Chapter 49 初めての予選、1周に残るもの
予選開始が近づくと、MUNE RACINGのガレージから会話が消えた。
メカニックが7号車と22号車のタイヤウォーマーを外し、最後にホイール周辺を確認してから作業位置を離れる。FP3までに得たデータを基に決めたセットアップは、すでに2台へ反映されていた。予選が始まれば、限られた周回の中でタイヤを整え、前後の間隔を作り、速さを1周へ残さなければならない。
藤原蒼真はコクピットの中でステアリングを握り、ラスタス・パルナーの声を聞いていた。
〈蒼真、最初の走行は路面の変化を確認しながら入ります。前後の間隔はこちらで見ます〉
〈了解。最初の高速区間で反応を確認する〉
隣の22号車では、中村信治が目を閉じたまま結城遼の説明に耳を傾けていた。
〈信治、最初から取り返そうとしなくていい。タイヤを急がせず、計測周へ入るまでに合わせよう〉
〈了解。低速のブレーキングと、高速で残っている修正を分けて考える〉
〈それでいい。前との間隔はこちらで作る〉
ピットレーン出口のシグナルが青へ変わる。ガレージ内で低く脈打っていたHELIOS V10が、アクセルに合わせて厚みのある中音を膨らませた。ヴォン……ヴォォォン、と床を震わせた音は、2台が動き出すと澄んだ高音を重ねて伸びていく。
「22号車、出します」
結城の声を受け、柴崎哲也が手を上げた。22号車が先にガレージを離れ、数秒後、7号車もピットレーンへ滑り出していった。
神谷英治は走行データの画面、朝倉智樹はコース上の車両配置を示す画面へ視線を固定していた。60分間で許されるのは最大12周。速い車を作るだけでは足りず、その車を走らせる場所までチームが用意しなければならない。
*
国際映像がピットレーンからコース全景へ切り替わり、IGP公式中継の放送席にも各メーカーの音が重なって届いていた。
「Season 1最初の予選が始まりました! ここで明日のスターティンググリッドが決まります。パイセン、見ているだけなのに緊張してきました」
「走るのはレイナじゃないでしょう」
「それは分かっています。でも、画面で見てもウォールが近いんですよ。あの速度で逃げ場がないと思うと、息をするのを忘れそうです」
「ドライバーは息を止めて走るわけにはいかないけれど、少しの欲張りが次のコーナーまで影響する場所ではあるわね。タイヤを狙った状態へ入れ、前後の間隔を確保して、最初から最後まで1周をつなぐ必要がある」
「まずMUNE RACINGの中村さんがアタックへ入ります!」
信治は最終コーナーからアクセルを開き、22号車をコントロールラインへ向けた。HELIOS V10の音がヴァァァァァン、とコンクリートウォールの間で反射し、シフトが上がるたびに高く伸びていく。
最初の高速区間では、FP3よりブレーキングを奥へ送った。MR-01のノーズが内側へ入り、視界の端をウォールが後方へ流れる。低速区間では強いブレーキ入力から狙った位置へ車を止め、立ち上がりで早くアクセルを開けられた。
ただし、高速で左右へ向きを変える区間では、ステアリングを切ったあとに小さな修正が残った。アクセルを大きく戻すほどではない。それでも、そのわずかな待ち時間は次の加速へ持ち越される。
〈信治、最後までまとめよう。今の周回を残す〉
〈分かってる〉
22号車が最初の計測を終えると、続いて藤原がアタックへ入った。
7号車の動きには、時間を削ろうとする誇張がなかった。ブレーキングを必要以上に遅らせず、MR-01が次の動作へ移れる位置で向きを変える。ウォールへ近づいても修正を増やさず、使える幅だけを静かに使い切っていく。
「藤原さん、滑らかですね。中村さんとは走らせ方が違って見えます」
「藤原は車が嫌がる入力を避けながら、使える範囲を最後まで使っている。中村はブレーキングで時間を作れているけれど、その勢いを高速区間の出口までつなぐ部分には、まだ経験の差が出ているわね」
2台が計測を終えると、MUNEのモニターへ区間ごとの数字が並んだ。神谷は順位より先に、操作と車両挙動の対応を追っていく。
「22号車は低速区間で失っていません。高速区間の2か所で、最初の入力後に修正が残っています」
「本人の感覚とも一致します」
結城が答えると、宗村宗一が隣の画面を見た。
「7号車は?」
ラスタスが区間タイムを示す。
「大きな失敗はありません。ただ、路面はまだ良くなります。次の走行で詰められる余地があります」
朝倉は無線のやり取りと車両配置を確認し、次の走行開始時刻を組み直した。
「最後の走行は混みます。2台を同じ集団へ入れず、間隔をずらします」
その間に、タイミングモニターの上側を争うチームが動き始めた。
姿が見えるより先に、遠くから低い音圧が近づいてくる。……ォォォォォ……グォオオオオオ! クロフォードのApex GPが最終コーナーへ現れ、ORION V12の重厚な咆哮をメインストレートへ解き放った。高回転へ達しても音の厚みは失われず、長い全開区間で速度を伸ばしていく。
「クロフォード、速い! 最初の本格的なアタックから、一気に基準を作ってきました!」
「Apexは高速区間で車体が安定しているし、ORION V12は速度が乗ってからも伸びが鈍らない。クロフォードは、その強みをどこで使えばいいか分かった上で迷いなく踏んでいるわね」
ハート、ウェーバーも続けてタイムを刻む。AEGIS V8の鋭い金属音とORION V12の咆哮が交互にコースを満たし、トップ3の車が走るたびに順位表示の上側が入れ替わった。MUNEの2台は少しずつ押し下げられたが、ガレージに動揺はない。公開テストとFPで見てきた差が、同じ予選の時計に置き換わっているだけだった。
*
予選終盤、信治は次の計測周で低速区間のブレーキ入力を修正し、高速区間では最初のステアリング操作を急がせなかった。22号車は前の走行より修正を減らし、最終コーナーからヴァァァァァァン、とHELIOS V10の音を伸ばしてコントロールラインを通過する。
1分27秒214。
その時点で信治は19位だった。
〈信治、19位。もう1回行く。次が最後のアタックになる〉
〈了解。高速で残した分を詰める〉
藤原も次の計測で1分26秒台へ入り、15位まで順位を上げた。路面はまだ改善しており、2人とも最後の走行へ向かう。
ピットレーンには車列ができ、各車が前との間隔を求めて速度を調整していた。朝倉が全体の配置を見ながら出走順を決め、ラスタスと結城がそれぞれのドライバーへ情報を送る。
〈蒼真、前は空いています。後方から速い車が来ますが、間隔は取れます〉
〈了解〉
〈信治、前方との間を広げる。最終区間で追いつかないよう調整しよう〉
〈了解。タイヤの感触は悪くない〉
先に藤原が最後のアタックへ入った。7号車は最初の区間から、ひとつ前の走行よりウォールへ近づいていた。限界を越えているわけではない。FPから積み上げた範囲を、藤原が1周の中で静かに使い切っている。
「藤原さん、前のタイムを上回っています!」
「無理に振り回していないわね。MR-01が動くのを待つのではなく、次の操作へ入れる姿勢を先に作っている。こういう1周には経験が出る」
最終コーナーを抜けた7号車がコントロールラインを通過する。
1分26秒842。
藤原は15位を守った。
〈蒼真、15位です。クールダウンして戻りましょう〉
〈了解。今の車で使えるところまでは使った〉
続いて信治が最終アタックへ向かい、計測開始に備えて最終区間へ入った。その時、コースの一角に黄旗が表示される。
〈信治、黄旗。アタック中止だ〉
〈了解〉
信治は直ちに速度を落とした。ステアリングの表示から黄旗が消えるまで待っても、残り時間はもう1周の計測を許さない。22号車は1分27秒214を更新できないまま、ゆっくりとピットへ戻ってきた。
〈信治、19位だ。車を戻してくれ〉
〈了解。最後は仕方ない。でも、その前の周にも残したところがある〉
〈データで確認しよう。まず戻ってこよう〉
信治は短く返事をし、チェッカーを受けた。
最後にコース上の視線を奪ったのはクロフォードだった。Apex GPの車体はウォールに囲まれた高速区間を一本の線で結び、ORION V12はグォオオオオオオォォーーン、と遠くまで届く咆哮を残した。最大出力と高速域の伸び、AURORAの一発のグリップ、車体の安定性を、クロフォードが1周へ取りこぼさずまとめていく。
「1分25秒158! クロフォード、Season 1最初のポールポジションです!」
「マシンの強みを最後まで取りこぼさなかった1周ね。追う側へ、これが開幕戦の基準だと示した」
予選が終了し、順位表示が確定する。
藤原15位、1分26秒842。信治19位、1分27秒214。トップとの差はそれぞれ1.684秒と2.056秒で、2人の差は0.372秒だった。
MUNEのガレージで大きく喜ぶ者はいない。それでもラスタスは藤原がまとめ切った最後のアタックを区間ごとに見直し、結城は信治が1分27秒214の周で残した修正の跡を追っていた。朝倉も2台の走行順と、信治が最後のアタックを断念した黄旗の発生時刻を記録していく。
15位と19位。それが、MUNE RACINGが初めての予選で確定させた現在地だった。
藤原は最後の1周でMR-01の力を使い切り、信治には黄旗のため試せなかった改善が残った。
確定した結果と、次に縮めるべき差。その両方を持って、MUNEは初めての決勝へ進む。




