Chapter 45 あの日の無茶
参戦体制発表会から数日。
市原のファクトリーでは、オーストラリアへ向けた準備が進んでいた。
梱包されていく機材。チェックを受ける部品。スタッフたちはそれぞれの持ち場を行き来し、初めて迎えるIGP開幕戦へ向けて動き続けている。
その様子を少し離れたところから眺めていた宗村の隣へ、桐生がやってきた。
「宗村さん」
「はい?」
「何してるんですか?」
「見てる」
「それは見れば分かります」
宗村は笑った。
「邪魔しちゃ悪いかなと思って」
「それなら、そのまま何もしないでください」
「美咲さん、最近ちょっと扱い雑じゃない?」
「開幕前ですから」
2人の視線の先にはMR-01があった。
発表会を終え、スポンサーのロゴをまとったSeason 1仕様。
次にこの車が走るのはテストではない。
世界選手権の開幕戦だ。
桐生がしばらくMR-01を見たあと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、神谷さんにIGP参戦の話をした時って、どうだったんです?」
「神谷さん?」
「私に話した後です。神谷さんにも話したでしょう?」
「ああ」
宗村の表情が緩んだ。
「反対されたよ」
「でしょうね」
「即答だった」
桐生が笑う。
「何て言われたんです?」
「聞きたい?」
「その顔を見る限り、面白かったんでしょう?」
宗村は少しだけ神谷の低い声を真似た。
「『宗村さん、頭おかしくなったんですか?』って」
桐生が吹き出した。
*
LMP2の先が長くない。
その可能性が現実味を帯び始めた頃だった。
宗村は先に桐生へ自分の考えを伝え、その後、神谷のところへ向かった。
神谷は作業机に資料を広げていた。
宗村が向かいへ座る。
「神谷さん」
「何です?」
「LMP2、この先厳しいじゃないですか」
「そうですね」
神谷もそこに異論はなかった。
「自分たちで車を作る必要が出てくると思うんですよ」
神谷が顔を上げた。
宗村の話が、単なるLMP2の将来予測ではないことに気づいたらしい。
「何を考えてるんです?」
「だったらIGPに行こうと思うんですよ」
沈黙した。
神谷は宗村の顔をじっと見た。
冗談を言っているようには見えなかったのだろう。
「宗村さん、頭おかしくなったんですか?」
「美咲さんより反応悪いなあ」
「当たり前です」
神谷は椅子の背にもたれた。
「LMP2で車を理解して改良してきたことと、ゼロからIGPのフォーミュラを設計することは別物ですよ」
宗村は黙って聞いている。
「人が足りない。設備も足りない。予算だって足りない。空力開発はどうするんです? IGPの開発速度についていくには、今のMUNEじゃ何もかも足りない」
「うん」
「うん、じゃないですよ」
宗村は持ってきたファイルを机へ置いた。
「じゃあ、これ」
「何です?」
「調べたやつ」
神谷が怪訝な顔でファイルを開いた。
IGPの参戦条件。
エンジン供給候補。
必要になる人材。
スポンサー獲得の考え方。
今のMUNEに足りないものと、それをどう補うのか。
神谷が1枚ずつめくっていく。
最初に見せた呆れた表情が、少しずつ消えていった。
しばらくして、その手が止まる。
「……いつから考えてたんです?」
「聞かないでください」
宗村は笑った。
神谷が次に目を止めたのは、空力開発についてだった。
「大学?」
「全部自前で持たなくてもいいと思うんですよ」
宗村が説明する。
地元の上総工科大学との産学連携。
風洞やCFD、解析、材料研究。
大学側には実際のレーシングカーを題材とした研究テーマが生まれ、MUNEには研究設備を活用できる機会が生まれる。
もちろん、学生を安価な開発要員として使う話ではない。
「講義とかゼミとか、ちゃんと大学の研究としてやる。その中でモータースポーツに興味を持つ学生がいたら、将来うちに来てくれるかもしれないし」
「来なかったら?」
「それはそれでいいでしょ。その人の人生なんだから」
宗村は何でもないことのように答えた。
「でも続けていけば、若い人と接点を持ち続けられる。MUNEのことを知ってもらう機会にもなる」
神谷は何も言わず、次のページをめくった。
「スポンサーは?」
当然の疑問だった。
日本には、すでにIGPへ参戦しているチームがある。
普通に考えれば、これから参戦するMUNEより、既存チームへスポンサー料を出す方が企業にとって安心だ。
ところが宗村は別の資料を取り出した。
「そこ、逆にチャンスだと思ってるんですよ」
「どういうことです?」
「IGPに広告を出したい会社が、あとから既存チームに行くと高いじゃないですか」
神谷が黙って聞く。
「同じ金額でも、向こうじゃ小さいロゴしか出せない。でも新規参戦のうちなら、もっと大きな場所を出せる」
「初年度だけなら、でしょう?」
「そう。翌年はうちだって上げなきゃいけない」
宗村は頷いた。
「だから1年目で、ちゃんと広告効果があるって証明する。スポンサーになったことで会社の知名度や業績に効果が出れば、増額しても継続してくれる可能性はあるでしょ?」
神谷が資料へ目を落とす。
宗村は思いつきだけでIGPへ行こうとしているわけではなかった。
足りないものを調べている。
それをどう補えるのかも考えている。
神谷が小さく息を吐いた。
宗村がさらに続けた。
「あとね」
「まだあるんですか?」
「うちに見学に来た人って、だいたいおばちゃんのなめろう定食食べて帰るでしょ?」
神谷の視線が止まった。
「……はい?」
「あれも結構売れてるし。千夏ちゃんのお弁当も近所の会社とか工場で毎日売り切れてるって知ってる?」
「…………」
「なんとかなるよ」
神谷が固まった。
数秒前までIGPの参戦条件やスポンサー戦略について話していた男が、突然なめろう定食と弁当の話をしている。
「宗村さん」
「はい?」
「ここまで資料を作っておいて、最後が食堂なんですか?」
「だって売れてるよ?」
「IGP参戦の話ですよ」
「分かってるよ。食堂の売上だけでIGPやるとは言ってないじゃないですか」
「当たり前です」
神谷は額を押さえた。
宗村は笑っていた。
けれど、少ししてその表情が変わった。
「でもね、神谷さん」
神谷が顔を上げる。
「今あるものを全部使って、それでも駄目なら仕方ないと思うんです。でも、足りないから最初からやらないっていうのは、違うと思うんですよ」
神谷は黙っている。
「LMP2だって、最初から全部持ってたわけじゃないでしょ?」
宗村はそれ以上何も言わなかった。
神谷がもう一度、机の資料を見る。
長い沈黙のあとだった。
「……分かりました」
宗村は黙って待った。
「ただし、やるなら壊れない車から作ります。速さはその後です」
「うん」
「最初からトップと戦えるなんて思わないでくださいよ」
「思ってないよ」
神谷が疑うように宗村を見る。
宗村は少し笑った。
「いつかは世界一だけど」
「今の話、聞いてました?」
「聞いてたよ」
神谷は呆れたように息を吐いた。
それでも、もう反対とは言わなかった。
その日から、MUNE RACINGのIGPマシンは現実へ向かって動き始めた。
*
「――そんな感じだったかな」
話を聞き終えた桐生は、MR-01を見ながら笑っていた。
「神谷さんらしいですね」
「でしょ?」
「宗村さんも宗村さんですけど」
「それ、褒めてる?」
「半分くらいは」
作業エリアの向こうには神谷の姿があった。
スタッフと部品を確認し、その先にはMR-01がある。
まず、壊れない車。
速さはその後。
あの日の神谷の言葉は、今もMR-01の中に生きている。
宗村がその姿を見ながら呟いた。
「神谷さんが引き受けてくれなかったら、ここまで来てないだろうね」
桐生も神谷を見る。
「神谷さんだって、宗村さんが言い出さなかったらここにはいなかったんじゃないですか?」
「そうかな」
「たぶん」
その時、向こうにいた神谷が2人に気づいた。
「宗村さん!」
「はい?」
「時間あるなら、ちょっとこっち来てもらえます?」
宗村が桐生を見る。
「呼ばれた」
「行ってきてください」
「美咲さんも?」
「私はまだ仕事があります」
「俺もあるんだけどなあ」
桐生が神谷の方を見る。
「今できましたね」
「なるほど」
宗村は苦笑しながら歩き出した。
桐生はその背中を見送る。
無茶を言い出す人がいる。
現実を見て止める人がいる。
それでも可能性があるなら、実現する方法を考える。
そして、その周囲を支える人たちが集まっていく。
そうやって1台の車が生まれた。
MR-01。
もうすぐ日本を離れる。
次に待っているのは計画でも、シェイクダウンでも、公開テストでもない。
IGPに参戦する最初のシーズン、その第1戦。
MUNE RACINGにとって初めてのIGPが、本当に始まろうとしていた。




