Chapter 57 待った先の一台
19周目。
20台の列はスタート直後の密集を失い、それぞれの戦略によって間隔を変え始めていた。
先頭ではアレクサンダー・クロフォードがレースを支配し、その背後でエイドリアン・ハートとマティアス・ウェーバーが機会をうかがっている。上位勢の速さは衰えず、周回遅れとの位置関係も意識する時間へ入っていた。
MUNE RACINGの22号車は20位。
中村信治の前を走るのは、カルロス・イバニェスだった。
13周目に装着したミディアムは、適正な温度域へ入っている。信治はブレーキングを無理に奥へ送らず、前を走るStratos Racingがどの区間で時間を失っているのかを確かめながら追った。
高速区間では、PHOENIX V8のガァァァァァァーーッという荒く濁った音が、バックファイアを弾けさせながら前方へ逃げていく。しかし低速コーナーが続く区間では、イバニェスがアクセルを開けるまでにわずかな間が生まれ、そのたびにHELIOS V10の滑らかな加速をつなぐ22号車が距離を縮めた。
〈信治、イバニェスは低速の立ち上がりで姿勢が決まるまで待たされている。今のやり方を続けよう〉
〈了解。すぐ横へ出ず、もう少し見る〉
結城遼は信治の返答を聞き、ブレーキ入力とアクセル開度の推移へ視線を戻した。
スタート直後の信治なら、弱い場所が見えた瞬間に仕掛けていたかもしれない。だが今は、次の周にも同じ傾向が表れるかを確かめている。
「待てていますね」
結城の言葉に、隣で22号車の車両データを確認していた神谷英治が頷いた。
「タイヤを替えた直後より入力も揃っています。追いついたことより、追いつくまでに壊していないことが大事です」
「ええ。抜いたあとまで使える状態で届かせます」
*
国際映像が、19位のイバニェスと、その背後へ迫る22号車を捉えた。
「中村さん、イバニェスのすぐ後ろまで来ました! ピットストップで21位まで下がりましたが、チェンのリタイアで20位。ここからはコース上でも順位を取り戻したいところです!」
「ミディアムを丁寧に温めた分、今はブレーキングでも立ち上がりでも動きが安定しているわね。イバニェスは低速コーナーで姿勢を整えてからアクセルを開けているから、信治はそこで近づけている」
「パイセン、すぐに飛び込まない方がいいんですか?」
「抜く場所を決めるのはいいけれど、相手が一度弱かっただけで飛び込むのは危険よ。同じ傾向が続くか、信治も確認しているはず」
次の周も、イバニェスは同じ低速区間で立ち上がりをわずかに乱した。
荒いPHOENIX V8の排気音が一度濁り、その直後に22号車のHELIOS V10がヴァァァァァァーーンと滑らかに回転を伸ばす。車載映像の中で、前車のリアウイングが目に見えて大きくなった。
「今度は同じところで、さらに近づきました!」
22周目。
信治はイバニェスの背後についたまま、最終コーナーを立ち上がった。前方のマシンはアクセルを開けた瞬間にリアをわずかに動かしたが、22号車は余計な修正を入れず、駆動を途切れさせないまま直線へ出る。
〈信治、次のブレーキングで並べる〉
〈分かってる。外から行く〉
信治はスリップストリームから抜け、車体を外側へ振った。
イバニェスもすぐに反応し、2台は並んだままブレーキングへ入る。視界の端でウォールが近づいても、信治は相手の動きに引かれて早くペダルを踏まず、前輪をロックさせない範囲でブレーキ入力を立ち上げた。
22号車のノーズが、半台分だけ先へ出る。
イバニェスは次のコーナーまで外側に残った。信治も1つ目の進入だけで勝負を終わらせようとはせず、切り返しで自分が内側へ入れる走行線を残している。
2台のタイヤが触れそうな距離で、HELIOS V10の澄んだ音とPHOENIX V8の濁った咆哮が重なった。
次の進入で内側を押さえた22号車が前へ出る。イバニェスはそれ以上並走を続けず、信治の背後へ戻った。
「中村さん、イバニェスを抜きました! 20位から19位、ピットストップで下がったあと、初めてコース上で順位を取り戻しました!」
「最初のコーナーだけで決めようとしなかったのがよかったわね。並んだあとも、次の進入で自分が内側へ入れる形を残していた。ブレーキングの遅さだけに頼らず、2つのコーナーで追い越しを組み立てたわ」
〈信治、19位。追い越し完了だ〉
〈了解。前を追う〉
〈まずタイヤを落ち着かせよう。次の目標はこちらで確認する〉
〈了解〉
信治はステアリングを握り直し、ブレーキングの開始を元の位置へ戻した。
抜いた直後に速さを求めれば、守ってきたミディアムを自分で傷める。信治はその勢いのまま次の相手へ飛びつかなかった。
ガレージで22号車の入力を見ていた結城が、息を吐く。
「戻しましたね」
「順位だけじゃなく、走り方もね」
神谷の言葉に、結城は短く頷いた。
*
同じ頃、藤原蒼真は15位を走り続けていた。
スタートから履くスーパーハードは、周囲が使うタイヤほど鋭い速さを見せない一方、周回を重ねても性能の落ち込みが小さい。燃料が減った7号車は、第1スティントでも安定した姿勢を保っていた。
前を走るマルコ・ベルティーニとの差は大きく広がらず、後方から近づく車も短い区間だけで一気に追いつくことはできない。
〈蒼真、ペースは安定している。タイヤとバランスを教えてくれ〉
〈前は問題ない。後ろも大きな変化はない。このまま走れる〉
〈了解。プランを継続する〉
ラスタス・パルナーは藤原の返答と数値を照らし合わせ、朝倉智樹へ状態を伝えた。朝倉は7号車だけでなく、周囲のピットウインドウと復帰位置を追っている。
スーパーハードで長く走ること自体が目的ではない。周囲が先に交換へ動く時間を使い、後半に履くタイヤとピットへ入る瞬間を選べる状態を残すための第1スティントだった。
「予定より長く使えそうですか?」
宗村宗一の問いに、ラスタスはタイヤ温度の推移を見たまま答えた。
「蒼真の感触も数値も、まだ走れる範囲です。ただ、長く使えることと、長く使うべきことは別ですよ」
朝倉も復帰位置の予測を更新する。
「交換後に空いた場所へ戻せるなら止める価値が出ます。集団の中へ戻すことになるなら、今の位置とタイヤを使った方がいい。まだ決めるための材料を集めている段階です」
「じゃあ、今は待つ?」
「ええ。ただし、競争力が落ちれば待ちません」
宗村は頷き、コースを走る7号車へ視線を戻した。
*
25周を過ぎると、周囲のチームが少しずつピットへ動き始めた。
順位表示は入れ替わるが、交換済みと未交換の車が混ざる数字だけでは実際の位置関係を判断できない。
「藤原さんの表示順位が上がりました!」
「ただし暫定よ。前を走っていた車がピットへ入っただけで、藤原はまだ止まっていない。大切なのは、その車が新しいタイヤでどこまで追いついてくるかね」
「画面の数字だけで、得をしたとは言えないんですね」
「ええ。でも、スーパーハードでここまでペースを大きく崩さず、交換時期を選べる時間が残っている。それは確かな成果よ」
29周目には、新しいタイヤを履いた車が藤原のミラーへ映り始めた。
〈蒼真、後方から戦略の異なる車が来る。競らず、自分のペースを守ってくれ〉
〈了解。抜かせる場所は考える〉
藤原は高速区間で不用意に走行線を外さず、低速コーナーの立ち上がりで相手を先へ行かせた。譲るために大きく減速することも、意地になって新しいタイヤの相手と争うこともせず、失う時間を最小限に抑えて自分の走行線へ戻る。
ラスタスは通過に要した時間を確認し、朝倉は交換済みの車との位置関係を更新した。
30周目終了時点で、ピットストップの違いを整理した藤原の順位は15位、信治は19位。
スーパーハードで止まらずに走る7号車と、ミディアムへ交換して1台をコース上で抜いた22号車。同じMR-01でも、2台は異なる時間の中で次の機会を待っていた。
その前方では、マテオ・フェレイラのマシンに、まだ誰にも見えていない異変が始まっていた。
【30周目終了時点・レース状況】
・藤原蒼真/7号車:15位。前はフェレイラ。スーパーハード30周使用。ピット0回。タイヤは大きな性能低下を見せず、車両異常なし。主要無線担当はラスタス。
・中村信治/22号車:19位。前はデュボワ、後ろはイバニェス。ミディアム18周使用。ピット1回。タイヤは競争力を維持し、車両異常なし。主要無線担当は結城。
・順位変動:22周目、中村がイバニェスをコース上で抜き、20位から19位へ上昇。イバニェスは19位から20位へ後退。藤原は15位を維持。
・ピット:Chapter 57内で複数車両がタイヤ交換を開始。藤原は0回、中村は13周目に行った1回目のピットストップを終えている。
・リタイア:Chapter 57内で新たなリタイアなし。ノヴァーク(7周目/接触事故/RET)、チェン(18周目/サスペンショントラブル/RET)の2台がリタイア済み。
・天候/路面:ドライ。30周目終了時点で黄旗、SC、VSCなし。
・残存台数:20台。




