Chapter 36 比べて、初めて分かること
22号車が、ピットレーン出口のラインを越えた。
信治がアクセルを踏み込む。
背後で厚みのある中音を響かせていたHELIOS V10が、回転の上昇とともに澄んだ高音へ変わった。
車体が一気に加速し、ピットレーンの壁が後方へ流れていく。
シェイクダウンとは違う。
今日は自分たちだけではない。
コース上には、これまで映像や客席から見ていたIGPマシンがいる。
〈信治、まずは予定通り。タイムは気にしなくていい〉
遼の声が聞こえる。
〈分かってる〉
そう答えた直後、ミラーに1台のマシンが映った。
近づき方が速い。
信治は走行ラインを外し、相手の進路を空けた。
抜いていったのは、AEGIS V8を積むTitan Motorsportのマシンだった。
甲高い金属音が一瞬で横を通り過ぎ、変速するたびに鋭く音程を切り替えていく。
マシンは次のブレーキングで姿勢を乱さず減速し、向きを変えると、アクセル操作へ即座に反応してコーナーを立ち上がった。
同じIGPマシン。
それなのに、制動から旋回、加速へ移る一連の動きに迷いがない。
信治は思わず目で追いそうになった。
〈信治、自分の走行に集中〉
〈……見えてた?〉
〈ステアリングとアクセルの動きは見えてる。比較するのは戻ってからでいい〉
〈了解〉
信治は小さく息を吐き、MR-01へ意識を戻した。
他車を追いかけるために来たわけではない。
今は、自分たちの車を知る時間だ。
だが、1度見えてしまった差は、簡単には頭から離れなかった。
*
数周を重ねる。
シェイクダウンで感じた強烈な制動にも、少しずつ身体が慣れてきている。
その分、以前は捉えきれなかった部分が見え始めた。
〈遼〉
〈聞いてる〉
〈ブレーキを残して入ったとき、もう少しフロントがついてきてほしい。でも入り口だけ合わせると、その先が苦しくなりそう〉
結城はすぐに答えなかった。
信治の言葉と、画面に流れる舵角、速度、ブレーキ操作を照らし合わせる。
〈了解。今の状態でもう何周か確認しよう。まだ変えない〉
〈分かった〉
信治は走行を続けた。
ガレージでは結城が22号車のデータを追っていた。
その横へラスタスが来る。
「どうだ?」
「ブレーキングから進入で、もう少しフロントが欲しいと言ってます。ただ、そこだけ合わせると旋回中のバランスを崩すかもしれないとも感じてます」
ラスタスは画面へ目を向けた。
「それで、どうする?」
「今の状態でもう少し走らせます。本人も原因を決めつけてませんし、ここだけで変更すると別の動きを見落としそうなので」
ラスタスがわずかに笑った。
「なら、答えは出てるじゃないか」
結城はもう1度モニターへ向き直った。
経験の差を感じる。
ラスタスは答えを教えたわけではない。
結城自身が出した判断を、言葉にさせただけだった。
モニターの向こうで、22号車が再びコーナーへ入っていく。
結城はその動きと信治の操作を見ながら、次に確認すべき項目を整理した。
*
一方、藤原は7号車で別の確認を続けていた。
セットアップを1項目だけ変更し、車の反応を見る。
変更した部分だけでなく、その影響がほかへどう表れるかまで確認しなければならない。
〈蒼真、どう?〉
ラスタスの問いに、藤原は2つのコーナーを抜けてから答えた。
〈高速はこっちの方がいい。でも低速でリアを待つ時間が増えた〉
〈了解。次で戻そう〉
〈うん。その方がいい〉
短いやり取りだった。
その直後、藤原の後方からORION V12の重厚な咆哮が迫った。
Apex GPのマシンが距離を詰めてくる。
藤原は無理に前へ残らず、邪魔にならない位置へ車を寄せた。
相手は直線へ入っても加速を緩めず、低く重い音を遠くまで響かせながら速度を伸ばしていく。
最高速を重視するORIONらしい伸びだった。
ただし、燃料搭載量もタイヤの状態も違う。
藤原は見えた差をそのまま性能差とは決めつけず、どこから相手の加速が強くなったのかだけを記憶した。
ピットへ戻った藤原から、神谷も話を聞く。
「どうだ」
「悪くないです」
神谷が眉を動かす。
「それは褒めてるのか?」
「かなり」
藤原はヘルメットを脱いだ。
「変更に対してちゃんと反応します。高速側を良くすれば低速側に影響が出る。その違いが運転して分かる。少なくとも、何をやっても変化が見えない車じゃない」
神谷はMR-01を見る。
それは、この車を作るときに重視したことの1つだった。
最初から完成された車を作れるとは思っていない。
ならば、走らせながら育てられる車にする。
「速さは?」
宗村が横から聞いた。
藤原は少し考えた。
「トップは速いですね」
「やっぱり?」
「はい。立ち上がりの反応も、高速域の伸びも違います」
「結構?」
「結構」
宗村が苦笑する。
「そこは少しくらい夢を見せてくれてもいいんだけど」
「タイミングモニターを見れば分かりますから」
「ですよね」
神谷が宗村を見る。
「だから最初から言っただろ。比べなきゃ分からん」
「分かったよ。ちゃんと現実は見てるって」
宗村はモニターへ視線を戻した。
順位だけを見れば、MUNEは上位ではない。
だが、最後尾へ沈み続けているわけでもなかった。
もちろん、それだけでは何も断定できない。
燃料搭載量も違う。
タイヤの使用状況も違う。
各チームが何を試しているのかも分からない。
22台すべてが同じ目的でタイムを出しているわけではなかった。
それでも、1つだけ確かなことがある。
MR-01はIGPのコース上を走っている。
大きなトラブルを出さずに周回を重ね、セットアップ変更にも反応している。
新規参戦チームにとって、それは小さな成果ではなかった。
だが、周囲のスタッフは簡単には喜べなかった。
トップチームのマシンがピットへ戻ると、担当者が迷いなく車を囲み、短時間で確認を進めて再び送り出していく。
人の数だけではない。
動く順番、言葉の少なさ、判断の速さ。
長くIGPを戦ってきた時間が、ガレージの動きそのものに表れていた。
MUNEのスタッフは自分たちの作業を止めなかった。
ただ、その差を見なかった者もいなかった。
*
午後。
信治がピットへ戻ってきた。
コクピットから降りると、すぐに結城のところへ向かう。
「遼、さっきの進入」
「見てた。最初の数周より後半の方がブレーキを残してる」
「やっぱり?」
「うん。ただ、フロントだけの問題じゃないと思う。曲げ始めたあとのアクセル操作にも影響が出てる」
信治がモニターを覗き込んだ。
「俺もそう思った。曲げようとしすぎると、そのあと待つんだよ」
「じゃあ、ここを見て」
結城がデータを示す。
信治は黙って画面を追った。
ブレーキを緩め始めた位置。
ステアリングを切り込んだ量。
アクセルへ戻るまでの時間。
感覚だけでは曖昧だったものが、数字の流れとして並んでいる。
「……なるほど」
「次は1か所だけ変えてみたい。これで進入が良くなっても、立ち上がりが悪くなるなら戻す」
「分かった。それでいこう」
2人の会話を少し離れた場所で藤原が聞いていた。
信治が気づく。
「藤原さん?」
「いや。ちゃんと話せてるなと思って」
結城が苦笑する。
「まだ探りながらですけど」
藤原は信治を見る。
「ほかの車、気になる?」
「めちゃくちゃ気になります。抜かれると、どこまでついていけるか試したくなります」
即答だった。
藤原が笑う。
「今日は我慢しろ。相手が何を積んで、どのタイヤで走ってるかも分からない。追って崩したら、自分たちの確認ができなくなる」
「分かってますよ」
「開幕したら追えばいい」
信治は少しだけ黙った。
コース上では、また別のマシンが高い排気音を残して通過していく。
その音を聞きながら、信治は笑った。
「はい」
*
夕方。
走行を終えた2台のMR-01がガレージへ戻ってきた。
大きなトラブルはない。
柴崎たちが車体を確認し、ペクトはHELIOS V10のデータを追う。
忍もJY-03の状態を確認していた。
この時点では、長距離を走った際の特性まで断定できない。
忍は取得した数値と状態を記録し、異常が見当たらないことをペクトへ伝えた。
神谷の前には、今日1日で得た情報が集められていた。
榊原が解析結果を示す。
「高速側は想定との差が小さいです。ただ、姿勢変化が大きいところでは使える範囲が狭い。まだ詰められます」
神谷が頷く。
「一気に触るなよ。変えるなら1つずつだ」
「分かってます」
朝倉もタイムの推移と走行時のコース状況を確認している。
速かった周回が、本当に車の改善だけによるものなのか。
トラフィックが少なかったのか、タイヤの状態が良かったのか。
数字を残すだけではなく、その数字が出た条件まで整理する必要があった。
宗村がやってきた。
「で、どう?」
神谷は即答しなかった。
モニターを見る。
MR-01はトップではない。
現時点で、勝てる車だとも言えない。
かといって、この1日だけで絶望するような結果でもなかった。
そして何より、2台とも予定した走行を終えて戻ってきた。
「育てられる」
神谷が言った。
宗村が少し笑う。
「それ、いい意味?」
「悪い車なら、そんなことは言わん」
宗村は並んだ2台のMR-01を見る。
まだ足りない。
世界一には遠い。
だが、自分たちだけで走っていたときには見えなかった課題が、他車と比べることで輪郭を持ち始めている。
それなら前へ進める。
桐生がやってきた。
「宗村さん、今日の全体ミーティングは予定通り始めます。白石さんから、
スポンサー候補との面談も予定分はすべて終わったと連絡がありました」
「玲奈も走ってるねぇ」
「車より走ってるかもしれません」
宗村が笑った。
そのとき、ガレージの端でカメラを構えることねの姿が目に入る。
今日1日、彼女もまたMUNEを追い続けていた。
宗村は一瞬だけそちらを見たあと、ミーティングへ向かった。
公開テスト初日。
分かったのは、自分たちが速いということではない。
どこに差があるのか。
何を変えれば、その差を縮められるのか。
そして、この車にはまだ成長する余地があること。
世界との差を知った最初の日は、MUNEにとって敗北の日ではなかった。
ようやく、本当の開発を始められる日だった。




