Chapter 35 22台の朝
公開テスト初日の朝。
MUNE RACINGのガレージは、走行開始を待たずに動き始めていた。
2台のMR-01を中心にメカニックが行き交い、確認を終えた者が短い言葉で次の担当へ状態を伝えていく。
その少し後ろで、桐生美咲はタブレットを片手にガレージ全体を見渡していた。
「柴崎さん、22号車の準備は?」
「予定通り。問題ありません」
「神谷さんは?」
「ペクトと確認中です」
桐生は頷き、次の作業へ目を移す。
自分で車を触るわけではない。セットアップや走行プログラムを決めるわけでもない。
だが、それぞれが予定通り仕事を進められているかを把握し、問題があれば必要な場所へ人を動かす。
それがチームマネージャーである桐生の仕事だった。
「美月」
「はい」
「忍さんとの確認が終わったら、一度柴崎さんのところへ戻って。探してたから」
「分かりました」
美月が足早に作業エリアへ戻っていく。
入れ替わるように宗村がやってきた。
「美咲さん、ちょっとパドックを見てきても――」
「駄目です。今から代表者向けの確認があります」
「あ」
「忘れてましたね?」
「いや、覚えてたよ。……半分くらい」
「行きますよ」
「はい」
宗村が素直についていく。
近くにいた神谷は1度だけ2人を見たが、何も言わず作業へ戻った。
周囲のガレージから、次々にエンジンが目を覚ましていた。
甲高い金属音を鋭く立ち上げるAEGIS V8。低い回転域から重く響くATLAS V10。PHOENIX V8は荒々しい排気音を吐き、アクセルを戻した瞬間に乾いた破裂音を壁へ跳ね返した。
その向こうからは、ORION V12の咆哮がパドック全体を押し包むように届く。
音が重なるたび、ガレージの空気まで細かく震えた。
市原で自分たちの車だけを走らせていたときとは違う。
11チーム、22台。
MUNEは今日、その中の1チームとして初めてコースへ出る。
*
その頃、白石玲奈はMR-01を別の意味で眺めていた。
蒼、シルバー、オレンジ。
MUNEのカラーリング。そして左右のサイドミラーに入ったJURASのロゴ。
それ以外は――まだ空いている。
「……広いですねぇ」
隣にいた橘ことねが首を傾げる。
「何がですか?」
「売る場所」
「そこですか?」
「そこですよ。ここも、ここも。まだ使える」
白石はMR-01のサイドポッドへ目を向けた。
ことねが苦笑する。
「普通は格好いいとか言うところじゃないですか?」
「格好いいですよ。でも、格好いいだけじゃIGPは走れません」
白石の手元には、スポンサー候補へ渡す資料がある。
以前はCGや参戦計画、MUNEがLMP2で積み重ねてきた実績を使って説明するしかなかった。
今はMR-01がある。しかも今日は、世界最高峰を戦ってきた既存チームと同じコースを走る。
白石にとって公開テストは技術確認の場であると同時に、MUNEの価値を実物で示せる営業の機会でもあった。
「ことねちゃん、午前中に撮れる素材はお願い。走行だけじゃなくて、ガレージで仕事をしているところも欲しい。それもスポンサー向けに使うけど、普段の発信にも使えるようにして。無理に格好つけなくていいから、MUNEがここでちゃんと仕事をしてるって伝わるものが欲しい」
「分かりました」
ことねがカメラを手に移動する。
スポンサー候補への説明と交渉は白石の担当。チームの日常や走行の姿を撮影し、外へ届けるのはことねの担当だった。
今日、会場を訪れるスポンサー候補もいる。
まだ契約はない。だから、その企業名もロゴもMR-01には存在しない。
白石の仕事は、その空白を1つずつ埋めることだった。
*
走行開始時刻が近づく。
7号車のMR-01へ藤原が乗り込んだ。
最初に走るのは藤原だった。
各チームの燃料搭載量も、使用するタイヤも、走行プログラムも異なる。同じ条件ではない。
それでも、初めて既存のIGPマシンと同じコースを走る以上、まず経験のある藤原に基準を作らせる。
スターターが回った。
短い機械音のあと、HELIOS V10が目を覚ます。
ヴォン――と厚みのある中音がガレージへ広がり、回転が上がるにつれて澄んだ高音へ変わっていく。
周囲のエンジンとは違う。だが、もう市原で聞いていた未知の音でもなかった。
それはMUNEの車が走りだす音だった。
桐生が時計を見る。
「予定通り出せますか?」
「ああ」
神谷の返事を受け、桐生はそれ以上聞かなかった。
「では、予定通り進めます」
メカニックに押し出された7号車がガレージ前で向きを変える。
藤原は合図を待ち、ピットレーンへ出た。
すぐ後ろを別のマシンが通過する。
鋭く回転を上げたAEGIS V8が、変速するたびに音の高さを切り替えながら遠ざかっていった。
その先ではORION V12が加速を続け、重い咆哮を途切れさせないままピット出口の向こうへ消えていく。
HELIOS V10の音が、その間へ混ざった。
ガレージに残ったスタッフの視線が、タイミングモニターへ集まる。
神谷は車両データを見ている。榊原は空力に関係する数値を追い、朝倉は走行プログラムとコース上の間隔を確認する。柴崎は戻ってきたときの作業を考え、メカニックの配置を見直していた。
宗村だけが、しばらく画面に表示されたMUNE RACINGの文字を見つめていた。
藤原は慎重に走り始めた。
速さを競う前に、MR-01がこのコースでどう動くのかを確かめる。
路面の状態。タイヤの反応。エンジンの立ち上がり。ブレーキの感触。他車が近づいたときのミラーの見え方。
1つずつ確認していく。
低速コーナーの出口では、前を走るAEGIS搭載車がアクセル操作へ鋭く反応し、ひと息早く車間を広げた。
長い直線へ入ると、後方から来たORION搭載車が重い音を高く伸ばしながら速度を乗せていく。
だが、相手の燃料搭載量もタイヤの状態も分からない。
藤原は追わず、MR-01の反応を確かめることへ集中した。
アクセルへ足を乗せると、HELIOS V10は操作に沿って滑らかに加速を続ける。
扱いやすさと安定したレスポンスは、市原で確認したときと変わらない。それが他車との比較でどこまで通用するのかは、まだ分からなかった。
〈蒼真、今のところ車両側は問題ない〉
〈了解。もう少し走る〉
タイミングモニターに藤原のラップタイムと暫定順位が表示された。
上ではない。だが、一番下でもなかった。
まだ各チームの走行内容は分からず、タイムを出していない車もいる。この順位だけで速いとも遅いとも言えない。
神谷も朝倉も反応しなかった。
宗村だけが小さく息を吐く。
「ちゃんといるね」
「何がですか?」
「タイミングモニターにMUNEが」
桐生も画面を見る。
「当然でしょう。正式にエントリーして、今コースを走っているんですから」
「そうなんだけどさ」
宗村は少し笑った。
ずっと目指してきた場所だった。そこに今、MUNE RACINGという名前がある。
「感動するのは、今日の仕事が終わってからにしてください」
「美咲さんは厳しいなぁ」
「そのために私がいます」
*
藤原が戻ると、すぐに確認が始まった。
神谷、ラスタス、榊原、ペクトが集まり、藤原の言葉と取得したデータを照らし合わせる。
ペクトはHELIOS側の担当者として、エンジンに関する情報を確認していた。
桐生はその輪へ入らず、次の走行準備へ視線を移す。
「22号車は?」
「大丈夫です」
結城が答えた。
「信治君は?」
結城が視線を向ける。
少し離れた場所で、信治がヘルメットを手にしていた。
「緊張してます。でも、走り始めれば問題ないと思います」
桐生が信治のところへ行く。
「信治君、準備できた?」
「できてます」
いつもより返事が短い。
ガレージの向こうでは、車が戻れば別の車が出ていく。ピットレーンをマシンが通過するたびに風が流れ込み、排気の熱とタイヤの匂いがガレージの奥まで届いた。
これまで映像や客席から見ていたドライバーたちが、同じピット出口へ向かっている。
その中へ、自分もこれから入る。
信治はヘルメットを持つ手に、無意識に力を入れていた。
桐生は少しだけ笑った。
「なら大丈夫。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
22号車へ乗り込む。
結城が無線を確認する。
〈信治、聞こえる?〉
〈聞こえてる〉
〈最初からタイムを狙わなくていい。いつも通り、車の状態を確認していこう〉
〈了解〉
HELIOS V10の回転がわずかに上がる。
低く厚い響きが背中からコクピットを伝い、そこへ澄んだ高音が重なった。
信治はステアリングを握り直した。
MR-01が動き出す。
ピットレーンへ入る直前、目の前を別チームのマシンが通過した。
信治はブレーキを残し、安全に入れる間隔ができるのを待つ。
スタッフの手が前へ振られ、22号車がピットレーンへ出た。
昨日まで遠くに見えていた世界。
今日は同じコースを走る。
信治は1度だけ深く息を吐いた。
ピットレーン出口のラインを越えてからアクセルを踏み込む。
HELIOS V10が滑らかに回転を上げた。
その音は壁へ反響し、コースを走るほかのエンジン音の中へ溶け込んでいった。
*
昼を過ぎても、白石はほとんどガレージにいなかった。
スポンサー候補との面談を終え、次の相手へ向かう途中で桐生とすれ違う。
「玲奈、昼は食べた?」
白石が止まった。
「あ」
「食べてないのね」
「あとで食べます」
「15分取って」
「でも次が――」
「15分で契約が逃げるなら、最初から取れないわよ」
白石は苦笑した。
「お姉ちゃんみたいなこと言いますね」
「誰がお姉ちゃんよ。早く行きなさい」
「はーい」
白石は素直に方向を変えたが、数歩進んでから振り返った。
「美咲さん。次にここへ来るとき、もう少し賑やかにしますから」
白石がMR-01を指す。
桐生はサイドミラーのJURASロゴを見てから、まだ多くの空白が残る車体へ目を移した。
「期待してる」
「任せてください」
白石が笑って去っていく。
桐生もすぐ仕事へ戻った。
コースでは2台のMR-01が、それぞれの走行プログラムを進めている。
ガレージでは技術者とメカニックが動く。
その外では白石が企業担当者と向き合い、ことねがMUNEの姿を写真と映像に残していく。
速い車だけでは、世界では戦えない。
走らせる人。支える人。資金を集める人。外へ伝える人。
それぞれが自分の場所で、自分の仕事をしている。
公開テスト初日。
MUNE RACINGは、22台の中で初めて自分たちの位置を測り始めた。
まだ数字を結論にはできない。
だが、世界との差を知るための走行は、確かに始まっていた。




