Chapter 46 海の向こうのスタートライン
夜明け前の市原ファクトリーは、いつもより広く見えた。
2台のMR-01は輸送に必要な状態へ分解され、主要な機材や交換部品とともに、すでにオーストラリアへ向けて送り出されている。床に残っているのは、運搬用ケースを固定していた印と、出発直前まで使われていた作業台だけだった。
先発したスタッフは、現地で貨物を受け取り、ガレージの設営と車両の再組立に入っている。ここにいるのは、ドライバーを含む後発の出発組と、最後まで市原で確認作業を続けていたスタッフたちだった。
篠崎美月は、自分が携行する工具ケースから伸びたタグを、もう一度指でなぞった。名前と所属、緊急連絡先は昨日も確認し、今朝も確認している。それでも、まだ手を離せなかった。
「確認は終わったか」
背後から柴崎哲也の声が飛んだ。
「はい。工具も装備も、リストと一致しています」
「なら閉めろ。空港で開けて、1本ずつ数え直す気か」
「しません」
美月が留め具を倒すと、乾いた金属音が静かなフロアに響いた。柴崎は返事をせず、ケースのタグと封印を目で確かめてから次へ移る。
疑っているのではない。確認を終えた者の仕事を、別の目でもう一度確認する。それが柴崎の守ってきた手順だった。
事務エリアでは、桐生美咲が出発組の渡航書類と現地での行動予定を照合し、総務・人事責任者の佐伯佳奈がパスポート情報と緊急連絡先の最終確認を進めていた。
白石玲奈はスポンサー各社へ送る出発連絡と現地到着後の報告予定をまとめ、橘ことねは撮影できる範囲と情報の公開時期を桐生に確かめている。
「機材搬出の写真は、今朝出して大丈夫ですか?」
「現在地や輸送予定が分かる情報は外してください。現地の設営写真は、作業が終わってから確認します」
「分かりました。先に『行ってきます』だけ出します」
ことねが画面を閉じる。その隣では、牧村千夏が人数分の小さな包みを保冷バッグへ詰めていた。
「機内で食べるものは出るんだよね?」
宗村宗一が覗き込み、千夏は手を止めずに答えた。
「出ます。でも、出発前に何も食べない人がいるので。宗村さんも、その1人です」
「よく見てるね」
「食事を担当してますから」
「反論できないなあ」
宗村が受け取った包みを手に振り返ると、桐生が腕時計を示した。
「宗村さん、感心している場合ではありません。あと10分で出ます」
「美咲さん、ちゃんと間に合ってるよ」
「出発組が全員そろって初めて、間に合ったと言うんです」
短いやり取りに、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
それでも、誰もが何度もファクトリーの奥へ目を向けていた。ここで作り上げたMR-01は、もう市原にはない。
次に見る時には、サザンクロス・ストリートサーキットのガレージで再び組み上げられ、始動確認やセットアップ、技術検査へ向けた準備を待つ姿になっている。
公開テストは、22台の中に初めて身を置き、自分たちの現在地を知るための場だった。しかし開幕戦は違う。順位が残り、結果が残り、積み上げてきたすべてが世界の前に置かれる。
*
移動の車内では、信治が窓の外を見たまま、ほとんど話さなかった。普段なら結城遼とセットアップや走行計画の話を始めるところだが、今日は膝の上に置いた資料も閉じたままだった。
「眠れなかったか」
隣に座る藤原蒼真が訊いた。
「少しだけです。藤原さんは平気そうですね」
「慣れているのは移動だけだ。開幕前に何も感じなくなったわけじゃない」
信治は窓に映った藤原の顔を見た。
「初めての時、何を考えていました?」
「自分がここにいていいのか、だな」
「藤原さんでも?」
「初めてなら誰でも同じだ。違うのは、その答えを走って出せるかどうかだ」
藤原はそれだけ言うと目を閉じた。励ますために整えられた言葉ではないからこそ、信治の胸に残った。
*
長い飛行のあと、機内の窓の向こうに朝の光が広がった。日本とは違う角度から差し込む日差しが、翼の上で白く弾けている。
空港へ降り立つと、英語の案内放送と行き交う人々の足音が一度に押し寄せた。スタッフが手荷物を確認する間、白石は現地の関係者やスポンサー担当者から届いた連絡へ目を通し、ことねはスマートフォンを向ける前に桐生へ視線で許可を求めた。
桐生が小さく頷く。
投稿されたのは、到着口を出ていくスタッフたちの後ろ姿と、短い一文だけだった。
――MUNE RACING、オーストラリアに到着しました。
その反応を確認するより先に、一行は待機していた車両へ荷物を積み、サーキット近郊へ向けて移動を始めた。
市街地へ入るにつれ、開幕戦の広告が増えていく。街灯には各チームの色が並び、建物の壁面にはクロフォード、ハート、ウェーバーの巨大な写真が掲げられていた。
世界王者、優勝経験者、トップチームのエースたち。その中に、MUNEの姿はまだない。
信号待ちで車が止まると、歩道を歩いていた少年が、通りの向こうに立つIGPの看板を指差した。
「本当に来たんですね」
信治が小さく言うと、前方の席にいた宗村が振り返った。
「まだ着いただけだよ」
「分かっています。でも、今までは全部、日本で準備していたので」
「うん。ここからは、世界の中で準備することになる」
車が再び動き出す。
やがて建物の隙間から、仮設スタンドとフェンスに囲まれたコースの一部が見えた。
サザンクロス・ストリートサーキット。全長5.281kmの高速市街地を58周する開幕戦の舞台が、街の日常のすぐ隣で形を整えている。
コース脇にはウォールが迫り、その上ではスタッフが最後の設営を続けていた。まだIGPマシンのエンジン音は聞こえない。それでも、ピットレーンへ通じるゲート、積み上げられたタイヤ、各チームのロゴを掲げた輸送用ケースが、数日後に始まる戦いの近さを伝えていた。
美月は窓越しにフェンスを目で追った。公開テストの時とは違い、ここで起きることは確認走行の記録では終わらない。道路も広告も、行き交う人々も、すべてがSeason 1の始まりへ向かっている。
宗村は車窓の向こうに続くコースを見ながら、誰に聞かせるでもなく静かに言った。
「ここが、俺たちのスタートラインだ」
誰も答えなかった。
答える代わりに、それぞれが前を見た。
市原で生まれた蒼、オレンジ、シルバーの2台は、すでに海の向こうで待っている。ガレージへ入れば、荷解きと再組立、各部の確認、エンジン始動、技術検査へ向けた準備が始まる。
その先に待っているのは、比較のためのテストではない。
MUNE RACINGにとって初めてのレースウィークが、いま始まった。




