Chapter 56 追走の始まり
14周目。
13周目に最初のピットストップを終えた信治の22号車は、21位でコースへ戻っていた。
前を走るのは、ピットイン前には後方にいたカルロス・イバニェス。コース上で抜かれたわけではなく、22号車がソフトからミディアムへ交換したことで生じた戦略上の位置関係だった。
〈信治、まずタイヤの状態を確認しよう。最初の1周は急がなくていい〉
結城遼の声が届く。
〈了解。前の反応はまだ少し鈍い〉
〈想定内だ。ブレーキングで無理に熱を入れず、立ち上がりも滑らせないようにしよう〉
〈分かった〉
信治は視界の先にいるイバニェスを、すぐには追わなかった。
新品のミディアムは、ピットアウトした瞬間から最大のグリップを発揮するわけではない。焦ってブレーキングを詰め、低い温度のままフロントを滑らせれば、長く使うために交換したタイヤを最初の1周で傷めることになる。
最初のコーナーでは進入速度を抑え、立ち上がりでアクセルを丁寧に開く。高速区間でも一度に限界を探らず、ステアリングへ返ってくる重さと前後の動きを確かめた。
HELIOS V10は、澄んだ高音の下に厚みのある中音を重ねながら、ヴァァァァァァーーンと滑らかに回転を伸ばしていく。信治はその加速を一気に使い切らず、駆動を途切れさせないように22号車を走らせた。
〈リアは問題ない。フロントも入り始めた〉
〈確認した。次の周から少しずつ上げていい〉
〈了解〉
最後尾という表示は変わらない。それでも、22号車の第2スティントはすでに始まっていた。
*
同じ頃、15位を走る藤原蒼真は、14位のマルコ・ベルティーニを追い続けていた。
7号車のスーパーハードは安定域へ入り、周回を重ねても大きく性能を落としていない。しかし前へ近づいたからといって、簡単に抜ける相手ではなかった。
ベルティーニのFalcon Motorsportは、MUNEと同じHELIOS V10を搭載しているが、正式なワークス供給を受けている。加速へ移れば、同じ系統の伸びやかな音を響かせながらも、高速域ではFalconの方がわずかに前へ出た。
7号車がブレーキングとコーナー進入で詰めても、直線へ入ると開いた隙間からヴァァァァァァーーンという音が遠ざかっていく。同じエンジン名だけでは見えない、車体への統合と供給形態の差がそこにあった。
〈蒼真、ベルティーニとの差は0.9秒。後ろのコスタは1.7秒だ〉
ラスタス・パルナーが必要な情報だけを伝える。
〈前には追いつけるが、直線で離される〉
〈こちらでも確認している。ブレーキングで無理に補わず、今の範囲を保ってくれ〉
〈了解〉
藤原はベルティーニの背後へ近づきながらも、今すぐ仕掛けるためにスーパーハードを削ろうとはしなかった。
7号車が狙っているのは、この1周だけではない。前方のタイヤが落ち、ほかの車がピットへ動いたあとにもコース上へ残り、交換時期を選べる状態を保つことだった。
ガレージでは、朝倉智樹が2台の戦略と前後のピットウインドウを追っている。ラスタスは7号車のタイヤ推移を確認し、結城は22号車のミディアムが適正温度へ入るまでの時間を見ていた。
「7号車は今のペースなら、まだ引っ張れます」
ラスタスの報告に、朝倉が周囲のラップタイムを照らし合わせる。
「ベルティーニだけを見てピット時期は決めません。交換を始める車と、復帰後の位置を見ます」
「それでいい。蒼真も今は無理をしていないからね」
その隣で結城が22号車の数値を確認した。
「信治のタイヤ温度も上がり始めました。次の周からペースを戻せます」
朝倉は短く頷き、異なる時間を走る2台の画面へ視線を戻した。
*
国際映像が15位の7号車と、最後尾から前を追い始めた22号車を交互に映し出す。実況席では、レイナが変化した順位を伝えた。
「藤原さんは15位のままベルティーニを追っています。一方、タイヤ交換を終えた中村さんは21位です」
「表示上は最後尾だけど、中村だけが大きく遅れたわけではないわ。前にいる車の多くはまだタイヤ交換をしていないから、全員のピットストップが終わるまでは単純に順位だけを比べられない状況ね」
「ここから中村さんは、何を目安に走ればいいんでしょう?」
「自分のミディアムを正しく使いながら、古いタイヤで走る前方の車との差を縮めること。焦って今すぐ抜く必要はないけれど、相手がピットへ入った時に前へ出られるだけの時間を作っておく必要がある」
15周目に入ると、信治のラップタイムが上がった。
ミディアムが使える温度へ入り、ブレーキングでの安定感も増している。コーナーを抜けるたび、前方を走るイバニェスのマシンが少しずつ大きく見えるようになった。
〈遼、タイヤは入った。前後とも問題ない〉
〈了解。今のペースで追おう。ただし、まだ第2スティントの入口だ〉
〈分かってる。全部一度には取り返さない〉
信治はそう答え、最終区間でブレーキングの開始をわずかに奥へ送った。
それでも前輪を無理に使うほどではない。信治が自分で限度を決め、その範囲でペースを上げていることを確認した結城は、追加の指示を出さなかった。
「イバニェスとの差は縮まっています。ただ、今すぐ仕掛けられる距離ではありません」
結城の報告に、神谷英治が22号車の温度推移を確認する。
「ピットアウト直後に急がせなかったのは正解です。前輪も左右が揃ってきています」
宗村宗一は、タイミングモニターに21位と表示された信治の名前を見ていた。
「順位だけ見ると、ちょっと不安になるね」
「だから順位だけで判断しないでください。22号車は予定どおり動いていますし、見るべきなのは交換前の車に対してどれだけ時間を取り戻せるかです」
「うん。分かってはいるんだけどね」
宗村はそう答え、順位欄ではなくラップタイムの推移へ目を移した。
*
16周目から17周目にかけて、信治はイバニェスとの差を確実に縮めた。
視界の先にいたマシンが、コーナーを1つ抜けるごとに少しずつ近づいてくる。それでも、まだ直接争える距離ではない。
〈信治、前との差は縮まっている。そのまま続けよう〉
〈了解。タイヤの変化もない〉
〈燃料も計画どおりだ。今の走りを続けてくれ〉
〈分かった〉
22号車は新品タイヤの速さを一度に使い切らず、安定したラップを重ねた。
その前方では、17位を走るアレックス・チェンのImperial GPに異変が起きていた。
18周目、高速区間を抜けた直後に車体が不自然に左へ傾き、それまで響いていたAEGIS V8のキィィィィィーーンという甲高い金属音が、アクセルを戻すと同時に途切れる。
国際映像が姿勢を崩したマシンへ切り替わった。
「チェンが遅い! マシンが左へ傾いています!」
「タイヤだけではなさそうね。左側を支えられていないから、サスペンションに問題が起きている可能性が高いわ」
チェンは速度を落とし、後続へ進路を譲りながらコース脇へマシンを寄せた。無理にピットまで戻れば損傷を広げるだけでなく、コース上へ部品を落とす危険もあるため、低速のまま退避場所まで進んで停止する。
アレックス・チェンは、サスペンショントラブルによりリタイアした。
局所黄旗が提示され、通過する車両は速度を落とす。チェンの車両が走行ラインから外れていることが確認されると、黄旗は解除され、コースは再びグリーンへ戻った。
チェンより前を走っていた藤原の順位は変わらず15位。後方にいたデュボワ、ニコラス・デュラン、イバニェス、信治はそれぞれ1つずつ順位を上げ、信治は21位から20位となった。
「チェンのリタイアにより、中村さんは20位です。ただし、まだ前のイバニェスとは距離があります!」
「ここで急ぐ必要はないわ。中村のミディアムはまだ新しいし、前へ追いつくための時間は残っている。順位が1つ上がっても、やることは変わらないわね」
〈信治、チェンがリタイア。現在20位、前はイバニェスだ〉
〈了解。車両はコース外か?〉
〈ああ。黄旗区間は通過済み、現在はグリーンだ〉
〈分かった。追う〉
信治は再びアクセルを開き、HELIOS V10の音を高く伸ばした。
順位は1つ上がったが、それは22号車がコース上で抜いて得たものではない。信治が追う相手は変わらず、前方を走るイバニェスだった。
すぐに届かなくても、焦って新しいタイヤを傷める必要はない。22号車は1周ごとに失った時間を削りながら、コース上で次の順位を取り戻せる距離へ近づいていた。
【18周目終了時点・レース状況】
・藤原蒼真/7号車:15位。前はベルティーニ、後ろはコスタ。スーパーハード18周使用。ピット0回。タイヤは安定域を維持し、車両異常なし。
・中村信治/22号車:20位。前はイバニェス、後ろに走行車なし。ミディアム6周使用。ピット1回。タイヤは適正温度へ入り、車両異常なし。
・順位変動:18周目、チェンが17位からリタイア。これによりデュボワは18位から17位、デュランは19位から18位、イバニェスは20位から19位、中村は21位から20位へ上昇。藤原は15位を維持。
・ピット:Chapter 56内で確定しているピットストップなし。藤原は0回、中村は13周目に行った1回目のピットストップを終えている。
・天候/路面:ドライ。チェン停止時に局所黄旗が提示されたが、18周目終了時点では解除済み。SC、VSCなし。
・リタイア:18周目、チェンがサスペンショントラブルで停止し、タイミングモニター上もRET。ノヴァーク(7周目/接触事故/RET)と合わせ、リタイアは2台。
・残存台数:20台。




