Chapter 34 世界へ
市原ファクトリーの作業エリアに、2台のMR-01が並んでいた。
シェイクダウンを終え、JY-03も正式採用された。
左右のサイドミラーにはJURASのロゴが入っている。
ここまで何度も見てきた車なのに、今日のMR-01は少し違って見えた。
これから初めて、IGPの既存チームと同じ場所へ向かう。
柴崎が輸送前の確認を終えた。
「2台とも問題ありません」
神谷がチェックリストへ目を通す。
「積もう」
短い一言で作業が始まった。
宗村は少し離れたところから、その様子を眺めていた。
隣には桐生がいる。
「いよいよですね」
「うん。ここまでは自分たちだけだったからね」
宗村はMR-01から目を離さない。
「シェイクダウンも、JY-03の確認も非公開でしたから」
「だから速いのか遅いのか、まだ分からない」
桐生が宗村を見る。
「不安ですか?」
「そりゃ不安だよ。世界一を目指すって言った車が、いきなり一番遅かったら格好つかないし」
「最初から世界一だったら、その方が怖いです」
宗村が笑った。
「確かに」
そこへ神谷が歩いてきた。
「何を笑ってる」
「俺たちの車、速いかなって」
「知らん」
即答だった。
宗村が苦笑する。
「もう少し夢のある答えはない?」
「他と走ってないんだから分かるわけないだろ」
「遅かったら?」
「直す」
神谷はそれだけ言って、MR-01へ戻っていった。
宗村はその背中を見送る。
「頼もしいねえ」
「宗村さんが余計なことを言うからでしょう」
「美咲さんまで冷たくない?」
「いつものことです」
2台のMR-01が、順番にトランスポーターへ収められていく。
蒼、シルバー、オレンジの車体が奥へ消え、固定作業が始まった。
その姿が見えなくなるまで、宗村は黙って見ていた。
MR-00から始まった挑戦が、ようやく外の世界へ出ていく。
*
公開テスト会場。
パドックへ足を踏み入れた信治は、思わず周囲を見回した。
国内トップフォーミュラとは違う。
規模だけの話ではない。
トランスポーター、機材、スタッフの数。そのどれもが、限られた時間の中で迷いなく動いている。
そして何より、そこに並んでいるチーム名。
Apex GP。
Titan Motorsport。
Orion Racing。
Falcon Motorsport。
Vega Competition。
Horizon GP。
Imperial GP。
Aster GP。
Stratos Racing。
Mistral Engineering。
これまで画面や雑誌、あるいは客席から見ていた世界が、今日は同じ参加者として目の前にある。
その並びの中に、MUNE RACINGの区画も用意されていた。
11チーム、22台。
明日から、MR-01もその中を走る。
「信治」
隣から声を掛けられた。
「何?」
結城だった。
「歩きながら見ろよ。ぶつかって公開テスト前に怪我したら笑えないから」
「ああ、ごめん。さすがにそこまで浮かれてないって」
「今の顔で言われても説得力ない」
2人の少し後ろを歩いていた宗村が、そのやり取りを聞いて笑った。
「いいねえ」
信治が振り返る。
「何がです?」
「いや、遼とすっかりコンビになったなと思って」
「今さらですか?」
「今さらだからいいんじゃない」
結城が苦笑する。
「宗村さん、遊んでないで行きますよ」
「はいはい」
藤原は、その横を普段と変わらない様子で歩いていた。
信治が聞く。
「藤原さんは緊張しないんですか?」
「するよ」
「そう見えないですけど」
「何度か来れば、緊張の仕方が分かるだけだ」
信治には、その意味がまだよく分からなかった。
藤原が続ける。
「今日はまだ走らない。まず自分たちの場所を作るところからだ」
「はい」
「明日になれば、嫌でも分かるよ」
「何がです?」
藤原は少しだけ笑った。
「IGPがどんなところか」
MUNEのガレージでは、到着した機材の搬入が始まっていた。
柴崎を中心にメカニックが動く。
車体が降ろされる位置、工具の配置、タイヤを扱う場所。市原で決めてきた手順を、限られたガレージの中へ落とし込んでいく。
それでも、勝手の違う場所では細かな遅れが生まれた。
隣のガレージでは、すでに機材の設置を終えたスタッフが車体の確認へ進んでいる。
MUNEのメカニックたちは、その動きを横目に見ながら自分たちの作業へ戻った。
神谷と榊原は作業環境を確認し、朝倉は明日からの走行に必要な情報を整理している。
ペクトもHELIOS側の担当者として、MUNEのガレージへ入った。
その姿を見つけた宗村が声を掛ける。
「ペクト」
「はい?」
「正直に答えてね」
「内容によります」
「うち、どのくらいだと思う?」
ペクトが一瞬黙った。
「それを私に聞きます?」
「やっぱ駄目?」
「私はHELIOSの人間ですから」
「FalconもHorizonも知ってるもんね」
ペクトは笑うだけで答えなかった。
宗村も、それ以上は聞かない。
「まあ、そうだよね。自分たちで確かめます」
「その方がいいと思います」
「じゃあ、明日が楽しみだ」
「私もです」
そこへ忍がやってきた。
「ペクトさん、JY-03の確認をお願いします」
「はい」
宗村が2人を見る。
「もう仕事?」
忍が不思議そうな顔をした。
「仕事をしに来たんですけど」
「正論だ」
宗村が退散する。
ペクトは笑いを堪えながら、忍と一緒に作業へ向かった。
公開テストでは、千葉ウッドレイクサーキットでの確認よりも長い距離を走る。
JY-03がHELIOS V10の状態をどこまで維持できるのか。それを確かめるのは、忍とペクトの役目だった。
*
夕方。
ガレージの準備は、ほぼ整った。
2台のMR-01が並ぶ。
No.7。
No.22。
信治は自分の車を見ていた。
市原で何度も見た車だ。
それでも、周囲にIGPのチームが並ぶだけで、まるで違うものに感じる。
そのとき、離れたガレージから甲高い金属音が弾けた。
キィン――と鋭く回転を上げる音が、建物の壁に反射する。
AEGIS V8。
アクセルへの反応が鋭く、低い回転域から一気に音が立ち上がる。Titan Motorsportのガレージで始動したエンジンは、短い空吹かしにも間を置かず応えていた。
信治がそちらへ顔を向けた直後、別の場所から重厚な咆哮が響いた。
ヴォオオオン――。
ORION V12の低く厚い響きが、距離を越えて腹の底まで届く。回転が上がっても音の太さは失われず、パドック全体を押し包むように広がっていった。
さらに、低音寄りの重い音が重なる。
ATLAS V10だった。
ORIONの咆哮とは違う。高く突き抜けるより、力を蓄えたまま地面を伝うような響きだった。
少し遅れて、荒々しい音がパドックの空気を切り裂いた。
PHOENIX V8が回転を上げ、アクセルが戻された瞬間、排気の奥でパンッと乾いた音が弾ける。
「すげえ……」
思わず声が漏れた。
知識としては知っていた。
それでも、同じ場所で聞く音はまるで違う。
最後に、近くのガレージから聞き慣れたV10の音が立ち上がった。
厚みのある中音が回転を支え、その上へ澄んだ高音が伸びていく。
HELIOS V10。
MUNEと同じエンジンを積む既存チームの音だった。
同じHELIOSでも、ワークスのFalcon Motorsportと、カスタマーのHorizon GP、そして新規参戦のMUNEでは車体も積み重ねてきた時間も違う。
明日になれば、その違いがコース上へ現れる。
藤原が隣に立つ。
「音だけでも分かるだろ」
「はい。国内で聞いていたのとは、全然違います」
「1台ずつ聞くのと、同じパドックで重なるのとでは違うからな」
信治は、もう1度周囲へ目を向けた。
甲高く鋭いAEGIS。
遠くまで届く重厚なORION。
低音寄りで力強いATLAS。
荒々しく攻撃的なPHOENIX。
澄んだ高音と厚い中音を重ねるHELIOS。
5つの音が、同じパドックの空気を震わせている。
「……本当に来たんだな」
藤原が横を見る。
「まだ走ってないぞ」
「分かってますよ」
信治は笑った。
それでも、そう思わずにはいられなかった。
国内トップフォーミュラからIGPへ。
選ばれたときとも違う。
契約したときとも違う。
MR-01に初めて乗ったときとも違う。
今、この場所には世界最高峰を戦う21人のドライバーがいる。
明日から、その中の1人として自分も走る。
速さの基準も、ブレーキングの深さも、コーナーから立ち上がる加速も、まだ想像することしかできない。
市原と千葉ウッドレイクサーキットでは、MR-01だけを見ていればよかった。
ここでは、22台の中で自分たちの現在地を突きつけられる。
少し離れたところでは、宗村がガレージを眺めていた。
桐生が隣に立つ。
「どうしました?」
「いや」
宗村は並んだ2台のMR-01を見る。
MR-00で失敗した。
知らないことを知った。
人を集めた。
車を作った。
走らせた。
直した。
それでも、まだ何も証明していない。
左右のガレージでは、長くIGPを戦ってきたスタッフたちが慣れた手つきで準備を進めている。
機材の量だけではない。
声を掛けるタイミング、確認の順番、作業の速さ。
世界との差は、車が走り始める前から見えていた。
桐生も同じものを見ていた。
「市原とは違いますね」
「うん。でも、ここでやるしかない」
明日、初めて答えの一部が見える。
宗村は小さく笑った。
「さて」
桐生が宗村を見る。
「うちがどこにいるのか、見せてもらおうか」
ガレージの向こうで、また別のエンジンが目を覚ました。
5つの異なる音が重なり合い、夕暮れのパドックを満たしていく。
世界の音が、すぐそこまで来ていた。




