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IGNITION  作者: ムネディ


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59/70

Chapter 53 最初の1周

サザンクロス・ストリートサーキットのグリッドへ、22台のマシンが並んでいた。

 

ポールポジションには、Apex GPのアレクサンダー・クロフォード。隣にTitan Motorsportのエイドリアン・ハートがつき、その後方にはマティアス・ウェーバーとルーカス・ヴァレンティが並ぶ。

 

MUNE RACINGの7号車は15番グリッド、22号車は19番グリッドだった。

 

メカニックたちが2台のMR-01を囲み、スーパーハードを装着した7号車と、ソフトを履く22号車の最後の確認を進めている。

 

周囲のチームから、7号車のタイヤへ何度も視線が向けられていた。

 

「やっぱり見られてますね」

 

篠崎美月が22号車の作業を終え、周囲のグリッドを見た。

 

柴崎哲也は7号車を一度確認してから答える。

 

「見せとけ。走るのはタイヤじゃない。車だ」

 

「でも、ほとんど使われないタイヤなんですよね?」

 

「だから確認した。選んだ以上は、走れる状態で渡す。それが俺たちの仕事だ」

 

美月はうなずき、22号車のコクピットへ目を向けた。

 

信治はバイザーを下ろし、ステアリング上の表示を確認している。初めて迎えるIGP決勝を前にしても、外から見える動きは落ち着いていた。

 

だが、右手の指だけが何度もステアリングを叩いていた。

 

結城遼が無線を確認する。

 

〈信治、無線チェック〉

 

〈聞こえてる〉

 

〈クラッチとスタート手順は確認どおり。前方で何か起きても、最初に逃げ場を残してくれ〉

 

〈了解。無理に1コーナーで決めない〉

 

〈それでいい。58周ある〉

 

少し前では、藤原が7号車のコクピットに収まっていた。

 

ラスタス・パルナーが、最後の戦略確認を行う。

 

〈蒼真、序盤はタイヤを入れることを優先してください。順位を守るために無理はしません〉

 

〈了解。前が詰まった場合は?〉

 

〈接触を避けて、自分のラインを残してください。ペースはこちらで見ます〉

 

〈分かった〉

 

撤収を知らせる合図が出た。

 

柴崎が7号車の側面を軽く叩き、メカニックたちがグリッドから離れる。美月も最後に22号車を振り返ってから、機材を押してピットへ戻った。

 

*

 

「いよいよSeason 1開幕戦、オーストラリアGP決勝です! パイセン、MUNE RACINGが2台でタイヤを分けてきました!」

 

「中村はソフト。藤原はスーパーハードね。15番手からスーパーハードを選ぶチームは、ほかにほとんどいない。序盤は厳しいけれど、長く走れれば戦略をずらせる可能性がある」

 

「どうしてMUNEは、そんなタイヤを選べたんですか?」

 

「MUNE RACINGはLMP2との違いを肌で実感しているでしょう」

 

「ハイハーイ、パイセン! LMP2ってなんですか?」

 

一瞬、放送席から言葉が消えた。

 

「LMP2は世界三大レースのル・マンを含めた耐久レースカテゴリーで、MUNE RACINGはそのカテゴリーで優勝経験もあるチームなんだけど……まさか知らなかったの?」

 

「いや、だって今年から出てきたチームだと思ってましたもん!」

 

「レイナ……あなた、レース前に何を調べてきたの?」

 

「ドライバーとか! マシンとか! ちゃんと調べましたよ! 中村信治さんがイケメンですし!」

 

「いや、確かにそうだけど、そこは藤原の方がイケオジで……はっ!? 違う!! チームを調べなさい!!」

 

MUNEのガレージで中継を聞いていた何人かが、思わず画面から目を離した。

 

宗村宗一が桐生美咲を見る。

 

「藤原さん、イケオジだって」

 

「今、そこを拾うんですか?」

 

「信治君もイケメンらしいよ」

 

「決勝が始まります。前を見てください」

 

「はい」

 

宗村がモニターへ向き直る。

 

放送席でも、マリカは咳払いをして気持ちを切り替えていた。

 

「とにかく、MUNEには長距離レースでタイヤを扱ってきた経験がある。それが今回の選択にもつながっている可能性はあるわね。ただし、スーパーハードを選んだだけで有利になるわけではない。藤原が序盤をどう耐えるかが重要よ」

 

「一方の中村さんはソフトです。2台がまったく違うレースを始めようとしています!」

 

*

 

フォーメーションラップが始まった。

 

クロフォードを先頭に、22台がゆっくりとグリッドを離れる。

 

藤原は短いブレーキングを繰り返し、左右へマシンを振りながらスーパーハードへ熱を入れようとした。しかし、ステアリングから返ってくる感触はまだ鈍い。

 

〈前後とも、まだ低い〉

 

〈了解。スタート後も急がせないでください〉

 

信治の22号車では、ソフトが7号車より早く反応し始めていた。

 

〈遼、グリップは来てる〉

 

〈確認した。クラッチ位置に変更なし。そのまま戻ろう〉

 

〈了解〉

 

全車が再びグリッドへ収まる。

 

最後尾のマシンが停止した。

 

赤いシグナルが、1つずつ灯っていく。

 

信治はエンジン回転を保ち、正面の灯火だけを見た。

 

藤原は、クラッチパドルを握る左手の指先へ意識を集中させる。

 

シグナルが消えた。

 

重厚なORION V12の咆哮と、即座に回転が跳ね上がるAEGIS V8の鋭い金属音が先頭列から弾け、低く太いATLAS V10、荒く濁るPHOENIX V8が重なった。その音の奔流の中で、2台のHELIOS V10は「ヴァァァァァァーーン」と澄んだ高音に厚みのある中音を重ねて加速する。

 

「スタートしました! クロフォードが先頭を守る! ハートが並びかけますが、1コーナーはクロフォードが前です!」

 

上位ではクロフォードがハートを抑え、ウェーバー、ヴァレンティが続いた。

 

中団では左右にマシンが広がり、行き場を探しながら1コーナーへ殺到する。

 

藤原の7号車は発進こそ大きく遅れなかったが、最初のブレーキングでスーパーハードがまだ十分に路面を捉えなかった。

 

外側からダニエル・コスタが並ぶ。

 

藤原は抵抗せず、接触を避けるため半車身分の空間を残した。コスタが前へ出て、7号車は15位から16位へ下がる。

 

「藤原さん、コスタに先行されました! やはりスーパーハードは厳しいスタートです!」

 

「ここで無理に閉めなかったのは正しい判断ね。まだタイヤが使える状態ではない。今争えば、1台どころでは済まなくなる」

 

その後方で、信治は前方の混雑を見ていた。

 

ローラン・デュボワが行き場を失い、1コーナーへの進入でわずかに速度を落とす。

 

信治はすぐに内側へ入った。

 

ブレーキングを遅らせながらも、相手が戻れる幅を残す。22号車のソフトが路面を捉え、デュボワより先に向きを変えた。

 

立ち上がりで22号車が前へ出る。

 

信治は19位から18位へ上がった。

 

「中村さんがデュボワを抜きました! ソフトのグリップを生かして、最初のコーナーで1つ順位を上げています!」

 

「きれいに決めたわね。相手の動きを見てから内側へ入っている。接触の危険を増やさず、ソフトの利点を使った」

 

〈信治、18位。後ろはデュボワ〉

 

〈了解。前はチェンだな〉

 

〈そうだ。0.9秒。今は前を追っていい〉

 

信治は17位のアレックス・チェンを視界へ捉えた。

 

一方、藤原の前には15位へ上がったコスタがいる。背後からは17位のチェンが迫っていた。

 

〈蒼真、現在16位。タイヤ温度は上がっています。まだ無理に守らなくて構いません〉

 

〈少しずつ反応が出てきた。あと2周は必要だ〉

 

〈了解。その間は今のペースを維持してください〉

 

藤原はウォールとの距離を一定に保ち、コーナーごとにスーパーハードの感触を確かめた。

 

序盤の順位を守るためにタイヤを滑らせれば、この戦略を選んだ意味がなくなる。前との差を開かせすぎず、後ろに並ばせない速度だけを保つ。

 

1周目を終える。

 

クロフォードが首位。ハート、ウェーバー、ヴァレンティが続く。

 

藤原は16位、信治は18位。

 

MUNEの2台は、同じスタートラインから、まったく異なる最初の1周を終えた。

 

*

 

3周目に入る頃、藤原のステアリングへ返る感触が変わり始めた。

 

〈フロントが入るようになった。リアも問題ない〉

 

〈確認しました。コスタとの差は1.1秒です〉

 

〈追える〉

 

7号車のラップタイムが少しずつ上がる。

 

信治はチェンの背後まで近づいたものの、ウォールに挟まれた区間では仕掛ける場所がない。無理に接近すれば、ソフトを傷めるだけだった。

 

〈信治、今は急がなくていい。チェンの後ろでタイヤを使いすぎないように〉

 

〈分かってる。直線の立ち上がりだけ合わせる〉

 

ピットのモニターには、異なる色で2台のラップが重ねられていた。

 

22号車は序盤から速く、7号車は周回を重ねるごとに安定していく。

 

「ここまでは想定の範囲です」

 

朝倉が言った。

 

宗村は画面から目を離さない。

 

「まだ3周だからね」

 

「ええ。スーパーハードを選んだ答えが出るのは、もっと先です」

 

4周目を終えた時点で、藤原は16位、信治は18位。

 

7号車のスーパーハードはようやく反応を返し始め、22号車のソフトはチェンの背後で次の機会を待っている。

 

スタートで動いたのは、それぞれ1つの順位だけだった。

 

だが、異なるタイヤを選んだ2台のレースは、すでに同じ時間では進んでいなかった。

 

58周の答えは、まだ始まったばかりだった。

 

【4周目終了時点・レース状況】

 

・藤原蒼真/7号車:16位。前はコスタ、後ろはチェン。スーパーハード4周使用。ピット0回。車両異常なし。

 

・中村信治/22号車:18位。前はチェン、後ろはデュボワ。ソフト4周使用。ピット0回。車両異常なし。

 

・順位変動:1周目、藤原がコスタに先行され15位→16位。コスタは16位→15位。信治がデュボワをオーバーテイクし19位→18位。デュボワは18位→19位。

 

・天候/路面:ドライ。黄旗、SC、VSCなし。

 

・リタイア:なし。残り22台。

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