Chapter 33 JY-03
千葉ウッドレイクサーキット。
MR-01のシェイクダウンを行ったのと同じコースへ、MUNE RACINGは再び戻ってきていた。
報道陣はいない。
他のIGPチームもいない。
公開テストを前に、藤村忍が提案したJY-03を実際に走らせ、その適合性を確認するための非公開テストだった。
ガレージでは、神谷が最後の確認をしている。
「今日は余計なところを触らない。JY-03へ変えた結果だけを見る」
「分かってます」
藤原が答えた。
MR-01の開発では、1度に複数の項目を変えない。
何が良くなり、何が悪くなったのか分からなくなるからだ。
車体のセットアップは前回の走行終了時から変えていない。タイヤも、この段階で使用できるソフトを装着している。
変更したのは、エンジンオイルだけだった。
忍はペクトの隣でPCを見ていた。
「緊張してます?」
ペクトに聞かれ、忍は首を横に振った。
「してません」
「本当に?」
「……少しだけ」
「でしょうね」
忍が睨む。
「笑わないでください」
「笑ってませんよ」
明らかに笑っていた。
HELIOS側のペクトにとっても、興味深い確認だった。
彼がジュラスを宗村へ紹介するきっかけとなったのはJY-01だ。そのJY-01ではなく、MUNE担当として派遣された忍自身がJY-03を選んだ。
「私はJY-01でもいいと思っていました」
ペクトが言う。
「知ってます」
「だから、JY-03がどうなるのか楽しみです」
忍はMR-01を見る。
「私もです」
それ以上は言わなかった。
結果が出る前から、自分の判断が正しかったとは言えない。
始動準備が整い、メカニックが車体から離れる。
合図とともにスターターが回った。
キュルルルッ――という乾いた音の直後、HELIOS V10が目を覚ます。
低い唸りが床を震わせ、回転が安定すると、厚みのある中音の上へ澄んだ高音が重なった。ガレージ内で反響した音が、開いたシャッターからピットレーンへ抜けていく。
忍は自然と耳を澄ませた。
音だけではない。
始動直後の振動、回転が落ち着くまでのわずかな揺らぎ、排気に混じる匂い。それらを確かめるように、少しずつ立つ位置を変えていく。
「どう?」
横から声がした。
美月だった。
「まだ分かんない」
「忍でも?」
「走ってないからね」
「そりゃそうか」
忍が笑った。
藤原を乗せたMR-01がジャッキから降ろされる。
メカニックの誘導を受け、車体がピットボックスを離れた。
HELIOS V10は低い回転域で太く唸り、ピットレーンを進んでいく。やがて藤原が加速すると、音は鋭さを増し、澄んだ高音を残して遠ざかった。
数周後、藤原の声が無線に入る。
〈エンジンは問題ない〉
ペクトがモニターに並ぶ数値を追う。
油圧、油温、回転数、振動。今のところ、異常を示す変化はない。
神谷が聞いた。
〈何か違うか?〉
少し間があった。
〈あります。ただ、もう少し走ります〉
「藤原らしいな」
神谷が呟く。
すぐに結論を出さない。
1度感じただけでは判断しない。
藤原はそのまま走行を続けた。
ホームストレートを通過するたび、HELIOS V10の音が近づいてくる。
コーナーの向こうから届く厚い中音が、加速とともに高く澄んだ響きへ変わり、シフトアップのたびに一瞬だけ途切れる。次の瞬間には、さらに高い回転域へ向かって伸びていった。
忍は音を追いながら、ペクトのモニターにも目を向ける。
感覚だけで決めない。
だが、数字だけでも拾えない変化がある。
MR-01が走行を終え、ピットへ戻ってきた。
低く抑えられたエンジン音がガレージへ入り、停止位置で静かに止まる。メカニックが車体を支え、エンジン停止の合図が出た。
回転が落ちるにつれて澄んだ高音が消え、最後に厚い中音が短く沈む。残響だけがピットの壁に残った。
藤原がコックピットから降りる。
神谷より先に忍が近づきかけて、一歩止まった。
まずMUNE側の確認がある。
メカニックたちが車体を点検し、ペクトも走行データを確認する。異常がないことを確かめてから、神谷が藤原へ聞いた。
「どうだ?」
藤原はグローブを外しながら答える。
「滑らかですね」
忍の目が藤原へ向いた。
「前より?」
「はい。アクセルを開け始めたところから、回転が上がっていくまでのつながりが自然です。全体的に角が取れた感じがします」
「扱いにくくなったところは?」
「今のところありません」
藤原は少し考えたあと、苦笑した。
「レーシングマシンにこう言うのも変なんですけど……気持ちいいですね」
忍が一瞬、目を丸くした。
それでも、神谷は藤原の言葉だけでは判断しない。
「ペクト」
「走行中のデータを詳しく確認します。少なくとも、今の時点で異常はありません」
「忍は?」
「まだです」
忍は即答した。
「藤原さんの感想は嬉しいです。でも、信治さんにも乗ってもらってから見たいです」
神谷が頷く。
「そうしよう」
*
次にMR-01へ乗り込んだのは信治だった。
結城が無線を確認する。
〈信治、聞こえる?〉
〈聞こえてる〉
〈藤原さんと同じメニュー。今日は車側を探りに行かなくていいから〉
〈了解〉
忍が2人のやり取りを聞いて、小さく首を傾げた。
「結城さん、中村さんのことを呼び捨てなんですね」
美月が答える。
「シェイクダウンからね」
「仲いいんだ」
「一緒に仕事してるうちに、そうなったみたい」
その答えに、忍はコックピットの信治へ視線を向けた。
ヘルメットを被れば、さっきまで普通に話していた青年の雰囲気が変わる。
「忍?」
「何?」
「いや、何でもない」
美月が妙に楽しそうだった。
「何、その顔」
「別に?」
「絶対何かあるでしょ」
「仕事中だから、あとで」
「何もないって」
メカニックの合図を受け、MR-01が動き出した。
ピットレーンを進む間、HELIOS V10は抑えられた回転域で太く低い音を響かせる。
信治がコースへ入ってアクセルを踏み込むと、背後の音が一気に鋭くなった。
厚みのある中音が背中を押し、その上を澄んだ高音が伸びていく。シフトアップの瞬間に響きが短く沈み、次のギアで再び高く駆け上がった。
信治は最初の1周から違いを感じていた。
大きく変わったわけではない。
パワーが突然増えたわけでもない。
だが、アクセルへ足を乗せ、そこから踏み込んでいく過程が妙に自然だった。
〈遼〉
〈うん〉
〈俺の気のせいかもしれないけど、前より滑らか〉
結城がモニターを見る。
〈そのまま続けて。今は感覚だけ覚えておいて〉
〈了解〉
何周か重ねる。
信治は少しずつ確信を持った。
車そのものを変えたわけではない。
それなのに、エンジンを使うことが楽に感じる。
低い回転域からアクセルを開けても唐突さがなく、回転が上がるにつれて力が途切れずについてくる。HELIOS V10が持つ滑らかな加速特性を、以前より素直に受け取れる感覚だった。
確認走行を終え、MR-01がピットへ戻った。
信治がコックピットから降りる。
神谷が聞く前に、藤原が少し笑っていた。
「どうだった?」
「藤原さん、先に何て言いました?」
「それを言ったら意味ないだろ」
「じゃあ言います」
信治はヘルメットを脱いだ。
「すごく滑らかです。なんか……レーシングマシンなのに、気持ちいいって言いたくなりました」
藤原が吹き出した。
「やっぱり」
「同じですか?」
「ほぼそのまま」
信治も笑った。
忍だけが2人を交互に見ていた。
嬉しそうではある。
だが、すぐにペクトのところへ向かった。
「データを見せてください」
ペクトが笑う。
「まず喜ばないんですか?」
「結果を確認してからです」
「藤村社長に似ていますね」
忍が嫌そうな顔をした。
「それ、美月にも言われました」
「やっぱり」
「ペクトさんまで言わないでください」
ペクトは走行データを表示し、忍と神谷もモニターの前へ集まった。
ドライバー2人の感覚。
HELIOS側が記録した油圧、油温、回転数、振動の推移。
ジュラス側が確認するオイルの状態。
どれか1つだけで結論を出すことはできない。
走行後のオイルからサンプルが採取され、フィルターも点検された。
それぞれの確認が終わるまで、神谷は判断を口にしなかった。
*
午後。
ガレージの奥に、神谷、ペクト、忍が集まっていた。
走行データと点検結果が、PCの画面に並んでいる。
2人のドライバーが感じた滑らかさは一致していた。データにも異常はなく、採取したオイルとフィルターからも、この段階で使用を取りやめる理由は見つからなかった。
神谷が口を開いた。
「JY-03で行こう」
忍が顔を上げる。
「いいんですか?」
「2人の評価が揃ってる。データと点検結果にも問題はない。公開テストで距離を重ねて、さらに確認する」
忍は数秒黙ってから頷いた。
「分かりました」
そこで、ようやく笑った。
帰り支度の前、美月が忍を捕まえた。
「ねえ」
「何?」
「信治さん、どうだった?」
「何が?」
「さっき見てたじゃん」
「ドライバーだからでしょ」
「藤原さんのときと顔が違ったけど」
「気のせい」
忍はバッグを持ち上げる。
美月がニヤニヤしながら後ろをついてきた。
「まあいいけど」
「何が?」
「私と被ってないなら」
忍が足を止めた。
「……美月は?」
「遼さん」
「なら大丈夫」
2人は顔を見合わせた。そして、同時に笑った。
公開テストを前に、MR-01はまた1つ準備を整えた。
大きな改良ではない。
それでも、1つずつ。
走らせ、確かめ、できることを積み重ねる。
それがMUNE RACINGの世界への近づき方だった。




