Chapter 53 最初の1周
サザンクロス・ストリートサーキットのグリッドへ、22台のマシンが並んでいた。
ポールポジションには、Apex GPのアレクサンダー・クロフォード。隣にTitan Motorsportのエイドリアン・ハートがつき、その後方にはマティアス・ウェーバーとルーカス・ヴァレンティが並ぶ。
MUNE RACINGの7号車は15番グリッド、22号車は19番グリッドだった。
メカニックたちが2台のMR-01を囲み、スーパーハードを装着した7号車と、ソフトを履く22号車の最後の確認を進めている。
周囲のチームから、7号車のタイヤへ何度も視線が向けられていた。
「やっぱり見られてますね」
篠崎美月が22号車の作業を終え、周囲のグリッドを見た。
柴崎哲也は7号車を一度確認してから答える。
「見せとけ。走るのはタイヤじゃない。車だ」
「でも、ほとんど使われないタイヤなんですよね?」
「だから確認した。選んだ以上は、走れる状態で渡す。それが俺たちの仕事だ」
美月はうなずき、22号車のコクピットへ目を向けた。
信治はバイザーを下ろし、ステアリング上の表示を確認している。初めて迎えるIGP決勝を前にしても、外から見える動きは落ち着いていた。
だが、右手の指だけが何度もステアリングを叩いていた。
結城遼が無線を確認する。
〈信治、無線チェック〉
〈聞こえてる〉
〈クラッチとスタート手順は確認どおり。前方で何か起きても、最初に逃げ場を残してくれ〉
〈了解。無理に1コーナーで決めない〉
〈それでいい。58周ある〉
少し前では、藤原が7号車のコクピットに収まっていた。
ラスタス・パルナーが、最後の戦略確認を行う。
〈蒼真、序盤はタイヤを入れることを優先してください。順位を守るために無理はしません〉
〈了解。前が詰まった場合は?〉
〈接触を避けて、自分のラインを残してください。ペースはこちらで見ます〉
〈分かった〉
撤収を知らせる合図が出た。
柴崎が7号車の側面を軽く叩き、メカニックたちがグリッドから離れる。美月も最後に22号車を振り返ってから、機材を押してピットへ戻った。
*
「いよいよSeason 1開幕戦、オーストラリアGP決勝です! パイセン、MUNE RACINGが2台でタイヤを分けてきました!」
「中村はソフト。藤原はスーパーハードね。15番手からスーパーハードを選ぶチームは、ほかにほとんどいない。序盤は厳しいけれど、長く走れれば戦略をずらせる可能性がある」
「どうしてMUNEは、そんなタイヤを選べたんですか?」
「MUNE RACINGはLMP2との違いを肌で実感しているでしょう」
「ハイハーイ、パイセン! LMP2ってなんですか?」
一瞬、放送席から言葉が消えた。
「LMP2は世界三大レースのル・マンを含めた耐久レースカテゴリーで、MUNE RACINGはそのカテゴリーで優勝経験もあるチームなんだけど……まさか知らなかったの?」
「いや、だって今年から出てきたチームだと思ってましたもん!」
「レイナ……あなた、レース前に何を調べてきたの?」
「ドライバーとか! マシンとか! ちゃんと調べましたよ! 中村信治さんがイケメンですし!」
「いや、確かにそうだけど、そこは藤原の方がイケオジで……はっ!? 違う!! チームを調べなさい!!」
MUNEのガレージで中継を聞いていた何人かが、思わず画面から目を離した。
宗村宗一が桐生美咲を見る。
「藤原さん、イケオジだって」
「今、そこを拾うんですか?」
「信治君もイケメンらしいよ」
「決勝が始まります。前を見てください」
「はい」
宗村がモニターへ向き直る。
放送席でも、マリカは咳払いをして気持ちを切り替えていた。
「とにかく、MUNEには長距離レースでタイヤを扱ってきた経験がある。それが今回の選択にもつながっている可能性はあるわね。ただし、スーパーハードを選んだだけで有利になるわけではない。藤原が序盤をどう耐えるかが重要よ」
「一方の中村さんはソフトです。2台がまったく違うレースを始めようとしています!」
*
フォーメーションラップが始まった。
クロフォードを先頭に、22台がゆっくりとグリッドを離れる。
藤原は短いブレーキングを繰り返し、左右へマシンを振りながらスーパーハードへ熱を入れようとした。しかし、ステアリングから返ってくる感触はまだ鈍い。
〈前後とも、まだ低い〉
〈了解。スタート後も急がせないでください〉
信治の22号車では、ソフトが7号車より早く反応し始めていた。
〈遼、グリップは来てる〉
〈確認した。クラッチ位置に変更なし。そのまま戻ろう〉
〈了解〉
全車が再びグリッドへ収まる。
最後尾のマシンが停止した。
赤いシグナルが、1つずつ灯っていく。
信治はエンジン回転を保ち、正面の灯火だけを見た。
藤原は、クラッチパドルを握る左手の指先へ意識を集中させる。
シグナルが消えた。
重厚なORION V12の咆哮と、即座に回転が跳ね上がるAEGIS V8の鋭い金属音が先頭列から弾け、低く太いATLAS V10、荒く濁るPHOENIX V8が重なった。その音の奔流の中で、2台のHELIOS V10は「ヴァァァァァァーーン」と澄んだ高音に厚みのある中音を重ねて加速する。
「スタートしました! クロフォードが先頭を守る! ハートが並びかけますが、1コーナーはクロフォードが前です!」
上位ではクロフォードがハートを抑え、ウェーバー、ヴァレンティが続いた。
中団では左右にマシンが広がり、行き場を探しながら1コーナーへ殺到する。
藤原の7号車は発進こそ大きく遅れなかったが、最初のブレーキングでスーパーハードがまだ十分に路面を捉えなかった。
外側からダニエル・コスタが並ぶ。
藤原は抵抗せず、接触を避けるため半車身分の空間を残した。コスタが前へ出て、7号車は15位から16位へ下がる。
「藤原さん、コスタに先行されました! やはりスーパーハードは厳しいスタートです!」
「ここで無理に閉めなかったのは正しい判断ね。まだタイヤが使える状態ではない。今争えば、1台どころでは済まなくなる」
その後方で、信治は前方の混雑を見ていた。
ローラン・デュボワが行き場を失い、1コーナーへの進入でわずかに速度を落とす。
信治はすぐに内側へ入った。
ブレーキングを遅らせながらも、相手が戻れる幅を残す。22号車のソフトが路面を捉え、デュボワより先に向きを変えた。
立ち上がりで22号車が前へ出る。
信治は19位から18位へ上がった。
「中村さんがデュボワを抜きました! ソフトのグリップを生かして、最初のコーナーで1つ順位を上げています!」
「きれいに決めたわね。相手の動きを見てから内側へ入っている。接触の危険を増やさず、ソフトの利点を使った」
〈信治、18位。後ろはデュボワ〉
〈了解。前はチェンだな〉
〈そうだ。0.9秒。今は前を追っていい〉
信治は17位のアレックス・チェンを視界へ捉えた。
一方、藤原の前には15位へ上がったコスタがいる。背後からは17位のチェンが迫っていた。
〈蒼真、現在16位。タイヤ温度は上がっています。まだ無理に守らなくて構いません〉
〈少しずつ反応が出てきた。あと2周は必要だ〉
〈了解。その間は今のペースを維持してください〉
藤原はウォールとの距離を一定に保ち、コーナーごとにスーパーハードの感触を確かめた。
序盤の順位を守るためにタイヤを滑らせれば、この戦略を選んだ意味がなくなる。前との差を開かせすぎず、後ろに並ばせない速度だけを保つ。
1周目を終える。
クロフォードが首位。ハート、ウェーバー、ヴァレンティが続く。
藤原は16位、信治は18位。
MUNEの2台は、同じスタートラインから、まったく異なる最初の1周を終えた。
*
3周目に入る頃、藤原のステアリングへ返る感触が変わり始めた。
〈フロントが入るようになった。リアも問題ない〉
〈確認しました。コスタとの差は1.1秒です〉
〈追える〉
7号車のラップタイムが少しずつ上がる。
信治はチェンの背後まで近づいたものの、ウォールに挟まれた区間では仕掛ける場所がない。無理に接近すれば、ソフトを傷めるだけだった。
〈信治、今は急がなくていい。チェンの後ろでタイヤを使いすぎないように〉
〈分かってる。直線の立ち上がりだけ合わせる〉
ピットのモニターには、異なる色で2台のラップが重ねられていた。
22号車は序盤から速く、7号車は周回を重ねるごとに安定していく。
「ここまでは想定の範囲です」
朝倉が言った。
宗村は画面から目を離さない。
「まだ3周だからね」
「ええ。スーパーハードを選んだ答えが出るのは、もっと先です」
4周目を終えた時点で、藤原は16位、信治は18位。
7号車のスーパーハードはようやく反応を返し始め、22号車のソフトはチェンの背後で次の機会を待っている。
スタートで動いたのは、それぞれ1つの順位だけだった。
だが、異なるタイヤを選んだ2台のレースは、すでに同じ時間では進んでいなかった。
58周の答えは、まだ始まったばかりだった。
【4周目終了時点・レース状況】
・藤原蒼真/7号車:16位。前はコスタ、後ろはチェン。スーパーハード4周使用。ピット0回。車両異常なし。
・中村信治/22号車:18位。前はチェン、後ろはデュボワ。ソフト4周使用。ピット0回。車両異常なし。
・順位変動:1周目、藤原がコスタに先行され15位→16位。コスタは16位→15位。信治がデュボワをオーバーテイクし19位→18位。デュボワは18位→19位。
・天候/路面:ドライ。黄旗、SC、VSCなし。
・リタイア:なし。残り22台。




