Chapter 2 切り替える日
ル・マンから戻ったファクトリーには、まだ遠征の空気が残っていた。
運び込まれた機材。開かれたケース。作業台に並べられた部品。
メカニックたちはLMP2マシンの点検を進めている。
シーズンは終わっていない。
次のレースもある。
だから、仕事が終わったわけではなかった。
ただし――これまでとは違う。
神谷英治はLMP2マシンの前で、外された部品をしばらく眺めていた。
「ここは交換でいい」
柴崎哲也が確認する。
「改良は?」
「しない。現行仕様で最後まで持たせる」
柴崎は一瞬だけ神谷を見た。
「了解」
それ以上は聞かなかった。
少し離れたところで、そのやり取りを聞いていた宗村宗一が腕を組む。
LMP2を捨てるわけではない。
残るシーズンを手抜きするつもりもない。
必要な整備を行い、信頼性を確保し、最後まで戦う。
だが、大きな開発はここで止める。
限られた人と金と時間を、2つの方向へ同時に全力投入することはできない。
宗村が神谷へ近づいた。
「寂しい?」
「何が」
「開発止めるの」
神谷は外された部品へ目を戻した。
「止めるんじゃない。移すんだ」
宗村が笑う。
「そっか」
「こっちを最後までちゃんと走らせる。それとは別に、次を作る。それだけだ」
神谷は歩き出した。
向かった先には、MR-00がある。
以前まで少人数で進めていた作業に、少しずつ人が加わり始めていた。
まだ完成車ではない。
だが、少人数で準備を始めた頃とは明らかに違う。
1台のフォーミュラカーらしい輪郭が見え始めている。
柴崎も2人の後を追ってきた。
「人、こっちに回します?」
神谷が答える。
「一気には回さない。LMP2側の作業を見ながらだ」
「了解」
宗村がMR-00を見る。
「完成、見えてきた?」
「形だけならな」
「形だけ?」
神谷が宗村を見た。
「走ってない車を完成したって言うのか?」
「言わない」
「なら聞くな」
相変わらずだった。
だが宗村には、神谷が以前よりMR-00を見る時間を増やしていることが分かっていた。
最初は未知のフォーミュラカーを理解するための実験だった。
今は、その実験が1台の車になろうとしている。
柴崎が車体の脇へしゃがみ込んだ。
「神谷さん、ここなんですけど」
「またか?」
「またです」
神谷も腰を落とす。
柴崎が指したのは、作業のために手を入れるには窮屈な箇所だった。
「外せます。でも、これを現場で急いでやるのは嫌ですね」
「前にも似たようなのがあったな」
「フォーミュラって、狭いですね」
「今さら気づいたのか」
「実際に組むと違いますよ」
宗村も覗き込もうとする。
「俺も見る」
「邪魔です」
柴崎に即答された。
「ひどくない?」
「本当に邪魔なので」
宗村は素直に下がった。
そこへ桐生美咲がやってくる。
「何してるんですか?」
「邪魔って言われた」
「そうでしょうね」
「美咲さんまで……」
桐生は宗村を放っておき、神谷を見る。
「人員の振り分け、確認しました。LMP2側のレース準備に影響が出ない範囲から順番に移します」
「ああ。それで頼む」
「MR-00を優先するからといって、今の仕事を雑にはできませんから」
宗村が頷いた。
「うん。それは絶対」
その返事だけは早かった。
桐生もそれ以上は言わない。
長く一緒に仕事をしてきたから分かる。
宗村は新しいものに目を向ける。
だが、今まで積み上げたものを簡単に捨てる人間ではない。
LMP2で積み上げてきた信用があったから、MUNEは次へ進める。
ならば最後まで、その信用を傷つけるような仕事はしない。
神谷が立ち上がった。
「宗村さん」
「ん?」
「こっちへ比重を移すなら、1つ決めておくぞ」
「何?」
「MR-00を速くするための開発競争はしない」
宗村の表情から笑みが消えた。
神谷は続ける。
「走らせれば欲が出る。もっと速くできる、ここを直せばタイムが出るってな。でも、こいつに金と時間を使いすぎたら本末転倒だ」
柴崎も黙って聞いている。
「MR-00は本番車じゃない。俺たちが勉強するための車だ。ここで分かったことを次へ持っていく。直す価値のないものまで直さない」
宗村はMR-00を見た。
「MR-01のために?」
「ああ」
その名前が、ファクトリーの中で妙に重く響いた。
MR-01。
MUNE RACINGがIGPを戦う、本当のマシン。
MR-00は、そのための答えではない。
あのとき、宗村自身がそう考えた。
最初の問い。
なら、問いそのものを完璧にする必要はない。
「分かった」
宗村が言う。
「MR-00で勝とうとしない」
「レースに出ない車で誰に勝つんだ」
「自分たち?」
「そういう話じゃない」
桐生が小さく息を吐いた。
「でも、宗村さんならやりかねませんから、神谷さんが先に言っておくのは正解だと思います」
「俺、そんなに信用ない?」
「逆です」
桐生はMR-00を見た。
「やると決めたら、やりすぎるところがあるから言ってるんです」
宗村は少しだけ黙った。
それから笑う。
「気をつけます」
「本当にお願いします」
柴崎が作業へ戻る。
神谷も図面を取りに歩き出した。
桐生は次の仕事へ向かう。
宗村だけが、その場に残った。
右を見れば、LMP2マシンがある。
MUNEをここまで連れてきた車。
左にはMR-00。
まだ一度も走っていない、未来のための車。
片方を捨てて、片方を選ぶわけではない。
最後まで今を戦いながら、次の準備をする。
それが今のMUNEにできることだった。
やがて、MR-00側から神谷の声が飛ぶ。
「宗村さん、見てるだけなら手を動かせ」
「代表なんだけど」
「知ってる」
宗村は笑いながら歩き出した。
ル・マンが終わった。
だが、MUNE RACINGのシーズンはまだ終わっていない。
そして同時に――。
次のシーズンは、もう始まっていた。




