Chapter 48 最初の基準線
FP1開始を告げるグリーンシグナルが灯ると、サザンクロス・ストリートサーキットを覆っていた静けさは一瞬で消えた。
Apex GPのORION V12が低く「ゴォォォォ……」と唸り、ピットレーンへ放たれたところで「グォオオオオオッ!」と重厚な咆哮へ変わる。その直後には、Titan MotorsportのAEGIS V8が「キィァァン!」と金属的な高音を跳ね上げ、Orion RacingのV12も仮設ガレージの壁を震わせながら続いていった。
同じピットレーンへ向かうマシンであっても、加速への反応も、音の立ち上がり方も違う。初めて迎えるIGPの公式セッションは、その違いを聞き分ける間もないほどの勢いで動き始めていた。
MUNE RACINGは、すぐには動かなかった。
7号車と22号車のHELIOS V10は「ヴォン……ヴォォォン」と厚みのある音を保ちながら低回転で息づき、スタッフたちは車両の周囲に残って最後の確認を続けている。柴崎哲也が7号車の右前輪周辺を確認し、篠崎美月は22号車の左後方から目を離さなかった。
「7号車、準備完了」
「22号車も完了です」
柴崎が2台の周囲を見渡し、スタッフが安全な位置まで下がったことを確かめる。
「よし。行かせろ」
先に藤原蒼真の7号車が動き、数秒遅れて中村信治の22号車が続いた。低い回転で抑えられていたHELIOS V10の音は、ピットレーン出口を越えたところで澄んだ高音へ変わり、厚みを残した「ヴァァァァァン!」という響きがウォールの間を抜けていく。
信治にとって、これがIGPのレースウィークで初めての公式走行だった。
ピットレーン出口を越えた瞬間、コンクリートウォールが視界の両側から迫ってくる。公開テストで走った広い常設コースとは違い、高速コーナーの先にも逃げ場はなく、わずかな判断の遅れがそのまま接触へつながる環境だった。
〈信治、最初は各部の確認だ。タイムは追わなくていい〉
結城遼の声がヘルメット内へ届く。
〈了解。まずブレーキとシフトを確認する〉
22号車は速度を抑えながら、ステアリングの反応、ブレーキ入力に対する減速の立ち上がり、変速時の振動を順番に確かめていく。前方では藤原が、ウォールとの距離を一定に保ちながら周回していた。
ガレージのモニターには、Apex、Titan、Orionのタイムが早くも上位へ並び始める。とりわけクロフォードは、路面にまだ埃が残る段階から高速区間へ迷いなく入り、ORION V12の高速域の伸びを使いながら基準となるタイムを作っていた。
「最初から速いですね」
宗村宗一が画面を見つめる。
神谷英治は視線を動かさなかった。
「あちらは勝つための確認をしています。こちらは車が正しく走れる状態かを確かめているところです。同じFP1でも、進めている仕事が違います」
「まずは自分たちの順番か」
「ええ。省いていい段階はありません」
*
同じ頃、IGP公式中継の放送席にもSeason 1最初のエンジン音が届いていた。
「IGP公式中継をご覧の皆さん、こんにちは。今シーズンから実況を担当します、声優のレイナです。以前から見ていたIGPを、今度はこの席から皆さんと一緒に追いかけます。全18戦、よろしくお願いします!」
「解説を担当するマリカです。現役時代は国内フォーミュラやル・マンを走っていました。タイヤやマシンの動き、ドライバーの駆け引きを、できるだけ分かりやすくお伝えします」
「頼りにしています、パイセン!」
「レイナ、本番でも本当にそう呼ぶのね」
「もう呼んじゃいましたから。それではパイセン、Season 1最初のFP1です。クロフォード、いきなり速い! まだ開始直後ですよ!」
「路面ができるのを待たず、自分で基準を作りにいっているわね。ただし、今の順位をそのまま週末の勢力図だとは考えない方がいい。チームごとに燃料搭載量も走行プログラムも違うから」
「そしてMUNE RACINGの藤原さん、中村さんもコースへ入りました。新規参戦チームにとって、初めて迎えるレースウィークです!」
「2台とも、まずは確認走行ね。タイムよりも、輸送を終えた車両に問題がないか、実際の路面でドライバーが何を感じるかを確かめる時間になるわ」
Season 1の中継で初めて組んだ2人には、まだ互いの間合いを測る瞬間があった。それでも、レイナがコース上の変化と視聴者の感情を勢いよく拾い、マリカがドライバー経験に基づいて理由を補う流れは、最初の数分で形になり始めていた。
放送席で2人が言葉を交わす間にも、コース上では各車が確認項目を終え、少しずつ速度を上げていた。
藤原は数周を終えてガレージへ戻ると、ヘルメットを脱ぐ前にラスタス・パルナーへ伝えた。
「高速で向きを変えたあと、リアが落ち着くまで少し待たされる。最初の入力を強くすると、次の動きが遅れる」
「風だけの影響ではなさそうですね。ステアリング入力の位置と車高変化を照合しましょう」
ラスタスは藤原の感覚を否定せず、必要な確認をデータ担当へ回した。
隣では、信治が結城に身振りを交えて説明している。
「強くブレーキを踏むところは悪くない。でも、ブレーキを残したまま向きを変えると、フロントが一度入ってから戻される感じがある」
「低速と高速で同じ?」
「高速の方が大きい。低速では扱える」
「分かった。藤原さんのコメントとも重なる部分がある。まずデータを見よう」
神谷を中心に、ラスタスと結城が2台の記録を並べる。朝倉智樹も走行プログラムの進みとコース上の状況を確認しながら加わり、どの操作の直後に挙動が現れたのかを切り分けていった。
「変更は一度に1項目です」
神谷が全員へ確認するように言った。
「FP2で反応を見ます。良くなっても悪くなっても、理由を追える形にしてください」
*
午後のFP2では路面温度が上がり、各チームが決勝を意識した長い走行へ移った。
MUNEは午前のデータを基に車体姿勢を調整し、比較できる燃料条件で2台の反応を確かめた。最初の数周では大きな差が見えなかったが、周回を重ねるにつれて午前とは異なる傾向が現れ始める。
〈遼、さっきより高速の入口は素直になった。ただ、出口でまだ待つ〉
〈了解。タイヤの状態は?〉
〈大きくは落ちていない。前後とも、まだ使える〉
TERRANOVAは一発のタイムではAURORAやVORTEXに後れを取る。しかし連続周回では急激に性能を失わず、22号車のラップタイムも大きく崩れなかった。
藤原も同じ傾向を報告した。MR-01の絶対的な速さが増したわけではないが、燃料を積んだ状態でも変化が読みやすく、走行を続けるほどマシンの扱い方が見えてくる。
モニターの上位ではクロフォード、ハート、ウェーバーが速さを競い、その直後をFalcon Motorsportが追っていた。
FalconのHELIOS V10が最終コーナーから立ち上がり、「ヴァァァァァァァーーン」と滑らかに回転を伸ばしながらメインストレートを駆け抜ける。MUNEと同じ音色を持つV10であっても、ワークス仕様のエンジンと車体を一体で仕上げた加速は明らかに鋭く、速度が伸び続ける時間にも差があった。
「同じエンジンでも、同じ車にはならないか」
宗村の言葉に、ラスタスが穏やかに答えた。
「搭載方法も車体との統合も、使える性能の範囲も違います。ただ、比較できる相手が目の前にいるのは悪いことではありません」
神谷が続ける。
「差が見えれば、やるべきことも見えます。今は縮めたふりをする必要はありません」
宗村はうなずき、再び2台のロングランへ目を戻した。
*
翌日のFP3では、各チームが予選を見据えて燃料を減らし、一発の速さを確かめ始めた。
路面には前日までの走行でラバーが乗り、グリップは上がっている。それでもウォールとの距離は変わらず、限界を越えた時に立て直せる余地はほとんどなかった。
藤原は最初のアタックを終えると、最終区間でわずかに余した部分をラスタスへ伝えた。続く走行ではブレーキング開始位置を詰め、MR-01の姿勢を乱さない範囲でウォールとの距離を削っていく。
信治もタイムを縮めたが、高速区間では藤原ほど迷いなくアクセルを踏み切れなかった。ウォールが近づくほど、公開テストでは感じなかった判断の重さが右足へ残る。
〈信治、無理に合わせなくていい。今の入力を基準にして、次に詰められる場所を確認しよう〉
〈了解。最後の区間は、もう一度映像とデータを見たい〉
チェッカーが振られ、各車が速度を落としてピットレーンへ戻ってくる。遠ざかるORION V12の「グォオオオオオォーーン」という咆哮に、AEGIS V8の鋭い金属音や、HELIOS V10の厚みを残した高音が重なり、サーキット全体に異なる余韻を残した。
順位表の上では、Apex、Titan、Orionが開幕前の評価どおりの速さを示していた。FalconとVegaがその後方につけ、中団ではHorizonが安定した走りを重ねている。
MUNEの2台は、トップ勢から明確に離されていた。それでも公開テストの時より、どこで失い、何が足りないのかを、具体的な言葉と数値で捉えられるようになっていた。
走行後のガレージで、神谷は全員を見渡した。
「予選で突然速くなる部品はありません。ここまでに確認した範囲で、2台を一番扱いやすい状態へ持っていきます」
信治は悔しさを隠さず、藤原は静かにモニターを見ていた。
宗村は2台のMR-01へ視線を移す。
初めての公式走行で得たものは、自信でも絶望でもなかった。
世界との差を測り、その差を縮めていくための、最初の基準線だった。




