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IGNITION  作者: ムネディ


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36/70

Chapter 35 22台の朝

公開テスト初日の朝。

 

MUNE RACINGのガレージは、走行開始を待たずに動き始めていた。

 

2台のMR-01を中心にメカニックが行き交い、確認を終えた者が短い言葉で次の担当へ状態を伝えていく。

 

その少し後ろで、桐生美咲はタブレットを片手にガレージ全体を見渡していた。

 

「柴崎さん、22号車の準備は?」

 

「予定通り。問題ありません」

 

「神谷さんは?」

 

「ペクトと確認中です」

 

桐生は頷き、次の作業へ目を移す。

 

自分で車を触るわけではない。セットアップや走行プログラムを決めるわけでもない。

 

だが、それぞれが予定通り仕事を進められているかを把握し、問題があれば必要な場所へ人を動かす。

 

それがチームマネージャーである桐生の仕事だった。

 

「美月」

 

「はい」

 

「忍さんとの確認が終わったら、一度柴崎さんのところへ戻って。探してたから」

 

「分かりました」

 

美月が足早に作業エリアへ戻っていく。

 

入れ替わるように宗村がやってきた。

 

「美咲さん、ちょっとパドックを見てきても――」

 

「駄目です。今から代表者向けの確認があります」

 

「あ」

 

「忘れてましたね?」

 

「いや、覚えてたよ。……半分くらい」

 

「行きますよ」

 

「はい」

 

宗村が素直についていく。

 

近くにいた神谷は1度だけ2人を見たが、何も言わず作業へ戻った。

 

周囲のガレージから、次々にエンジンが目を覚ましていた。

 

甲高い金属音を鋭く立ち上げるAEGIS V8。低い回転域から重く響くATLAS V10。PHOENIX V8は荒々しい排気音を吐き、アクセルを戻した瞬間に乾いた破裂音を壁へ跳ね返した。

 

その向こうからは、ORION V12の咆哮がパドック全体を押し包むように届く。

 

音が重なるたび、ガレージの空気まで細かく震えた。

 

市原で自分たちの車だけを走らせていたときとは違う。

 

11チーム、22台。

 

MUNEは今日、その中の1チームとして初めてコースへ出る。

 

 

*

 

 

その頃、白石玲奈はMR-01を別の意味で眺めていた。

 

蒼、シルバー、オレンジ。

 

MUNEのカラーリング。そして左右のサイドミラーに入ったJURASのロゴ。

 

それ以外は――まだ空いている。

 

「……広いですねぇ」

 

隣にいた橘ことねが首を傾げる。

 

「何がですか?」

 

「売る場所」

 

「そこですか?」

 

「そこですよ。ここも、ここも。まだ使える」

 

白石はMR-01のサイドポッドへ目を向けた。

 

ことねが苦笑する。

 

「普通は格好いいとか言うところじゃないですか?」

 

「格好いいですよ。でも、格好いいだけじゃIGPは走れません」

 

白石の手元には、スポンサー候補へ渡す資料がある。

 

以前はCGや参戦計画、MUNEがLMP2で積み重ねてきた実績を使って説明するしかなかった。

 

今はMR-01がある。しかも今日は、世界最高峰を戦ってきた既存チームと同じコースを走る。

 

白石にとって公開テストは技術確認の場であると同時に、MUNEの価値を実物で示せる営業の機会でもあった。

 

「ことねちゃん、午前中に撮れる素材はお願い。走行だけじゃなくて、ガレージで仕事をしているところも欲しい。それもスポンサー向けに使うけど、普段の発信にも使えるようにして。無理に格好つけなくていいから、MUNEがここでちゃんと仕事をしてるって伝わるものが欲しい」

 

「分かりました」

 

ことねがカメラを手に移動する。

 

スポンサー候補への説明と交渉は白石の担当。チームの日常や走行の姿を撮影し、外へ届けるのはことねの担当だった。

 

今日、会場を訪れるスポンサー候補もいる。

 

まだ契約はない。だから、その企業名もロゴもMR-01には存在しない。

 

白石の仕事は、その空白を1つずつ埋めることだった。

 

 

*

 

 

走行開始時刻が近づく。

 

7号車のMR-01へ藤原が乗り込んだ。

 

最初に走るのは藤原だった。

 

各チームの燃料搭載量も、使用するタイヤも、走行プログラムも異なる。同じ条件ではない。

 

それでも、初めて既存のIGPマシンと同じコースを走る以上、まず経験のある藤原に基準を作らせる。

 

スターターが回った。

 

短い機械音のあと、HELIOS V10が目を覚ます。

 

ヴォン――と厚みのある中音がガレージへ広がり、回転が上がるにつれて澄んだ高音へ変わっていく。

 

周囲のエンジンとは違う。だが、もう市原で聞いていた未知の音でもなかった。

 

それはMUNEの車が走りだす音だった。

 

桐生が時計を見る。

 

「予定通り出せますか?」

 

「ああ」

 

神谷の返事を受け、桐生はそれ以上聞かなかった。

 

「では、予定通り進めます」

 

メカニックに押し出された7号車がガレージ前で向きを変える。

 

藤原は合図を待ち、ピットレーンへ出た。

 

すぐ後ろを別のマシンが通過する。

 

鋭く回転を上げたAEGIS V8が、変速するたびに音の高さを切り替えながら遠ざかっていった。

 

その先ではORION V12が加速を続け、重い咆哮を途切れさせないままピット出口の向こうへ消えていく。

 

HELIOS V10の音が、その間へ混ざった。

 

ガレージに残ったスタッフの視線が、タイミングモニターへ集まる。

 

神谷は車両データを見ている。榊原は空力に関係する数値を追い、朝倉は走行プログラムとコース上の間隔を確認する。柴崎は戻ってきたときの作業を考え、メカニックの配置を見直していた。

 

宗村だけが、しばらく画面に表示されたMUNE RACINGの文字を見つめていた。

 

藤原は慎重に走り始めた。

 

速さを競う前に、MR-01がこのコースでどう動くのかを確かめる。

 

路面の状態。タイヤの反応。エンジンの立ち上がり。ブレーキの感触。他車が近づいたときのミラーの見え方。

 

1つずつ確認していく。

 

低速コーナーの出口では、前を走るAEGIS搭載車がアクセル操作へ鋭く反応し、ひと息早く車間を広げた。

 

長い直線へ入ると、後方から来たORION搭載車が重い音を高く伸ばしながら速度を乗せていく。

 

だが、相手の燃料搭載量もタイヤの状態も分からない。

 

藤原は追わず、MR-01の反応を確かめることへ集中した。

 

アクセルへ足を乗せると、HELIOS V10は操作に沿って滑らかに加速を続ける。

 

扱いやすさと安定したレスポンスは、市原で確認したときと変わらない。それが他車との比較でどこまで通用するのかは、まだ分からなかった。

 

〈蒼真、今のところ車両側は問題ない〉

 

〈了解。もう少し走る〉

 

タイミングモニターに藤原のラップタイムと暫定順位が表示された。

 

上ではない。だが、一番下でもなかった。

 

まだ各チームの走行内容は分からず、タイムを出していない車もいる。この順位だけで速いとも遅いとも言えない。

 

神谷も朝倉も反応しなかった。

 

宗村だけが小さく息を吐く。

 

「ちゃんといるね」

 

「何がですか?」

 

「タイミングモニターにMUNEが」

 

桐生も画面を見る。

 

「当然でしょう。正式にエントリーして、今コースを走っているんですから」

 

「そうなんだけどさ」

 

宗村は少し笑った。

 

ずっと目指してきた場所だった。そこに今、MUNE RACINGという名前がある。

 

「感動するのは、今日の仕事が終わってからにしてください」

 

「美咲さんは厳しいなぁ」

 

「そのために私がいます」

 

 

*

 

 

藤原が戻ると、すぐに確認が始まった。

 

神谷、ラスタス、榊原、ペクトが集まり、藤原の言葉と取得したデータを照らし合わせる。

 

ペクトはHELIOS側の担当者として、エンジンに関する情報を確認していた。

 

桐生はその輪へ入らず、次の走行準備へ視線を移す。

 

「22号車は?」

 

「大丈夫です」

 

結城が答えた。

 

「信治君は?」

 

結城が視線を向ける。

 

少し離れた場所で、信治がヘルメットを手にしていた。

 

「緊張してます。でも、走り始めれば問題ないと思います」

 

桐生が信治のところへ行く。

 

「信治君、準備できた?」

 

「できてます」

 

いつもより返事が短い。

 

ガレージの向こうでは、車が戻れば別の車が出ていく。ピットレーンをマシンが通過するたびに風が流れ込み、排気の熱とタイヤの匂いがガレージの奥まで届いた。

 

これまで映像や客席から見ていたドライバーたちが、同じピット出口へ向かっている。

 

その中へ、自分もこれから入る。

 

信治はヘルメットを持つ手に、無意識に力を入れていた。

 

桐生は少しだけ笑った。

 

「なら大丈夫。行ってらっしゃい」

 

「行ってきます」

 

22号車へ乗り込む。

 

結城が無線を確認する。

 

〈信治、聞こえる?〉

 

〈聞こえてる〉

 

〈最初からタイムを狙わなくていい。いつも通り、車の状態を確認していこう〉

 

〈了解〉

 

HELIOS V10の回転がわずかに上がる。

 

低く厚い響きが背中からコクピットを伝い、そこへ澄んだ高音が重なった。

 

信治はステアリングを握り直した。

 

MR-01が動き出す。

 

ピットレーンへ入る直前、目の前を別チームのマシンが通過した。

 

信治はブレーキを残し、安全に入れる間隔ができるのを待つ。

 

スタッフの手が前へ振られ、22号車がピットレーンへ出た。

 

昨日まで遠くに見えていた世界。

 

今日は同じコースを走る。

 

信治は1度だけ深く息を吐いた。

 

ピットレーン出口のラインを越えてからアクセルを踏み込む。

 

HELIOS V10が滑らかに回転を上げた。

 

その音は壁へ反響し、コースを走るほかのエンジン音の中へ溶け込んでいった。

 

 

*

 

 

昼を過ぎても、白石はほとんどガレージにいなかった。

 

スポンサー候補との面談を終え、次の相手へ向かう途中で桐生とすれ違う。

 

「玲奈、昼は食べた?」

 

白石が止まった。

 

「あ」

 

「食べてないのね」

 

「あとで食べます」

 

「15分取って」

 

「でも次が――」

 

「15分で契約が逃げるなら、最初から取れないわよ」

 

白石は苦笑した。

 

「お姉ちゃんみたいなこと言いますね」

 

「誰がお姉ちゃんよ。早く行きなさい」

 

「はーい」

 

白石は素直に方向を変えたが、数歩進んでから振り返った。

 

「美咲さん。次にここへ来るとき、もう少し賑やかにしますから」

 

白石がMR-01を指す。

 

桐生はサイドミラーのJURASロゴを見てから、まだ多くの空白が残る車体へ目を移した。

 

「期待してる」

 

「任せてください」

 

白石が笑って去っていく。

 

桐生もすぐ仕事へ戻った。

 

コースでは2台のMR-01が、それぞれの走行プログラムを進めている。

 

ガレージでは技術者とメカニックが動く。

 

その外では白石が企業担当者と向き合い、ことねがMUNEの姿を写真と映像に残していく。

 

速い車だけでは、世界では戦えない。

 

走らせる人。支える人。資金を集める人。外へ伝える人。

 

それぞれが自分の場所で、自分の仕事をしている。

 

公開テスト初日。

 

MUNE RACINGは、22台の中で初めて自分たちの位置を測り始めた。

 

まだ数字を結論にはできない。

 

だが、世界との差を知るための走行は、確かに始まっていた。

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