Chapter 64 丁寧な仕事が報われる時
白石玲奈が送ったA4のレポートに返信が届いたのは、翌日の午前だった。
差出人は、マッスルピヨ代表の鈴木太郎。開幕戦の報告を読んだうえで、改めてMUNE RACINGの話を聞きたいと書かれていた。
「先方から面談を申し込んできたんですか?」
橘ことねが、白石の机へ身を寄せる。
「ええ。ただし、契約するとは書かれていません。今度は話を聞いてもらえるというだけです」
「でも、一度断られた会社ですよね。かなり前進じゃないですか」
「前進した時ほど、焦らないことです」
白石は返信文を確認し、面談の日程を決めた。
開幕戦を完走したからといって、条件を書き換えた提案書は用意しなかった。以前提示した契約条件は変えず、MUNE RACINGが開幕戦までに積み上げたものを鈴木自身に判断してもらうつもりだった。
*
数日後、鈴木は市原ファクトリーを訪れた。
応接室へ向かう途中、整備区画の前で足を止める。分解されたMR-01の周囲では、メカニックたちが計測と点検を続けていた。
「開幕戦を走った車ですか?」
「はい。こちらが藤原の7号車、奥が中村の22号車です」
白石が答える。
「テレビでは完成した車に見えましたが、戻ってくると、またここまでバラすんですね」
「58周を走ったことで、どこに負担がかかり、何を直す必要があるのか確認できます。そのまま次のレースへ送り出すわけにはいきませんから」
鈴木は取り外された部品と、計測を続けるメカニックたちへ視線を向けたあと、白石とともに応接室へ入った。
室内には、宗村宗一と桐生美咲が待っていた。
「本日はありがとうございます。代表の宗村です」
「マッスルピヨの鈴木です。以前はお断りしたのに、こうして時間をいただいてすみません」
「いえ。白石さんは、断られてからが長い人ですから」
「宗村さん」
白石の低い声に、宗村は姿勢を正した。
「悪い意味じゃないですよ。普通なら一度で終わるところを、その後も資料を送っていたでしょう」
鈴木はうなずいた。
「新しいスポンサー枠の案内、公開テストの結果、チーム体制の変更。白石さんから届いたのは契約を迫る連絡ではなく、MUNE RACINGが今どこまで進んでいるのかを判断するための情報でした」
白石は、以前と同じ提案書を机の上へ置いた。
「当時お伝えした条件は、現在も変えていません。開幕戦を完走したから契約額を上げることも、ポイントを獲得できなかったから下げることもありません」
「正直ですね」
「条件を変えて契約だけを得ても、長く続かなければ意味がありません」
鈴木は提案書を開く前に、白石から届いたA4のレポートを取り出した。
「私がもう一度話を聞こうと思ったのは、こちらを読んだからです。10位と14位で、獲得ポイントは0。それを隠さず、初参戦までに何を準備し、58周から何を持ち帰ったのかが書かれていました」
「0点だったことも、私たちの開幕戦ですから」
桐生が答えた。
「都合の悪い部分を外へ出さないという判断もできます。ただ、それを鈴木さんへ伝えないまま協力を求めることはできません」
「うちの会社も、最初から全国に店舗があったわけではありません。始めたばかりの頃は、入会してもらうこと以上に、その後も通い続けてもらうことが難しかった」
鈴木はレポートの表題を指でなぞった。
「だから私たちは、『ゼロからはじめてずっと通いたくなる』をコンセプトにしてきました。初参戦で0点だった事実を隠さず、そこから次へ進もうとするMUNE RACINGなら、うちの名前を預けてもいいと思ったんです」
「それだけで契約を決めて大丈夫ですか?」
宗村が尋ねると、白石と桐生が同時に彼を見る。
「宗村さん、こちらから確認することではありません」
「でも、スポンサーのお金を預かるんでしょう。勢いだけで決めてもらうわけにはいかないですよ」
鈴木は一瞬驚いたあと、声を上げて笑った。
「白石さんが話を前へ進めて、宗村さんが本当にいいのか確認するんですね」
「私は押しつけていません」
「分かっています。契約を急がせず、判断するための材料を送り続けてくれたから、もう一度話を聞こうと思えたんです」
鈴木は、そこで初めて提案書を開いた。
「以前いただいた条件で、契約を進めてください。マッスルピヨは、MUNE RACINGのスポンサーになります」
白石はすぐには表情を緩めなかった。
「ありがとうございます。契約書とロゴ使用規定を確認し、正式な手続きへ進みます」
「もう少し喜んでもらえると思っていました」
「双方の確認と署名が終わるまでは、まだ交渉中です」
「白石さんらしいですね」
鈴木は苦笑しながら手を差し出し、白石はその手をしっかりと握り返した。
*
面談後、白石は経理責任者の小野寺真理と契約書の確認を始めた。
契約期間、入金時期、支払条件、ロゴの使用範囲。白石が鈴木と合意した内容を説明し、小野寺が資金計画と会計処理に問題がないか、一つずつ確かめていく。
「条件は前に出したものと同じ?」
「はい。開幕戦後も変更していません」
「入金時期もこれで確定?」
「先方の確認は取れています」
小野寺は最後まで目を通してから、契約書を白石へ戻した。
「この内容なら大丈夫。正式な手続きを進めて」
「ありがとうございます」
契約条件の確認を終えると、白石は神谷英治を交え、ロゴの掲示位置を確認した。
場所は、MR-01のフロントウイング最下段。規定と既存スポンサーの掲示範囲に抵触せず、走行時の車体性能にも影響を与えない位置へ、マッスルピヨのロゴが加わる。
「一番下かあ。もう少し上じゃなくていいの?」
宗村が車体図をのぞき込む。
「位置の価値は、高さや大きさだけで決まるものではありません」
神谷が答えた。
「正面から車両を見た時に確認できる場所です。下段だから価値が低いわけではありません」
「鈴木さんにも掲示案を確認していただき、了承を得ています」
白石が資料を閉じる。
「ゼロから積み上げてきた会社のロゴが、フロントウイングの一番下から加わる。私は、マッスルピヨさんらしい位置だと思います」
「なるほど。そこから、ずっと続いてもらうわけだ」
「宗村さん」
桐生が静かに呼ぶ。
「まだ正式な手続きが残っています。終わったつもりにならないでください」
「はい、美咲さん」
双方の確認と署名を経て、マッスルピヨとのスポンサー契約は正式に成立した。
一度断られた提案が届いたのは、条件を変えたからではない。開幕戦まで積み重ねてきた仕事と、0点という結果から何を持ち帰ったのかを、誇張せず1枚の資料へまとめたからだった。
次のレースから、MR-01のフロントウイングには新しいロゴが加わる。
0点から始まったMUNE RACINGを、同じようにゼロから事業を積み上げてきた企業が支えることになった。




