Chapter 55 先に動く22号車
9周目。
藤原蒼真は15位、中村信治は17位を走っていた。
藤原の前には14位のマルコ・ベルティーニ。信治の前には、スタート直後に藤原を抜いた16位のダニエル・コスタがいる。
7号車のスーパーハードは安定した状態へ入り、藤原のラップタイムは前を走るベルティーニとの差を少しずつ縮めていた。
一方、22号車のソフトもまだ十分なグリップを残している。
〈信治、コスタまで1.2秒。後ろのチェンは1.0秒〉
結城遼の声が届く。
〈前は見えてる。ブレーキングで少しずつ近づける〉
〈使いすぎるな。予定は13周目だ〉
〈分かってる〉
信治は強く止められる区間で距離を詰めながら、高速コーナーではコスタの乱れた気流からわずかに外れた。前を抜くためにすべてのコーナーで近づく必要はなく、タイヤを傷めず、仕掛ける場所で届けばいい。
コスタのVega Competitionが立ち上がるたび、AEGIS V8の甲高い金属音が鋭く跳ね上がる。対する22号車のHELIOS V10は、澄んだ高音の下に厚みのある中音を重ね、ヴァァァァァンと滑らかに速度を伸ばした。
低速からの応答ではコスタの方が鋭い。それでも信治はソフトのグリップを生かし、ブレーキングから立ち上がりまでの流れで差を削っていった。
*
ガレージでは、2台のラップタイムが別々の画面に表示されていた。
チーフストラテジストの朝倉智樹がレース全体の動きを追い、ラスタス・パルナーは7号車、結城は22号車のタイヤ温度と摩耗を確認している。
「22号車は、まだペースを上げられます」
結城の報告を受け、朝倉がコスタとの推移を確認した。
「ただ、抜いたあとも13周目まで走らせる。使わせすぎないでくれ」
「分かっています。前へ出ても、そこで終わりにはさせません」
ラスタスは7号車の画面から目を離さずに言った。
「蒼真の方は安定している。ベルティーニとの差も縮まっているが、今はスティントを崩してまで仕掛ける段階ではないね」
少し離れたところで、宗村宗一がモニターを見ていた。
「信治君、前へ行けそう?」
「可能性はあります。ただ、抜くことより予定どおりピットへ入れる状態を残す方が重要です」
結城が視線を動かさずに答えると、宗村は小さく頷いた。
「分かってる。無理に行かせないでね」
神谷英治が宗村を見る。
「宗村さんから、その言葉が出るとは思いませんでした」
「俺だって、いつも無茶させたいわけじゃないよ」
「昨日の今日で言われても、説得力がありません」
「スーパーハードは無茶じゃなくなったでしょう?」
「まだ9周です」
宗村は何も言い返せず、7号車のタイム表示へ目を戻した。
*
国際映像は中団後方の争いを捉えていた。
「藤原さんはベルティーニとの差を1.6秒まで縮めています。そして中村さんも、コスタへ近づいてきました!」
「7号車はスーパーハードでラップが安定している。22号車はソフトのグリップが残っているうちに前へ出たい。MUNEの2台は近い位置にいるけれど、今やるべき仕事は違うわね」
「中村さん、コスタの真後ろです!」
10周目。信治は高速区間の出口でコスタとの間を0.4秒まで詰めた。
コスタが内側へ寄る。
信治はすぐに追わず、外側の通常ラインへ22号車を残した。早めに内側を守ったコスタは進入速度を落とさなければならず、信治はコーナーの奥まで速度を保って出口で並びかけた。
それでもコスタは譲らず、2台は横に並んだまま次のコーナーへ向かう。
〈信治、右側にいる〉
〈見えてる〉
信治はコスタの進路を塞がず、自分の走行幅を残した。次のブレーキングで22号車がわずかに前へ出ると、コスタが先にアクセルを戻した。
信治は17位から16位へ上がった。
「中村さんがコスタを抜きました! これで16位、スタートから3つ順位を上げています!」
「相手に内側を守らせて、出口の速度で並んだ。チェンを抜いた時とは違う形で決めたわね。ただし、タイヤは確実に使っている。ここからはピットまで持たせる必要がある」
〈信治、16位。前は藤原さん、3.1秒〉
〈了解。追っていいか?〉
〈駄目だ。予定どおり13周目に入れる。ここからはタイヤを守ってくれ〉
信治は一瞬だけ返事を遅らせた。
〈……了解〉
前方には、同じ蒼とオレンジとシルバーをまとった7号車が見えている。追いつきたい気持ちはあったが、藤原はスーパーハードで先を走り、信治はソフトで先にピットへ入る。今ここで2台を競わせても、互いの戦略を崩すだけだった。
信治はブレーキングの開始をわずかに手前へ戻した。
*
11周目に入ると、22号車のフロントタイヤに変化が現れ始めた。
〈遼、低速で前が少し逃げる〉
〈確認してる。大きくは落ちていない。あと2周だ〉
〈このまま行ける〉
〈コスタとの差は1.1秒。守るために無理をしなくていい〉
〈分かった〉
その前では、藤原がベルティーニとの差を1.2秒まで縮めていた。
〈蒼真、タイヤの状態は?〉
ラスタスの落ち着いた声が届く。
〈変化は少ない。高速も安定している〉
〈了解。前との差は1.2秒だ。今のペースを続けてくれ〉
スーパーハードの7号車はスタート直後より速くなり、ソフトの22号車は最も速い時間帯を終えようとしていた。
「同じMR-01なのに、タイヤの変化が正反対ですね」
レイナの声に、マリカが答える。
「藤原はようやく自分のレースへ入ったところ。中村は最初の仕事を終えて、次の段階へ移るところね。22号車はピットへ入る時期が近いはずよ」
*
12周目、MUNEのピットでは柴崎哲也がクルーを集めた。
「22号車、次だ。ミディアム。手順を確認しろ」
篠崎美月は右前輪を担当するクルーの動きを確認し、自分の位置へ入る。
初めてのIGP決勝で迎える、最初のピットストップ。前を横切る他チームのクルー、ピットレーンを通過するエンジン音、無線と工具の音が重なり合う中で、美月には周囲が急に遠くなったように感じられた。
「美月」
柴崎の声が飛ぶ。
「はい」
「車だけ見ろ。周りは俺が見る」
美月は短く息を吐き、ピットレーンの入口へ目を向けた。
〈信治、この周でピットイン。ミディアムへ交換する〉
〈了解。ピットイン〉
13周目。信治は最終区間で後方を確認し、レーシングラインを外れてピットレーン入口へ向かった。
「中村さんがピットへ入ります! 16位から最初のタイヤ交換です!」
「予定どおりの13周目ね。ソフトで3台を抜き、ここからミディアムで長いスティントを走る」
ピットレーンリミッターへ入った瞬間、HELIOS V10の伸びやかな音が抑え込まれ、一定の回転音へ変わった。速度を落とした22号車がMUNEの作業位置へ近づき、柴崎の合図に合わせて停止する。
ジャッキが上がると同時に4本のソフトが外され、ミディアムへ交換された。
美月の視界には自分の担当箇所しかない。ナットの締結を終えたクルーの合図が揃い、車体が路面へ落ちた。
柴崎が前方を確認し、22号車を送り出す。
〈信治、出口はクリア〉
〈了解〉
信治はピットレーンを加速し、21位でコースへ復帰した。16位からの後退はコース上で抜かれたものではなく、戦略上の一時的な順位変動だった。
〈信治、現在21位。前はイバニェス。後ろに走行車はいない。まずタイヤに熱を入れよう〉
〈了解。ここからだな〉
〈ああ。ここからだ〉
ガレージのモニターでは、藤原の7号車が15位のまま走り続けている。
先に動いた22号車は、ただ順位を失ったわけではない。残り45周を戦うため、ソフトで稼いだ位置をいったん手放し、新しいミディアムで前との差を取り戻す時間へ踏み出した。
【13周目終了時点・レース状況】
・藤原蒼真/7号車:15位。前はベルティーニ、後ろはコスタ。スーパーハード13周使用。ピット0回。タイヤは安定域に入り、車両異常なし。
・中村信治/22号車:21位。前はイバニェス、後ろに走行車なし。ミディアム1周使用。ピット1回。低速域で出ていたフロントのグリップ低下は使用済みソフトによるもので、交換後の車両異常なし。
・順位変動:10周目、中村がコスタをコース上で抜き17位から16位へ上昇、コスタは16位から17位へ後退。13周目、中村がピットへ入り16位から21位へ後退。これによりコスタ、チェン、デュボワ、デュラン、イバニェスがそれぞれ1つ上昇。藤原は15位を維持。
・ピット:13周目、中村がソフトからミディアムへ交換。16位からピットインし、21位で復帰。藤原はピットなし。
・リタイア:Chapter 55内の新規リタイアなし。ノヴァーク(7周目/接触事故/RET)がリタイア済み。
・天候/路面:ドライ。黄旗なし。SC、VSCなし。
・残存台数:21台。




