Chapter 1 知らないことを知る
千葉県市原市のファクトリーでは、いつもの作業が続いていた。
LMP2マシンの整備を進めるメカニック。その横を部品を抱えたスタッフが通り過ぎる。工具の音が響き、ときおりエンジン関連の作業について短い声が飛ぶ。
IGPへの挑戦を決めたからといって、翌日からすべてが変わるわけではない。
MUNE RACINGには、まだ戦うべきLMP2のシーズンが残っている。
その作業エリアから少し離れた一角で、神谷英治は図面を前に腕を組んでいた。
「やっぱり、違うな」
隣にいた宗村宗一が覗き込む。
「何が?」
「全部だよ」
神谷は面倒そうに答えた。
机の上にあるのは、IGP参戦車の図面ではない。
MR-00。
MUNEが初めて手掛ける、フォーミュラ型の技術習得車だった。
ベースにするのは、LMP2最終シーズンの1つ前に使用した旧型シャシーやエンジンなどの資産。使えるものは使う。ただし、それらを単純に組み替え、タイヤを剥き出しにすればフォーミュラカーになるほど甘くはない。
神谷は図面の一点を指した。
「今までなら、ここはこう考えればよかった。でもフォーミュラだと、同じ考え方がそのまま通る保証がない」
「じゃあ、試そう」
「簡単に言うな」
「だって、分からないんでしょ?」
神谷が宗村を見る。
宗村は真顔だった。
「分からないなら、作って試すしかないじゃん」
「金がかかる」
「だから古いの使ってるんじゃない」
「時間もかかる」
「だから少人数で先に始めた」
神谷は何も言わなくなった。
こういうときの宗村は、妙に話が早い。
無茶を言っているようで、無茶をするための逃げ道は先に作ってある。
そこへ柴崎哲也がやってきた。
「神谷さん」
「どうした?」
「例の取り付け位置、やっぱり厳しいです。このままだと整備するたびに周りを外すことになります」
神谷が図面から顔を上げる。
「見せてくれ」
三人で車両のところへ移動した。
まだMR-00は、1台の完成車には見えない。
既存資産を活用しながら、これまでMUNEが扱ったことのない構成へ変えようとしている途中だ。
神谷が問題の箇所へ手を伸ばした。
柴崎が工具を差し込む。
途中で止まった。
「ほら」
「入らないか」
「入ります。ただ、これじゃ現場でやりたくないですね」
宗村が横から覗き込んだ。
「壊れたら?」
「急いで直そうとして、別のところ壊すかもしれません」
「それは嫌だな」
「嫌で済ませないでください」
柴崎の返しに、宗村が笑う。
神谷は笑わなかった。
「位置を見直す」
即答だった。
宗村が尋ねる。
「性能的には今の方がいいんじゃない?」
「だから何だ」
神谷は車体を見たまま答えた。
「速くても直せない車はいらん。まして、こいつは速さを競う車じゃない」
その言葉に、宗村の表情が変わった。
「うん」
MR-00の目的は、速いフォーミュラカーを作ることではない。
MUNEがフォーミュラカーを知らないという事実を、一つずつ具体的な問題に変えていくことだった。
知らないままMR-01を設計するより、ここで間違えた方が安い。
ここで壊した方がいい。
ここで「分からない」と言えた方がいい。
宗村はMR-00を眺めた。
「これ、遅くてもいいんだよね」
神谷が振り向く。
「速い方がいいに決まってるだろ」
「どっちだよ」
「目的を間違えるなって話だ。速くするために金を使い始めたら終わりだ。こいつで必要なのは、何を変えたら何が起きるのかを俺たちが理解することだ」
柴崎が工具を片付けながら頷いた。
「壊れるなら、壊れ方も分かった方がいいですね」
「そういうことだ」
宗村は二人の顔を交互に見た。
「なんか楽しそうだね」
「どこがだ」
神谷が即座に返す。
「だって、分からないことだらけなんでしょ?」
「それを普通は大変だと言うんだ」
「でも、1個分かったら、1個減るじゃん」
神谷は呆れた顔をした。
柴崎は小さく笑っていた。
そこへ桐生美咲が入ってきた。
手には書類がある。
「宗村さん。ここにいたんですね」
「何かあった?」
「確認していただきたいものがあります。それと神谷さん、LMP2側の作業予定も確認をお願いします」
「ああ」
桐生はMR-00へ視線を向けた。
「進んでます?」
宗村が答えようとしたところで、神谷が先に口を開いた。
「問題が1つ増えた」
「そうですか」
桐生は驚かなかった。
宗村が横から付け加える。
「でも、分からないことが1個分かった」
「それは前進なんですか?」
「俺はそう思う」
桐生は少し考えてから神谷を見る。
神谷は渋い顔で頷いた。
「まあ、間違ってはいない」
「なら前進ですね」
あっさり言って、桐生は宗村へ書類を渡した。
宗村が受け取る。
「美咲さん、最近ちょっと神谷さん寄りじゃない?」
「宗村さん寄りになると誰が止めるんですか」
柴崎が吹き出した。
神谷まで口元を緩める。
宗村だけが不満そうな顔をした。
だが、すぐにMR-00へ視線を戻した。
まだ走れない。
完成もしていない。
これが正しい形なのかさえ、誰にも分からない。
それでも、MUNEにとっては最初のフォーミュラカーだった。
世界最高峰へ挑むための第一歩。
いや――宗村は考え直した。
第一歩というには、少し違う。
これは歩き出す前に、自分たちの足元を確かめるための車だ。
「神谷さん」
「なんだ」
「失敗しよう」
神谷の眉間に皺が寄った。
「言い方を考えろ」
「安いうちに」
「もっと悪い」
「じゃあ――」
宗村はMR-00を見ながら笑った。
「本番でやらなくて済む失敗を、全部ここでやろう」
今度は、神谷も否定しなかった。
ファクトリーには、再び工具の音が響き始める。
LMP2を戦うチームの日常は続いている。
その片隅で、まだ誰にも知られていない1台が、少しずつ形になろうとしていた。
MR-00。
それはMUNE RACINGが世界へ挑むために造った、最初の答えではない。
最初の問いだった。




