Prologue Every Lap Matters.
千葉県市原市の臨海工業地帯に、夜が降りていた。
昼間は大型車が行き交う道路も、この時間になると交通量が減る。遠くに並ぶ工場の灯りが、低い雲をぼんやりと照らしていた。
MUNE RACINGのファクトリーにも、まだ明かりが残っている。
作業エリアには、LMP2を戦ってきた痕跡がそこかしこにあった。
工具棚。タイヤラック。作業台。使い込まれた機材。
華やかなショールームとはほど遠い。
だが、ここには何もないわけではない。
世界の耐久レースのLMP2クラスを戦い、勝ち、負け、壊し、直し、また走ってきた時間がある。
その一角で、神谷英治は腕を組んでいた。
「簡単にはいかないぞ」
向かいにいる宗村宗一が、少しだけ笑う。
「知ってる」
「LMP2とは別物だ」
「それも知ってる」
「俺たちはフォーミュラコンストラクターじゃない」
「だから、これからなるんじゃない?」
神谷が黙った。
48歳のテクニカルディレクターは、目の前の男との付き合いが長い。
宗村が軽い調子で話しているときほど、本気であることも知っていた。
少し離れた場所では、桐生美咲が書類を抱えて二人を見ている。
「宗村さん」
「はい」
「『何とかなります』は禁止ですからね」
「まだ言ってないよ」
「言う前に止めました」
宗村が苦笑する。
神谷が小さく鼻で笑った。
35歳の桐生は、アルバイトとしてこのチームに入った頃から宗村を見てきた。
人が増えた。
仕事も増えた。
遠征先も増えた。
小さかったチームはLMP2を戦うようになり、やがて世界の舞台で勝つまでになった。
それでも宗村は変わらない。
無茶を言う。
そのくせ、本当に無謀なことは意外としない。
桐生は抱えていた書類を作業台へ置いた。
「本当にやるんですね」
宗村の表情から、笑みが少し消えた。
「うん」
IGP World Championship。
11チーム、22台。
世界最高峰のフォーミュラレース。
そこへ、MUNE RACINGが挑む。
もちろん、LMP2で勝ったからといって、そのまま通用する世界ではない。
フォーミュラカーを一から造った経験すらない。
必要になる人材も違う。
設備も足りない。
金だって、いくらあっても足りないだろう。
だからこそ、宗村たちはすでに動き始めていた。
旧型LMP2の資産を活用して、1台の車を造る。
MR-00。
レースに出すための車ではない。
速さを証明するためでもない。
自分たちがフォーミュラカーについて、何を知らないのかを知るための車だった。
神谷が作業エリアの奥へ目を向ける。
「まずはMR-00だ。あれでどこまで分かるか」
「どこまで分からないか、じゃない?」
宗村の言葉に、神谷が振り返った。
「同じことだ」
「そう?」
「少なくとも、宗村さんよりは現実を見てる」
「ひどいなあ」
「神谷さんの言う通りです」
桐生まで加わった。
「美咲さんまで?」
「IGPに出ると言い出した人が何を言ってるんですか」
「2対1か」
宗村は肩をすくめた。
その視線が、壁へ向く。
そこには以前から、1枚のプレートが掲げられていた。
Every Lap Matters.
一周一周に意味がある。
MUNE RACINGが歩いてきた時間そのものだった。
派手な資金力があったわけではない。
最初から優れた設備が揃っていたわけでもない。
できることをやった。
失敗すれば直した。
約束したことを守った。
完走し、結果を持ち帰り、次へつなげた。
その積み重ねで、ここまで来た。
宗村がプレートを見上げたまま言った。
「これさ」
桐生と神谷も視線を上げる。
「ただの格好いい言葉じゃないんだよ」
神谷は何も言わなかった。
桐生も黙っている。
二人とも、それくらいは知っている。
宗村は続けた。
「これは約束だ」
ファクトリーの奥で、何かを片付ける金属音が響いた。
まだ仕事をしているスタッフがいる。
LMP2を戦ってきた仲間たちだ。
やがて新しい人間も加わる。
知らない技術を学び、設備を増やし、失敗しながら1台のフォーミュラカーを造る。
その先に、世界がある。
神谷が宗村を見る。
「何を約束するんだ?」
宗村は少し考えた。
そして、いつもの調子で笑った。
「世界一を目指そう」
桐生が一瞬、目を丸くする。
神谷は深く息を吐いた。
「目標だけは金がかからんな」
「いいこと言うね」
「褒めてない」
宗村は笑った。
だが、その目はプレートから離れなかった。
世界一。
今のMUNEには、あまりにも遠い言葉だった。
フォーミュラカーすら、まだ満足に知らない。
IGPで戦うマシンもない。
足りないものを数えれば、きりがない。
それでも――。
ここには、すでに積み上げてきたものがある。
宗村宗一、42歳。
彼が作った小さなレーシングチームは、次の一周へ進もうとしていた。
まだ誰も、その先に何が待っているのか知らない。
ただ1つだけ、決まっていることがある。
どんな一周であっても、無駄にはしない。
Every Lap Matters.
MUNE RACINGの挑戦が、始まる。




