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IGNITION  作者: ムネディ


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38/70

Chapter 37 追うべき背中

翌朝、公開テストの走行が再開された。

 

ガレージを出た7号車が、HELIOS V10の澄んだ音を残してピットレーンを加速していく。

 

藤原は前日の走行で確認したセットアップから、1項目だけ変更した状態でコースへ戻っていた。

 

神谷はモニターの前から動かない。

 

榊原がデータを追い、ラスタスは藤原から返ってくる言葉を待つ。

 

〈蒼真、バランスは?〉

 

藤原はすぐには答えなかった。

 

2つのコーナーを抜け、短いストレートへ入る。

 

〈進入は良くなった。でも高速で少し神経質になった〉

 

「やっぱり出たか」

 

榊原が小さく呟いた。

 

神谷が画面を見る。

 

「戻すか?」

 

ラスタスは無線を切ってから答えた。

 

「もう1周だけ見たい」

 

神谷が頷く。

 

それ以上は言わなかった。

 

答えを急がない。

 

変えたものが、どこへ影響したのか。

 

その確認こそが今日の仕事だった。

 

 

*

 

 

藤原の前方に1台のマシンが現れた。

 

Horizon GP。

 

同じHELIOS V10。

 

そして同じTERRANOVA COMPETITION TYRESを使うチームだった。

 

藤原の視線がわずかに変わる。

 

エンジンもタイヤも同じ。

 

だからこそ、比較できるものがある。

 

コーナーへの進入。

 

旋回中の姿勢。

 

立ち上がり。

 

Horizonのマシンがコーナーを抜けるたび、少しずつ離されていく。

 

排気音は、MUNEが使うHELIOS V10と同じ系統のものだった。厚みのある中音から澄んだ高音へ伸びていく。

 

それでも、音が高まるタイミングがMR-01より早い。Horizonはコーナーの出口へ車体を向けると、藤原より先にアクセルを開け始めていた。

 

だが藤原は無理に追わなかった。

 

今のMR-01で相手と競争する意味はない。

 

見るべきなのは、どこで差が生まれているかだった。

 

〈ラスタス〉

 

〈聞いてる〉

 

〈あの車、立ち上がりが早い〉

 

ラスタスもタイミングモニターへ目を向ける。

 

〈了解。戻ったら確認しよう〉

 

〈うん〉

 

それだけで会話は終わった。

 

 

*

 

 

藤原が戻る頃には、信治も次の走行準備に入っていた。

 

ヘルメットを被る前に、結城とデータを見る。

 

「遼、さっき言ってたやつ試すんだよね?」

 

「うん。ただし1か所だけ。これで変化がなかったら、次を考える」

 

「了解」

 

信治がモニターから離れようとすると、藤原が戻ってきた。

 

信治は足を止める。

 

「藤原さん、どうでした?」

 

藤原はヘルメットを脱ぎながら答えた。

 

「少し良くなった。でも別のところが悪くなった」

 

「難しいですね」

 

「だから面白いんだろ」

 

信治が笑う。

 

「藤原さん、そういうこと言うんですね」

 

「たまにはな」

 

ラスタスが横から入る。

 

「蒼真、先にこっち」

 

「はい」

 

藤原がデータ確認へ向かう。

 

信治はその背中を見てから、22号車へ乗り込んだ。

 

〈信治、まず変更したところだけ確認しよう〉

 

〈了解〉

 

信治がコースへ出る。

 

数周してタイヤに熱が入ると、少しずつペースを上げた。

 

ブレーキング。

 

進入。

 

クリッピングポイント。

 

アクセル。

 

1つずつ確かめる。

 

前回より、車が自分の意思についてくる。

 

ほんの少しだった。

 

だが、その少しが信治にははっきり分かった。

 

〈遼〉

 

〈うん〉

 

〈こっちの方がいい。進入で無理に曲げなくて済む〉

 

〈立ち上がりは?〉

 

信治は次のコーナーで確認する。

 

〈悪くなってない。俺はこっちが好き〉

 

結城はすぐには返さなかった。

 

データを見る。

 

信治の感覚だけで決めない。

 

速度、舵角、ブレーキ、アクセル。

 

いくつもの数字を確認してから無線を入れる。

 

〈データも良くなってる。そのまま続けよう〉

 

〈了解〉

 

結城の横でラスタスが小さく頷いた。

 

それに気づいた結城が聞く。

 

「何ですか?」

 

「いや。ちゃんと待てるようになったなと思って」

 

「何をです?」

 

「ドライバーが『良い』と言ってから、自分でデータを見るまで」

 

結城は少し考える。

 

以前なら、信治の言葉を聞いた瞬間に答えを探そうとしていたかもしれない。

 

今は違う。

 

まず聞く。

 

それから見る。

 

「まだ慣れてないですけど」

 

「最初から慣れてたら、俺たちの仕事がなくなる」

 

結城が笑った。

 

「それは困りますね」

 

 

*

 

 

信治が走行を続ける。

 

その途中、後方から1台のマシンが近づいてきた。

 

Horizon GPだった。

 

信治はミラーを見る。

 

同じHELIOS V10。

 

同じTERRANOVA COMPETITION TYRES。

 

先ほど藤原が見ていた相手だ。

 

信治はラインを邪魔しないように走りながら、その動きを見る。

 

聞き慣れた系統のエンジン音が背後から迫り、コーナーの出口で前へ抜けていく。

 

HorizonのドライバーはMR-01より早くアクセルを開け、HELIOS V10の回転を先に上げていた。

 

そこで差が広がった。

 

次のコーナーでも同じだった。

 

〈遼〉

 

〈見えてる〉

 

〈立ち上がり?〉

 

〈たぶん。ただ、今は決めないで。戻ってから蒼真さんのデータとも比べる〉

 

〈了解〉

 

信治は追わなかった。

 

少し悔しい。

 

だが、追いかけて1周のタイムを作るより、今はMR-01を理解する方が大切だった。

 

それが分かるくらいには、この数回のテストで信治も変わり始めていた。

 

 

*

 

 

走行後。

 

藤原と信治、ラスタス、結城、神谷、榊原がデータを囲んだ。

 

同じところで差が出ている。

 

藤原が先に口を開く。

 

「立ち上がりですね」

 

信治も頷く。

 

「俺もそう感じました」

 

榊原が画面を切り替える。

 

「高速側だけじゃないです。速度が落ちるところでも、向こうの方がアクセルを開け始めるのが早い」

 

宗村が少し離れた場所から聞いていた。

 

「同じエンジンとタイヤでも違うんだね」

 

神谷が振り返る。

 

「違わなかったらシャシーを作ってる意味がないだろ」

 

「それはそうなんだけど」

 

宗村はモニターを見る。

 

これまでのテストでは、MR-01だけを見ていた。

 

良くなった。

 

悪くなった。

 

壊れなかった。

 

変更に反応した。

 

それだけでも得られるものは多かった。

 

だが今は違う。

 

同じ世界を戦う相手が目の前にいる。

 

しかも同じエンジンとタイヤを使う相手がいる。

 

自分たちだけでは見えなかったものが、比較することで輪郭を持ち始めていた。

 

神谷が榊原を見る。

 

「原因を絞れるか?」

 

「持ち帰って解析します。今ここで決めつけたくありません」

 

「それでいい」

 

宗村が笑う。

 

「なんか神谷さん、嬉しそうだね」

 

「どこがだ」

 

「直すところが見つかったから」

 

神谷は答えなかった。

 

だが、否定もしなかった。

 

 

*

 

 

ガレージの外では、白石が電話を終えたところだった。

 

手元の資料には、今日話をした企業の名前と反応が細かく書き込まれている。

 

すぐ近くでは、ことねがカメラの画面を確認していた。

 

「ことねちゃん、今日どれくらい撮った?」

 

「かなりあります。ちょっと撮りすぎたかもしれません」

 

「撮らないよりいいよ。帰ったら大変だけど」

 

「ですよね……」

 

白石が笑う。

 

「その中からMUNEを見つけるのが、ことねちゃんの仕事だから」

 

ことねはカメラの画面を見る。

 

MR-01。

 

藤原。

 

信治。

 

メカニックたち。

 

桐生。

 

神谷。

 

宗村。

 

1日追い続けただけでも、そこにはいくつものMUNE RACINGが残っていた。

 

「はい」

 

ことねはカメラを握り直した。

 

まだ、撮る。

 

公開テストは終わっていない。

 

 

*

 

 

ガレージでは、再びMR-01の準備が始まっていた。

 

宗村は2台の車を眺める。

 

トップチームの背中は遠い。

 

中団のチームにも、まだ学ぶものがある。

 

だが、それでいい。

 

世界一を目指すと言ったとき、MUNEにはIGPマシンすらなかった。

 

今は、自分たちで造った2台の車がここにある。

 

「宗村さん」

 

桐生の声がする。

 

「ん?」

 

「ぼーっとしてるなら手伝ってください」

 

「今ちょっと感慨に――」

 

「あとにしてください」

 

「はいはい」

 

宗村が歩き出す。

 

追うべき背中は見えた。

 

ならば、あとは1周ずつ近づいていけばいい。

 

MUNE RACINGが昔から掲げてきた言葉は、そのためにある。

 

Every Lap Matters.

 

まだ、この公開テストで拾えるものは残っていた。

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