Chapter 63 1枚の資料で開く扉
オーストラリアから戻った翌朝、市原ファクトリーの搬入口が開いた。
輸送ケースから降ろされた7号車と22号車は、レースを終えた時の姿を残していた。細かなゴム片が付着したフロア、熱で変色した排気系、ブレーキダストに覆われたホイール。そのすべてに、サザンクロス・ストリートサーキットを58周した痕跡が刻まれている。
「最初に写真を残せ。外すのはそれからだ」
柴崎哲也の指示を受け、メカニックたちが記録を始める。
篠崎美月は22号車の左側へ回り込み、灯りを当てながら車体下面を確認した。
「大きな接触痕はありません。細かい傷はありますけど、想定範囲です」
「58周も走れば、それくらいは勲章だ。だが、勲章と故障を一緒にするなよ」
「分かってます、親方」
2台は計測と撮影を終えた箇所から、少しずつ部品を外されていった。
初めて世界を走ったMR-01が、次のレースへ向けた材料へ戻っていく。
*
午後の会議室では、開幕戦の技術レビューが始まっていた。
正面の画面には、藤原蒼真10位、中村信治14位という結果と、58周分の走行データが並んでいる。
チーフストラテジストの朝倉智樹が、7号車の戦略推移を表示した。
「藤原さんはスーパーハードでスタートし、前方の車両が先にピットへ入ったことで一時的に順位を上げました。終盤はスーパーソフトへ交換し、タイヤの差を使って10位までポジションを上げました」
「順位だけ見れば成功だな」
宗村宗一が言うと、神谷英治は静かに首を振った。
「戦略が成立したことと、マシンが10番目に速かったことは別です。そこを混ぜると、次で判断を誤ります」
「はい。だから分けて見ます」
宗村は素直に答えた。
朝倉が画面を22号車の戦略推移へ切り替える。
「信治はソフト、ミディアム、ソフトの2ストップです。最初のピット後に前方との間隔が開き、順位を戻すまでに時間を使いましたが、後半のラップは安定しています」
「最後までタイヤの状態を読めなかった周がありました」
信治が自分から口を開いた。
「まだ使えると思っていたのに、次の周で急にコーナーの入口が苦しくなった。反対に、もう落ちたと思って抑えすぎた周もあります」
結城遼がうなずく。
「感覚と実際のグリップ低下にずれがあった。無線でこちらから伝える情報も含めて見直そう」
「うん。次はもっと早く合わせたい」
藤原は信治のデータを見たまま口を開いた。
「最初の決勝で58周走れた。それだけでも比較できるものは増えたんだから、焦って一つの答えにする必要はない」
「はい、藤原さん」
車体側の報告が一段落すると、ペクト・ルーザがHELIOS V10のデータを映した。
「エンジン温度、出力、燃料消費の推移を確認しました。現時点で走行を止めるような異常は見つかっていません。2台とも58周を通じて、想定した範囲の中で働いています」
「終盤の性能低下は?」
神谷が尋ねる。
「小さいです。ただ、それをすべてエンジンの成果にするのは違います。冷却、車体の使い方、ドライバーの操作、それからオイルまで、全部を合わせた結果です」
ペクトの言葉を受け、藤村忍が机の上の資料を開いた。
「JY-03も、油温と油圧の記録に大きな乱れはありません。回収したオイルはJURASへ持ち帰り、走行前のサンプルと比較します」
「匂いだけでは判断しないの?」
宗村が尋ねると、忍は真顔で答えた。
「匂いは大事です。でも、私が嗅いで大丈夫だったから次も使いましょう、では技術報告になりません」
会議室に小さな笑いが起きた。
忍は画面へ視線を戻す。
「公開テストでも確認しましたが、長い距離を走ったあとも、オイルの性能低下は小さく抑えられています。それと、今回の決勝では燃料消費が走行前の想定をわずかに下回りました」
ペクトがうなずいた。
「燃料消費については、僕も確認しています。ただ、JY-03による変化なのか、エンジンの使い方やレース展開が影響したのかは、まだ判断できません。次の走行でも条件をそろえて検証したいです」
「分かりました」
神谷が資料へ書き込む。
「車体、エンジン、オイルを別々に評価したあと、もう一度まとめます。開幕戦を完走できたからこそ取れたデータですから、都合のいい部分だけを成果にしないでください」
ペクトと忍が同時にうなずいた。
宗村は画面に残る58周の線を見つめた。
「シャシーだけじゃなく、エンジンもオイルも、みんなで最初の1戦を走ったんだな」
「宗村さん、感想は最後にしてください。まだ報告が残っています」
桐生美咲が進行表を見ながら言った。
「はい、美咲さん」
レビューは夕方まで続いた。
10位も14位も、喜んで保管するための数字ではない。次に何を変えるのか、その判断へ使えて初めて、開幕戦の結果は意味を持つ。
*
同じ頃、白石玲奈は事務区画で1枚の資料を見直していた。
送付先は、日本全国でフィットネスジムを展開するマッスルピヨ。以前、白石がスポンサー契約を提案し、一度断られた企業だった。
「順位を大きくした方が目立ちませんか?」
隣で橘ことねが尋ねる。
「目立たせたいのは順位ではありません」
白石は10位と14位の文字を少しだけ小さくした。
「初参戦のチームが何を準備し、どうやって58周を走り切ったのか。マッスルピヨさんへ伝えたいのは、そこです」
A4用紙には、開幕戦の結果だけでなく、2台が採った異なる戦略と、完走までに積み上げてきた作業が簡潔に整理されていた。
ことねが文章を読み直す。
「『ゼロから始めたチームが、最初の基準を作った一戦』……これなら、負け惜しみには見えませんね」
「ええ。勝ったとは書きません。でも、何も得られなかったとも書きません」
白石は最後に宛名を確認し、資料を送信した。
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その日の夜、マッスルピヨ代表の鈴木太郎は、届いた資料をパソコンの画面へ開いた。
以前の提案を断った理由は明確だった。新規参戦チームに企業の名前を預けるには、実績が足りない。
開幕戦でも、MUNEはポイントを獲得していない。
それでも鈴木は、1枚の資料を最後まで読み進めた。
ゼロから始め、一つずつ積み上げ、次も続ける。そこに書かれていた姿勢は、マッスルピヨが掲げてきた「ゼロからはじめてずっと通いたくなる」という考え方から外れていなかった。
鈴木は以前受け取った提案書を、もう一度机の上へ出した。
そして、白石への返信を打ち始める。
契約を決めるには、まだ会って話す必要がある。それでも、一度閉じた扉は、開幕戦を記録した1枚の報告書によって再び開き始めていた。




