ回している人員も、この範囲なら問題ありません」
宗村はファイルを受け取った。
「無理してない?」
「させてません」
桐生は即答した。
「IGPへ行くために今のレースを壊したら、本末転倒ですから」
「うん」
「それと、MR-00側も急がせすぎないでください」
宗村が神谷を見る。
「俺より神谷さんに言った方がよくない?」
「宗村さんです」
「なんで?」
「完成が見えてくると、真っ先に『早く走らせよう』と言いそうだからです」
否定できなかった。
神谷が小さく笑う。
宗村はMR-00へ視線を戻した。
確かに、走るところは早く見たい。
エンジンが始動し、自分たちが作ったフォーミュラカーがコースへ出ていく。
想像するだけで胸が躍る。
だが、そのために順番を飛ばしてはいけない。
「待つよ」
宗村が言った。
桐生が少し意外そうな顔をする。
「素直ですね」
「藤原さんの契約が終わるまで待つ。こっちはその間に、できることを全部やる」
神谷が頷いた。
「それでいい」
「ただし」
宗村はMR-00を指した。
「乗れるようになったら、すぐ走れる状態にはしておこう」
「それは最初からそのつもりだ」
柴崎も作業へ戻る。
車体の下へ潜り、確認を始めた。
宗村はもう一度、MR-00の周囲を歩いた。
塗装も装飾も、この車には重要ではない。
レースへ出るわけでもない。
観客の前で速さを競うこともない。
それでも、この1台を作るために多くの人間が考え、手を動かした。
失敗した。
直した。
また別の問題を見つけた。
そして今、ようやく1台の車になろうとしている。
「神谷さん」
「なんだ」
「走らせたら、いっぱい問題出るかな」
「出なきゃ困る」
宗村は笑った。
MR-00を作り始めた頃なら、少し妙に聞こえた言葉だったかもしれない。
だが今は、その意味がよく分かる。
MR-00が完璧なら、この車を作った意味がない。
ここで見つけた問題の数だけ、MR-01で避けられる失敗が増える。
その日の作業が終わりに近づいても、MR-00は動かなかった。
エンジン音もない。
タイヤが回ることもない。
それでも車の周りでは、人が動き続けている。
走れないから、止まっているのではない。
走れる日までに、できることを積み重ねている。
宗村はMR-00を見ながら、静かに呟いた。
「待ってる時間も、無駄じゃないな」
隣にいた桐生が答える。
「宗村さんがそれを言えるなら、少し安心しました」
「俺、そんなにせっかち?」
「はい」
即答だった。
宗村は苦笑した。
MR-00は、ほぼ完成した。
けれど、まだ走らない。
MUNE RACINGは初めて、自分たちで作ったフォーミュラカーが走り出す日を待っていた。
そしてその先には――。
MR-00で見つけるはずの失敗と、そのすべてを受け取るMR-01が待っている。




