Chapter 47 知らない場所、知っている顔
サザンクロス・ストリートサーキットのパドックは、朝から絶え間なく動いていた。
仮設建物の間をフォークリフトが行き交い、各チームのスタッフが機材ケースを押している。遠くのガレージでAEGIS V8が始動すると、低回転の「キュォン、キュォォン」という金属的な音が素早く跳ね上がり、その鋭さに周囲の会話が一瞬だけ埋もれた。
MUNE RACINGのガレージでは、現地で再び組み上げられた2台のMR-01が作業スタンドに載せられていた。蒼、オレンジ、シルバーの車体には、日の出環境コーポレーションをはじめとするスポンサーのロゴが並んでいる。
柴崎哲也とメカニックたちは、輸送後の点検を黙々と進めていた。篠崎美月が22号車の足回りを確認してチェックシートへ印を付け、その隣では神谷英治とラスタス・パルナーが、梱包前に残した記録と到着後の車両状態を照合している。
「見たところ問題はありません。ただ、外から見える範囲だけで判断するつもりはありません」
神谷の言葉に、ラスタスが頷いた。
「ええ。走行前に数値も含めて確認し、技術検査へ持ち込みましょう」
その会話を聞きながら、宗村宗一はガレージの外へ目を向けた。
通路の向こうには、Apex GP、Titan Motorsport、Orion Racingの設備が並んでいる。作業エリアの広さも、行き交う人員も、積み上げられた機材の量もMUNEとは違っていた。
公開テストでも見ていたはずの差だったが、開幕戦のパドックで向かい合うと、そこに積み重ねられてきた年月まで見せつけられているように感じられる。
「宗村さん」
桐生美咲が呼びかけた。
「ドライバーズブリーフィングの時間です。藤原さんと信治さんは、もう向かっています」
「俺も行くの?」
「宗村さんは、このあとチーム代表者向けの確認があります」
「別の部屋?」
「はい。場所も資料に書いてあります」
「見たよ。確認しただけ」
桐生は何も言わず、資料の該当箇所を指で示した。
「……もう一度見ておきます」
宗村が資料を受け取る横で、橘ことねはガレージ入口から撮影できる範囲を確認していた。整備中の部品やモニターが映り込まない角度を選び、2台のMR-01と作業するスタッフの姿を短く収める。
「ことねさん、こちらもお願いします」
白石玲奈が車体の横へ立ち、日の出環境コーポレーションと夕陽ドリンコのロゴが見える角度を示した。
「スポンサー向けですか?」
「はい。掲載用ではなく、現地でも契約どおり掲示されていることを報告する写真です。公開するものとは分けてください」
「分かりました。送付用のフォルダーへ入れます」
白石は撮影された画面を確認すると、スポンサーや関係者を迎える区画へ向かった。そこでは牧村千夏が、限られたスペースに飲み物と軽食を並べている。
「千夏さん、来客用の表示はこれで大丈夫ですか?」
「はい。アレルギー表示も付けましたし、スタッフ用と来客用は場所を分けてあります」
「助かります。午前中に何人か来る予定なので、人数が変わったらすぐに連絡します」
「まだ増やせます。食べる場所がなくならない範囲なら」
華やかなパドックの裏側では、誰に何を見せ、どこまで公開し、訪れた人をどう迎えるかが静かに組み立てられていた。白石はスポンサー対応、ことねは発信と撮影、千夏は食事と来客用の飲食準備を担っており、仕事をする場所は近くても、その役割は同じではない。
それぞれの仕事が重なった先に、MUNE RACINGの外向きの顔が作られていた。
*
ブリーフィング会場へ向かう通路で、信治は前を歩くドライバーたちの背中を見ていた。
クロフォード、ハート、ウェーバー。写真や映像で何度も見てきた名前が、同じ通路を歩いている。
公開テストでは自分の走行準備とMR-01の確認に追われ、ほかのドライバーと話す時間はほとんどなかった。今日は22人全員が、同じ開幕戦の説明を受けるために集まっている。
「そんなに周りを見ていると、初参加だとすぐに分かるぞ」
隣を歩く藤原蒼真が言った。
「もう全員知っていると思います」
「なら、隠す必要もないな」
藤原の口元がわずかに動いた。
その時、後ろから速い足音が近づいた。
『Welcome to IGP.』
聞き覚えのある声に、信治が振り返る。
Orion Racingのスーツを着たデイビス・シェードが立っていた。海外フォーミュラ時代に同じチームで走った友人は、以前より身体が厚くなり、表情にもIGPで勝利を経験したドライバーの余裕が見える。
『久しぶりだな、デイビス。ずいぶん待たせた』
『本当に長かった。けど、お前は昔から遠回りする方だっただろ』
『そっちは、ずいぶん先まで行ったな』
信治がOrion Racingのエンブレムへ目を向けると、シェードは肩をすくめた。
『居場所が変わっただけだ。コースに出れば、昔と同じだよ』
『手加減してくれる気は?』
『あると思うか?』
『聞いただけだ』
2人は短く笑った。
シェードは藤原にも軽く会釈し、藤原も小さく頷いて返す。
先を歩くOrion Racingのスタッフに呼ばれると、シェードは信治へ片手を上げて離れていった。
信治は、その背中をしばらく見送った。
「友人なんだな」
「はい。昔のチームメイトで、あの頃から速かったです。でも、今はもっと遠くにいる感じがします」
「距離は走らなければ縮まらない」
「藤原さん、さっきから正しいことしか言いませんね」
「開幕前だからな」
会場の入口には、各チームのドライバーが次々と集まっていた。友人も、かつて同じレースを走った者も、初めて顔を合わせる者もいる。
ここでは全員が同じ説明を聞くが、ガレージへ戻れば、それぞれ異なるマシンと立場でスタートラインへ向かう。
ブリーフィングを終えてメディア対応区画へ出ると、待っていた記者の1人が信治へ声を掛けた。
「初めてのIGPです。開幕戦の目標は?」
信治は一度だけ藤原を見てから、記者へ向き直った。
「まずは、この週末を最後まで走り切ることです。自分たちがどこにいて、何が足りないのかを、できる限り持ち帰りたいと思っています」
「ポイントは狙いませんか?」
「狙わないレースはしません。でも、今の僕たちが言葉だけで近づける場所ではないことも分かっています」
記者はもう一度問いかけようとしたが、次の取材対象を見つけると信治へ礼を言って離れていった。
信治が小さく息を吐く。
「変なこと、言っていませんでしたか?」
「自分で考えて答えたなら、それでいい」
2人がMUNEのガレージへ戻る途中、建物の向こうでORION V12が始動した。
「ゴォォォォ……」
低回転にもかかわらず厚い音圧が仮設建物の間を抜け、姿の見えないマシンの存在を先に伝えてくる。先ほどのAEGIS V8が鋭く跳ね上がる音なら、ORION V12は空気そのものを押し出すような重い響きだった。
信治が足を止めかけると、藤原は歩調を緩めないまま言った。
「聞くのは今日だけにしておけ。明日からは、自分の音と前の車だけ見ればいい」
「はい」
MUNEのガレージからは、スタッフの声と工具の音が途切れることなく響いていた。まだMR-01は走っておらず、HELIOS V10にも火は入っていない。
それでも、2台をコースへ送り出すための確認は始まっている。
知らないパドックの中に知っている顔があり、遠くからは、これから競う相手の音が聞こえていた。
MUNE RACINGは、すでに開幕戦の中へ入っていた。




