Chapter 51 走り出す前の仕事
決勝日の朝、MUNE RACINGのガレージには、まだ観客席のざわめきが届いていなかった。
聞こえるのは工具がトレーに触れる乾いた音と、冷却ファンが回り続ける低い唸りだけだった。
篠崎美月は、競技役員の立ち会いの下で許可された確認項目を順番に追っていた。予選後のMR-01はパルクフェルメの管理下にあり、チームの判断だけでセットアップを変えたり、部品を外したりすることはできない。それでも、安全と信頼性を確かめるために認められた作業はあり、その一つ一つを記録に残す必要があった。
美月は22号車の左側へ膝をつき、ライトを当てながら締結部のマーキングと外観を見比べる。異常が見えないことと、問題がないことは同じではない。
確認を終えるたび、チェックシートの欄へ印を付けていった。
「美月、左前は終わったか」
柴崎哲也の声が背後から飛ぶ。
「終わりました。今は左後ろを見ています」
「急ぐな。見落とす方が時間を食う」
「はい」
短く答え、美月は作業へ戻った。
初めてのIGP決勝だからといって、特別な手順が突然増えるわけではない。決められた箇所を、決められた方法で、決められた順序のまま確認する。ただ、その手に伝わる重さだけは昨日までと違っていた。
今日、この車は22台の中で58周を走る。今ここで見落とした小さな兆候が、長い決勝のどこで表へ出るかは分からない。
反対側では、別のメカニックが7号車の確認を進めていた。2台とも競技役員の管理下で許可された範囲の作業を続け、決勝へ向けた最終確認の段階に入っている。
柴崎が2台の間を歩き、作業記録を受け取った。
「締結部のマーキング、もう一度見ろ」
「さっき確認しました」
美月が答えると、柴崎は記録から目を上げた。
「したかどうかは聞いてない。もう一度だ」
「……はい」
悔しさを飲み込み、ライトを持ち直す。同じ場所を確認する意味は分かっていても、自分の作業を信用されていないように感じる瞬間はあった。
美月が目を凝らしていると、柴崎が隣へしゃがんだ。
「昨日の走行後、お前が先に負荷の掛かる箇所を絞ったのは正しい。ただし、正しいと思った時ほど確認を重ねろ。レースは58周だ。最初は平気でも、繰り返し荷重が掛かれば最後まで同じとは限らん。走っている信治には見えないから、俺たちが見る」
「はい」
今度は迷わず答えた。
柴崎は立ち上がり、7号車側へ移っていく。美月はチェックシートへ目を戻し、もう一度、同じ箇所を最初から追った。
*
ガレージ奥では、神谷英治、ラスタス・パルナー、朝倉智樹、結城遼が前日までの走行データを確認していた。
画面にはFP2のロングラン、FP3、予選の記録が並んでいる。神谷は車両側の状態、ラスタスは7号車と藤原の走らせ方、結城は22号車と信治の感触を照合し、朝倉は2台の情報を決勝戦略へまとめていた。
宗村宗一は少し離れた位置で、タイヤに関する資料を同じページのまま見続けていた。
「宗村さん、さっきから同じところを見ていますね」
桐生美咲が隣から声をかける。
「見れば見るほど、気になるところが増えるんだよね」
「その顔でブリーフィングに入ると、神谷さんに警戒されますよ」
「まだ何も言ってないのに?」
「昨日も同じことを言っていました」
宗村は資料を閉じかけたが、思い直したようにもう一度開いた。
「でも、15番手と19番手から普通に走って、普通に前へ行けるほど甘くないでしょう?」
「だからといって、変わったことをすれば前へ行けるわけでもありません」
「分かってるよ。変わっているかどうかは、ちゃんとみんなに聞く」
「先に結論を決めてから聞かないでくださいね」
「美咲さん、俺のこと信用してない?」
「信用しているから、確認しているんです」
桐生はそう答えると、スタッフの集合時刻と作業進行を照らし合わせた。
宗村は再び資料へ目を落とす。藤原はMR-01の現状を使い切って15位へ入り、信治は1分27秒214で19位。最後のアタックは黄旗で中断している。
決勝で必要なのは、予選と同じ一発の速さではない。燃料を積んだマシンの動き、TERRANOVA COMPETITION TYRESの特性、58周の中で変化する路面とトラフィック、初めてIGP決勝を走る信治と経験を持つ藤原。同じMR-01でも、同じ走り方が最善とは限らなかった。
*
ドライバー控室では、信治が前日の車載映像を止めていた。
画面に映っているのは、1分27秒214を記録した周だった。最後のアタックは黄旗で中断したため、信治が最後までまとめ切った予選ラップはこれになる。
「まだ見ていたのか」
藤原が入ってきた。
「確認しておきたかったので」
「予選はもう終わったぞ」
「分かっています。でも、決勝でも同じコースを走ります」
藤原は画面を見たあと、信治の隣へ座った。
「同じコースでも、同じ条件じゃない。燃料を積めば車は重くなり、タイヤも前後の状況も変わる。昨日の1周を、そのまま今日の課題にするな」
「じゃあ、何を基準にすればいいですか?」
「走り始めてから決めろ。最初の数周で車の状態を見て、自分に何ができるか判断する」
信治は停止した映像へ目を戻した。
「藤原さんは、初めてのIGP決勝で落ち着いていられました?」
「覚えてないな」
「それ、答えになってませんよ」
「覚えていないくらい余裕がなかったんだろう」
信治が藤原を見ると、藤原は表情を変えずに続けた。
「経験があるように見える人間も、最初から経験を持っていたわけじゃない。今日は、お前が最初の1回を走る日だ」
信治はしばらく黙ったあと、映像を閉じた。
「まず車の状態を見る。昨日を取り返そうとしない。でも、行けるところでは行きます」
「それでいい。ただし、58周あることは忘れるな」
「はい」
控室の外から、結城の声が聞こえた。
「信治、藤原さん。ブリーフィングの準備ができた」
「今行く」
信治が立ち上がり、藤原も席を離れる。2人は並んで部屋を出た。
*
ガレージでは、22号車の確認を終えた美月が最後の記録へ署名していた。
柴崎が内容を確認し、短くうなずく。
「よし。22号車、許可範囲の確認完了」
少し遅れて、7号車側からも完了の声が上がった。
タイヤラックには、スタート用の選択を待つ複数のセットが並んでいる。2台へどのコンパウンドを装着するのか、その答えはこれから決まる。
神谷が資料をまとめ、ラスタスと朝倉が席を立った。結城はドライバーを呼びに向かい、桐生は全員の動きと予定時刻を確認する。
宗村はタイヤ資料を手にしたまま、ブリーフィングルームの扉へ向かった。
その背中を見た神谷が、わずかに目を細める。
「宗村さん。その資料は何ですか」
「ちょうど、みんなに相談しようと思ってたんだ」
神谷は答えず、ラスタスだけがどこか楽しそうに宗村の手元を見ていた。
まもなく、決勝前ブリーフィングが始まる。
15番グリッドと19番グリッドから、58周をどう戦うのか。MUNE RACINGにとって最初の決勝は、マシンがグリッドへ並ぶ前から、すでに動き始めていた。




