Chapter 50 順位だけでは見えないもの
予選終了から30分が過ぎても、MUNE RACINGのガレージにはセッションの熱が残っていた。
パルクフェルメ規定の管理下に置かれた7号車と22号車を前に、メカニックたちは許可された範囲の確認作業を進めている。乾いた工具の音が続く一方、モニターには確定した予選結果が表示されたままだった。
藤原蒼真15位、中村信治19位。
橘ことねは、その数字を何度も見直していた。
公式SNSへ予選結果を掲載するだけなら難しくない。順位とタイムを間違えず、2台の写真を添えれば投稿は完成する。しかし、それだけでは市原から積み上げてきた時間も、初めての高速市街地で2人が何と戦ったのかも伝わらない。
「ことねさん、まだ出していないんですか?」
予選直後のスポンサー対応を終えた白石玲奈が、隣へ来た。
「結果だけなら、もう出せます。でも、それで終わらせていいのかなと思って」
「何を書こうとしているんです?」
「藤原さんは15位で、最後のアタックをまとめました。信治さんは19位ですけど、最後は黄旗でアタックを中止しています。それも書いた方がいいですよね。ただ、結果の言い訳にはしたくなくて」
白石はすぐには答えず、ことねの画面へ目を落とした。
「結果が良くなかった理由を並べれば、言い訳に見えるかもしれません。でも、今日チームが何をしたのかを事実として伝えるなら、それは言い訳ではありません」
「白石さんなら、どう書きます?」
「私はスポンサーへ、ロゴがどの場面で映り、どの媒体で扱われたかを報告します。ことねさんは、チームが外からどう見えるかを考えてください。同じ予選でも、私たちが伝えるものは違います」
ことねは頷き、文章を最初から書き直した。
初めてのIGP予選。藤原は最後のアタックで1分26秒842を記録して15位。中村は1分27秒214で19位となり、最後のアタックは黄旗のため中止しました。明日は58周の決勝。ここからが、MUNE RACINGにとって本当の最初のレースになります。
「これなら、どうですか?」
「私は好きですよ。でも、公開前の確認は桐生さんにもお願いします」
「はい」
ことねが送信前の原稿を桐生美咲へ回す。その横で白石は、日の出環境コーポレーション、夕陽ドリンコ、JURASをはじめとする各社向けの資料へ、予選結果と露出状況を追記していった。
15位と19位を、実際より大きく見せることはできない。けれど、順位だけを切り離して小さく見せる必要もない。
初参戦のチームがどこから始まり、何を積み上げているのか。白石が伝えるべき価値は結果を飾ることではなく、その過程を企業ごとに理解できる形へ変えることだった。
*
ホスピタリティ区画では、牧村千夏が遅い昼食を取りに来たスタッフへ温かい飲み物を渡していた。
「信治さん、食べられますか?」
入口で立ち止まった信治へ、千夏が声をかける。
「食べます。朝からあまり入らなかったので」
「それなら、今日はちゃんと座ってください。立ったままだと、食べたことになりません」
「宗村さんと同じことを言われてる気がします」
「同じことをするからです」
信治は苦笑して席へ座った。間もなく藤原も入ってきて、その向かいへ腰を下ろす。
「藤原さん、15位お疲れさまでした」
「ありがとう。信治、顔に出ているぞ」
「19位で満足できるほど、できた人間じゃないので」
「満足する必要はない。だが、予選はもう終わった。明日まで引きずる必要もない」
「分かっています。ただ、1分27秒214を出した周も、最後の高速区間でもう少し行けたと思うんです」
「行けたかもしれないし、行ってウォールへ当たっていたかもしれない。最後のアタックで試せなかったことも含めて、今の時点では答えは出ない」
信治が黙る。
藤原は、千夏から受け取った飲み物へ口をつけた。
「決勝は1周で終わらない。予選で残したものを、58周すべてで取り返そうとするな」
「……はい。まずスタートして、最後までですね」
「それだけでもないけどな」
「藤原さん、昨日から少しずつ説明を減らしてませんか?」
「自分で考え始めたからだ」
信治は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく笑った。
ホスピタリティ区画の外側では、取材を終えた記者たちが予選の印象を話していた。
「藤原の15位は、新規チームとしては悪くない」
「ただ、トップとは1.684秒だ。中団へ入ったとはまだ言えないな」
「中村は19位か。最後は黄旗で計測へ入れなかったが、明日は初めてのIGP決勝だろう。まず、どこまで落ち着いて走れるかだ」
千夏は会話を聞いても、誰かへ伝えるために覚えようとはしなかった。空いた食器を下げ、次に来る人のために席を整える。
ここでは評価も噂も、食事を終えれば自然に流れていく。必要以上に追わないことも、ホスピタリティを守る仕事のひとつだった。
*
夕方、チームがその日の確認作業を終える前に、ガレージ奥で短いミーティングが開かれた。
神谷英治が車両状態を報告し、柴崎哲也が決勝までに許可された点検項目を読み上げる。朝倉智樹はFP2のロングランと予選データを基にスタートタイヤ別の戦略資料をまとめ、ラスタス・パルナーと結城遼は、それぞれの担当車から得られた情報を照合していた。
「戦略は、今夜のデータ整理が終わってから決めます」
朝倉の言葉に、宗村宗一が頷く。
「決めつけないで、使える選択肢を全部見よう。俺もひとつ考えてることがあるから」
神谷とラスタスが、ほぼ同時に宗村を見た。
「宗村さん」
「まだ何も言ってないよ、神谷さん」
「言う前に確認しているんです。変な思いつきではありませんね?」
「失礼だなあ。ちゃんとタイヤの話です」
「それを聞いて、余計に不安になりました」
張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
桐生が手元の予定表を閉じる。
「詳しい話は、明日のブリーフィングでお願いします。今日はスタッフを休ませます」
「はい、美咲さん」
宗村が素直に引き下がると、神谷はまだ疑うような目を向けていた。
その頃、日本では、ことねが公開したブログを1人の若い女性が読んでいた。
「モータースポーツって何がおもろいんか、よう分からへんかったけど……このブログ、なんかおもろいな。決勝も見てみよかな」
画面に映っていたのは、15位と19位という順位だけではなかった。
初めての世界で働く人たちと、黄旗で試せなかったものまで明日の58周へ持っていこうとする、蒼、オレンジ、シルバーで彩られた2台だった。




