Chapter 37 追うべき背中
翌朝、公開テストの走行が再開された。
ガレージを出た7号車が、HELIOS V10の澄んだ音を残してピットレーンを加速していく。
藤原は前日の走行で確認したセットアップから、1項目だけ変更した状態でコースへ戻っていた。
神谷はモニターの前から動かない。
榊原がデータを追い、ラスタスは藤原から返ってくる言葉を待つ。
〈蒼真、バランスは?〉
藤原はすぐには答えなかった。
2つのコーナーを抜け、短いストレートへ入る。
〈進入は良くなった。でも高速で少し神経質になった〉
「やっぱり出たか」
榊原が小さく呟いた。
神谷が画面を見る。
「戻すか?」
ラスタスは無線を切ってから答えた。
「もう1周だけ見たい」
神谷が頷く。
それ以上は言わなかった。
答えを急がない。
変えたものが、どこへ影響したのか。
その確認こそが今日の仕事だった。
*
藤原の前方に1台のマシンが現れた。
Horizon GP。
同じHELIOS V10。
そして同じTERRANOVA COMPETITION TYRESを使うチームだった。
藤原の視線がわずかに変わる。
エンジンもタイヤも同じ。
だからこそ、比較できるものがある。
コーナーへの進入。
旋回中の姿勢。
立ち上がり。
Horizonのマシンがコーナーを抜けるたび、少しずつ離されていく。
排気音は、MUNEが使うHELIOS V10と同じ系統のものだった。厚みのある中音から澄んだ高音へ伸びていく。
それでも、音が高まるタイミングがMR-01より早い。Horizonはコーナーの出口へ車体を向けると、藤原より先にアクセルを開け始めていた。
だが藤原は無理に追わなかった。
今のMR-01で相手と競争する意味はない。
見るべきなのは、どこで差が生まれているかだった。
〈ラスタス〉
〈聞いてる〉
〈あの車、立ち上がりが早い〉
ラスタスもタイミングモニターへ目を向ける。
〈了解。戻ったら確認しよう〉
〈うん〉
それだけで会話は終わった。
*
藤原が戻る頃には、信治も次の走行準備に入っていた。
ヘルメットを被る前に、結城とデータを見る。
「遼、さっき言ってたやつ試すんだよね?」
「うん。ただし1か所だけ。これで変化がなかったら、次を考える」
「了解」
信治がモニターから離れようとすると、藤原が戻ってきた。
信治は足を止める。
「藤原さん、どうでした?」
藤原はヘルメットを脱ぎながら答えた。
「少し良くなった。でも別のところが悪くなった」
「難しいですね」
「だから面白いんだろ」
信治が笑う。
「藤原さん、そういうこと言うんですね」
「たまにはな」
ラスタスが横から入る。
「蒼真、先にこっち」
「はい」
藤原がデータ確認へ向かう。
信治はその背中を見てから、22号車へ乗り込んだ。
〈信治、まず変更したところだけ確認しよう〉
〈了解〉
信治がコースへ出る。
数周してタイヤに熱が入ると、少しずつペースを上げた。
ブレーキング。
進入。
クリッピングポイント。
アクセル。
1つずつ確かめる。
前回より、車が自分の意思についてくる。
ほんの少しだった。
だが、その少しが信治にははっきり分かった。
〈遼〉
〈うん〉
〈こっちの方がいい。進入で無理に曲げなくて済む〉
〈立ち上がりは?〉
信治は次のコーナーで確認する。
〈悪くなってない。俺はこっちが好き〉
結城はすぐには返さなかった。
データを見る。
信治の感覚だけで決めない。
速度、舵角、ブレーキ、アクセル。
いくつもの数字を確認してから無線を入れる。
〈データも良くなってる。そのまま続けよう〉
〈了解〉
結城の横でラスタスが小さく頷いた。
それに気づいた結城が聞く。
「何ですか?」
「いや。ちゃんと待てるようになったなと思って」
「何をです?」
「ドライバーが『良い』と言ってから、自分でデータを見るまで」
結城は少し考える。
以前なら、信治の言葉を聞いた瞬間に答えを探そうとしていたかもしれない。
今は違う。
まず聞く。
それから見る。
「まだ慣れてないですけど」
「最初から慣れてたら、俺たちの仕事がなくなる」
結城が笑った。
「それは困りますね」
*
信治が走行を続ける。
その途中、後方から1台のマシンが近づいてきた。
Horizon GPだった。
信治はミラーを見る。
同じHELIOS V10。
同じTERRANOVA COMPETITION TYRES。
先ほど藤原が見ていた相手だ。
信治はラインを邪魔しないように走りながら、その動きを見る。
聞き慣れた系統のエンジン音が背後から迫り、コーナーの出口で前へ抜けていく。
HorizonのドライバーはMR-01より早くアクセルを開け、HELIOS V10の回転を先に上げていた。
そこで差が広がった。
次のコーナーでも同じだった。
〈遼〉
〈見えてる〉
〈立ち上がり?〉
〈たぶん。ただ、今は決めないで。戻ってから蒼真さんのデータとも比べる〉
〈了解〉
信治は追わなかった。
少し悔しい。
だが、追いかけて1周のタイムを作るより、今はMR-01を理解する方が大切だった。
それが分かるくらいには、この数回のテストで信治も変わり始めていた。
*
走行後。
藤原と信治、ラスタス、結城、神谷、榊原がデータを囲んだ。
同じところで差が出ている。
藤原が先に口を開く。
「立ち上がりですね」
信治も頷く。
「俺もそう感じました」
榊原が画面を切り替える。
「高速側だけじゃないです。速度が落ちるところでも、向こうの方がアクセルを開け始めるのが早い」
宗村が少し離れた場所から聞いていた。
「同じエンジンとタイヤでも違うんだね」
神谷が振り返る。
「違わなかったらシャシーを作ってる意味がないだろ」
「それはそうなんだけど」
宗村はモニターを見る。
これまでのテストでは、MR-01だけを見ていた。
良くなった。
悪くなった。
壊れなかった。
変更に反応した。
それだけでも得られるものは多かった。
だが今は違う。
同じ世界を戦う相手が目の前にいる。
しかも同じエンジンとタイヤを使う相手がいる。
自分たちだけでは見えなかったものが、比較することで輪郭を持ち始めていた。
神谷が榊原を見る。
「原因を絞れるか?」
「持ち帰って解析します。今ここで決めつけたくありません」
「それでいい」
宗村が笑う。
「なんか神谷さん、嬉しそうだね」
「どこがだ」
「直すところが見つかったから」
神谷は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
*
ガレージの外では、白石が電話を終えたところだった。
手元の資料には、今日話をした企業の名前と反応が細かく書き込まれている。
すぐ近くでは、ことねがカメラの画面を確認していた。
「ことねちゃん、今日どれくらい撮った?」
「かなりあります。ちょっと撮りすぎたかもしれません」
「撮らないよりいいよ。帰ったら大変だけど」
「ですよね……」
白石が笑う。
「その中からMUNEを見つけるのが、ことねちゃんの仕事だから」
ことねはカメラの画面を見る。
MR-01。
藤原。
信治。
メカニックたち。
桐生。
神谷。
宗村。
1日追い続けただけでも、そこにはいくつものMUNE RACINGが残っていた。
「はい」
ことねはカメラを握り直した。
まだ、撮る。
公開テストは終わっていない。
*
ガレージでは、再びMR-01の準備が始まっていた。
宗村は2台の車を眺める。
トップチームの背中は遠い。
中団のチームにも、まだ学ぶものがある。
だが、それでいい。
世界一を目指すと言ったとき、MUNEにはIGPマシンすらなかった。
今は、自分たちで造った2台の車がここにある。
「宗村さん」
桐生の声がする。
「ん?」
「ぼーっとしてるなら手伝ってください」
「今ちょっと感慨に――」
「あとにしてください」
「はいはい」
宗村が歩き出す。
追うべき背中は見えた。
ならば、あとは1周ずつ近づいていけばいい。
MUNE RACINGが昔から掲げてきた言葉は、そのためにある。
Every Lap Matters.
まだ、この公開テストで拾えるものは残っていた。




