Chapter 65 路線バスでやってきた訪問者
開幕戦から数日後、MUNE RACINGの公式アカウントに1通のメッセージが届いた。
送信者は、マウリシロチャンネルを運営するBOWtuberの石片白美と名乗っていた。
橘ことねがメッセージを開くと、オーストラリアGPを見たこと、ことねのブログを読んだこと、市原ファクトリーを訪ねて話を聞きたいことが、関西弁を交えた文章で書かれていた。
ことねは返信する前に、記載されていたチャンネルを確認した。
登録者数は52万人。ローカル路線バスを乗り継ぐ旅とオリジナルソングの配信を中心に、白美が各地で出会った人々との交流を飾らずに届けている。
ことねが注目したのは、登録者数だけではなかった。公開されている動画はいずれも安定して視聴され、中には登録者数を上回る再生数を記録しているものもあった。
「玲奈さん、少し見てもらえますか?」
声をかけられた白石玲奈が、ことねのモニターをのぞき込んだ。
「個人で運営しているチャンネルとしては、かなり大きな規模ですね」
「登録していない人も、たくさん見ているみたいです」
白石は動画の一覧と、白美から届いたメッセージを見比べた。
「MUNE RACINGの公式発信とは、見ている人たちが違うかもしれません。ただ、ファクトリーへの訪問を認めるかは私たちだけでは決められないので、美咲さんにも相談しましょう」
「はい」
ことねは、白美がこれまでに公開した動画も確認した。立ち入りを断られた場所では撮影を止め、偶然映り込んだ人の顔には処理が施されている。許可を得ずに施設へ押しかけたような内容も見当たらなかった。
桐生美咲を交えた確認の結果、撮影範囲を限定し、ことねが同行することを条件に訪問を受け入れることになった。
返信にはことね個人の連絡先ではなく、チームの業務用アドレスが使われた。
*
訪問当日、白美は路線バスを乗り継いで市原へ向かっていた。
乗車中はスマートフォンをバッグへしまい、ライブ配信を行うのは乗り換え先の停留所でバスを待っている間だけだった。
「次のバスまで、ちょっと時間あるみたいです。せやけど、こういう待ち時間もバス旅のうちやからな」
道路の向こうからバスが近づいてくると、白美は時刻表と行き先を確かめた。
「そろそろ来ました。それじゃ、また次の乗り換えで」
配信を終え、スマートフォンをバッグへ戻してからバスへ乗る。
乗り換えるたびに窓の外の景色が変わり、市街地を離れたバスは工場や倉庫の並ぶ地域へ入っていった。
白美は最寄りの停留所で降りると、ファクトリーへ向かう前にもう一度だけ配信を始めた。
「ちゃんと着きました。この先は、まだ撮影してええ場所やないから、今日はここまでです。中の様子は、きちんと許可をもらえたら、また見てもらいます」
配信を切り、スマートフォンをバッグへ入れる。
しばらく歩くと、蒼、オレンジ、シルバーの看板が見えてきた。
「ほんまに着いた……」
白美は小さく息を整えてから、受付へ向かった。
待っていたことねが声をかける。
「石片白美さんですね。橘ことねです」
「はい。マウリシロいう名前でBOWtuberをやってます。お返事をくれた人ですよね?」
「そうです。本日は撮影できる場所が限られていますので、判断に迷った時は、撮影する前に聞いてください」
「分かりました。勝手には撮りません」
白美はそう答えると、バッグにしまったスマートフォンを取り出すことなく、ことねの案内に従った。
その日は水曜日だった。昼時に重なったため、ことねは最初に食堂へ案内した。
壁にはLMP2時代の写真が並び、開幕戦を終えたスタッフたちが、それぞれの席で昼食を取っている。
「レースチームいうたら、もっとずっと緊張してる場所やと思ってました」
「走っていない時まで張り詰めていたら、続きませんから」
白美が券売機の前で品書きを見上げた。
「水曜限定、醤油ラーメン……」
「食堂の曜日限定メニューです」
「限定いう言葉には弱いねん。これにします」
食券を受け取った牧村和代が、厨房の中から白美を見た。
「初めて見る顔だね。見学の人?」
「はい。石片白美です。よろしくお願いします」
「ゆっくり食べていきな。できたら呼ぶから」
しばらくして、湯気を立てる醤油ラーメンがカウンターへ置かれた。白美は丼から立ち上る香りを吸い込み、最初のひと口を慎重にすすったあと、何も言わないまま、もうひと口食べる。
「どうですか?」
向かいに座ったことねが尋ねた。
「これ、ほんまに社員食堂のラーメン?」
「そうです」
「次も水曜日に来たい」
即答した白美に、和代が厨房から声をかけた。
「まだ食べ終わってないだろ」
「もう決めました。これを食べるためだけでも来たいです」
「毎週来られても、見学はできないですよ」
ことねに言われ、白美は箸を止めた。
「ラーメンだけ食べに来るんも、あかん?」
「それは私には決められません」
「そっか……」
残念そうに答えながらも、白美はすぐに食事へ戻った。丼が空になる頃には、水曜限定の味を気に入ったことが、誰の目にも分かるほど表情へ出ていた。
*
食事を終えたあと、ことねは来客に公開できる範囲を案内した。
「ことねちゃんも、ここで働いて長いん?」
「いえ。私もIGP参戦に向けて加わったばかりです」
「そうなんや。ブログを読んでたら、もっと前からおる人みたいやった」
「まだ知らないことの方が多いです。だから、分からないまま書かないようにしています」
白美は、その答えに何度かうなずいた。
作業場所の手前で、ことねがここから先は撮影できないと伝える。白美はスマートフォンを出さず、少し離れた位置からMR-01を見つめた。
開幕戦を走り終えた2台は、すでに点検作業へ入っていた。外された部品の前ではメカニックが状態を記録し、別のスタッフが次の作業に必要な部品や工具を運んでいる。
「テレビやと、走ってるところしか見えへんかったけど……帰ってきてからも、ずっとレースなんですね」
「次のレースへ向けた準備は、もう始まっています」
「こういう仕事のこと、もっと知りたいな」
白美の言葉に、撮影できないことへの不満はなかった。テレビには映らなかった人たちが次のレースへ向けて働く姿を、もっと知りたいという興味が表れていた。
*
見学を終えると、白美は会議室で白石と桐生に向き合った。ことねも隣の席に座っている。
「今日は、ありがとうございました。来る前より、MUNE RACINGのことが気になりました」
「開幕戦の結果を見て、興味を持ったのですか?」
白石が尋ねた。
「結果も見ました。でも、順位だけやったら、たぶんここまで来てへんと思います」
白美はことねを見た。
「ブログに、走ってる人だけやのうて、準備してる人や食事を作ってる人のことも書いてあったやないですか。レースって、こんなにいろんな人でやってるんやって、初めて知ったんです」
「それで、路線バスを乗り継いで来たのですか?」
「はい。電車で来るより、うちらしいかなと思って。それに、あのラーメンも知れましたし」
「ラーメンは、来てからでしょう」
「次に来る理由にはなりました」
ことねは、先ほど確認した動画の再生数を思い出した。
「白美さんの動画は、登録者数より多くの人に見られることがあるんですね」
「うちの動画、年上の人もよう見てくれてはるんです。でも、チャンネル登録のやり方までは分からへん人も多いみたいで、新しい動画が出たら毎回名前を検索して見に来てくれはるんですよ」
「それで、登録者数以上の人が動画を見ているんですね」
「せやけど、数字が大きいだけではあかんと思ってます。見に来てくれた人に、また見たいって思ってもらわんと続かへんから」
白美は一度息をつき、姿勢を正した。
「それで、お願いがあります。これからもMUNE RACINGの日常を撮らせてもらえませんか?」
桐生の表情がわずかに引き締まった。
「今日ご覧いただいた中にも、外へ公開できないものがあります」
「はい。そこは、ことねちゃんたちに確認してもらいます。勝手に出すことはしません」
「継続的な撮影となれば、案内や確認を担当するスタッフも必要になります」
「毎日来たりはしません。撮ってええ日と場所を先に決めてもらえたら、その中でやります」
白石が白美を見る。
「動画を制作することだけが、今回のご提案ではありませんね?」
「はい。スポンサーって言い方で合ってるか分からへんのですけど、MUNE RACINGを撮った動画で入ったお金のうち、7割をチームへ渡したいんです」
「7割を、ですか?」
「うちの動画は、見てくれる人がおって初めてお金になります。その人たちがMUNE RACINGを見に来てくれた分は、チームにも返したいんです」
白石はすぐには答えなかった。
固定額を支払う従来のスポンサーとは異なり、動画の収益は一定ではない。撮影場所の管理だけでなく、編集された映像を公開前に確認する仕組みも必要になる。
「ご提案の意図は分かりました。ただ、その形で受けられるかは、契約内容を整理しなければ判断できません」
「撮影範囲と、公開前の確認方法も決める必要があります」
桐生が続けた。
「私たちだけではなく、経理にも確認します。今日はお返事できません」
「はい。考えてもらえるだけで十分です」
白美は頭を下げた。
白石の前には、これまで扱ったことのないスポンサー提案が残された。
登録者52万人のチャンネルを持つBOWtuberの白美が求めたのは、MR-01へ自分の名前を大きく掲げることではない。
ことねのブログを読んで初めて知ったMUNE RACINGの日常を、自分の動画を見ている人たちにも伝え、その収益の一部をチームへ返したいという申し出だった。
路線バスを乗り継いで市原へやって来た19歳の訪問者は、これまでレースを見てこなかった人たちとMUNE RACINGをつなぐ、新しい入口になろうとしていた。




