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IGNITION  作者: ムネディ


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34/71

Chapter 33 JY-03

千葉ウッドレイクサーキット。

 

MR-01のシェイクダウンを行ったのと同じコースへ、MUNE RACINGは再び戻ってきていた。

 

報道陣はいない。

 

他のIGPチームもいない。

 

公開テストを前に、藤村忍が提案したJY-03を実際に走らせ、その適合性を確認するための非公開テストだった。

 

ガレージでは、神谷が最後の確認をしている。

 

「今日は余計なところを触らない。JY-03へ変えた結果だけを見る」

 

「分かってます」

 

藤原が答えた。

 

MR-01の開発では、1度に複数の項目を変えない。

 

何が良くなり、何が悪くなったのか分からなくなるからだ。

 

車体のセットアップは前回の走行終了時から変えていない。タイヤも、この段階で使用できるソフトを装着している。

 

変更したのは、エンジンオイルだけだった。

 

忍はペクトの隣でPCを見ていた。

 

「緊張してます?」

 

ペクトに聞かれ、忍は首を横に振った。

 

「してません」

 

「本当に?」

 

「……少しだけ」

 

「でしょうね」

 

忍が睨む。

 

「笑わないでください」

 

「笑ってませんよ」

 

明らかに笑っていた。

 

HELIOS側のペクトにとっても、興味深い確認だった。

 

彼がジュラスを宗村へ紹介するきっかけとなったのはJY-01だ。そのJY-01ではなく、MUNE担当として派遣された忍自身がJY-03を選んだ。

 

「私はJY-01でもいいと思っていました」

 

ペクトが言う。

 

「知ってます」

 

「だから、JY-03がどうなるのか楽しみです」

 

忍はMR-01を見る。

 

「私もです」

 

それ以上は言わなかった。

 

結果が出る前から、自分の判断が正しかったとは言えない。

 

始動準備が整い、メカニックが車体から離れる。

 

合図とともにスターターが回った。

 

キュルルルッ――という乾いた音の直後、HELIOS V10が目を覚ます。

 

低い唸りが床を震わせ、回転が安定すると、厚みのある中音の上へ澄んだ高音が重なった。ガレージ内で反響した音が、開いたシャッターからピットレーンへ抜けていく。

 

忍は自然と耳を澄ませた。

 

音だけではない。

 

始動直後の振動、回転が落ち着くまでのわずかな揺らぎ、排気に混じる匂い。それらを確かめるように、少しずつ立つ位置を変えていく。

 

「どう?」

 

横から声がした。

 

美月だった。

 

「まだ分かんない」

 

「忍でも?」

 

「走ってないからね」

 

「そりゃそうか」

 

忍が笑った。

 

藤原を乗せたMR-01がジャッキから降ろされる。

 

メカニックの誘導を受け、車体がピットボックスを離れた。

 

HELIOS V10は低い回転域で太く唸り、ピットレーンを進んでいく。やがて藤原が加速すると、音は鋭さを増し、澄んだ高音を残して遠ざかった。

 

数周後、藤原の声が無線に入る。

 

〈エンジンは問題ない〉

 

ペクトがモニターに並ぶ数値を追う。

 

油圧、油温、回転数、振動。今のところ、異常を示す変化はない。

 

神谷が聞いた。

 

〈何か違うか?〉

 

少し間があった。

 

〈あります。ただ、もう少し走ります〉

 

「藤原らしいな」

 

神谷が呟く。

 

すぐに結論を出さない。

 

1度感じただけでは判断しない。

 

藤原はそのまま走行を続けた。

 

ホームストレートを通過するたび、HELIOS V10の音が近づいてくる。

 

コーナーの向こうから届く厚い中音が、加速とともに高く澄んだ響きへ変わり、シフトアップのたびに一瞬だけ途切れる。次の瞬間には、さらに高い回転域へ向かって伸びていった。

 

忍は音を追いながら、ペクトのモニターにも目を向ける。

 

感覚だけで決めない。

 

だが、数字だけでも拾えない変化がある。

 

MR-01が走行を終え、ピットへ戻ってきた。

 

低く抑えられたエンジン音がガレージへ入り、停止位置で静かに止まる。メカニックが車体を支え、エンジン停止の合図が出た。

 

回転が落ちるにつれて澄んだ高音が消え、最後に厚い中音が短く沈む。残響だけがピットの壁に残った。

 

藤原がコックピットから降りる。

 

神谷より先に忍が近づきかけて、一歩止まった。

 

まずMUNE側の確認がある。

 

メカニックたちが車体を点検し、ペクトも走行データを確認する。異常がないことを確かめてから、神谷が藤原へ聞いた。

 

「どうだ?」

 

藤原はグローブを外しながら答える。

 

「滑らかですね」

 

忍の目が藤原へ向いた。

 

「前より?」

 

「はい。アクセルを開け始めたところから、回転が上がっていくまでのつながりが自然です。全体的に角が取れた感じがします」

 

「扱いにくくなったところは?」

 

「今のところありません」

 

藤原は少し考えたあと、苦笑した。

 

「レーシングマシンにこう言うのも変なんですけど……気持ちいいですね」

 

忍が一瞬、目を丸くした。

 

それでも、神谷は藤原の言葉だけでは判断しない。

 

「ペクト」

 

「走行中のデータを詳しく確認します。少なくとも、今の時点で異常はありません」

 

「忍は?」

 

「まだです」

 

忍は即答した。

 

「藤原さんの感想は嬉しいです。でも、信治さんにも乗ってもらってから見たいです」

 

神谷が頷く。

 

「そうしよう」

 

 

*

 

 

次にMR-01へ乗り込んだのは信治だった。

 

結城が無線を確認する。

 

〈信治、聞こえる?〉

 

〈聞こえてる〉

 

〈藤原さんと同じメニュー。今日は車側を探りに行かなくていいから〉

 

〈了解〉

 

忍が2人のやり取りを聞いて、小さく首を傾げた。

 

「結城さん、中村さんのことを呼び捨てなんですね」

 

美月が答える。

 

「シェイクダウンからね」

 

「仲いいんだ」

 

「一緒に仕事してるうちに、そうなったみたい」

 

その答えに、忍はコックピットの信治へ視線を向けた。

 

ヘルメットを被れば、さっきまで普通に話していた青年の雰囲気が変わる。

 

「忍?」

 

「何?」

 

「いや、何でもない」

 

美月が妙に楽しそうだった。

 

「何、その顔」

 

「別に?」

 

「絶対何かあるでしょ」

 

「仕事中だから、あとで」

 

「何もないって」

 

メカニックの合図を受け、MR-01が動き出した。

 

ピットレーンを進む間、HELIOS V10は抑えられた回転域で太く低い音を響かせる。

 

信治がコースへ入ってアクセルを踏み込むと、背後の音が一気に鋭くなった。

 

厚みのある中音が背中を押し、その上を澄んだ高音が伸びていく。シフトアップの瞬間に響きが短く沈み、次のギアで再び高く駆け上がった。

 

信治は最初の1周から違いを感じていた。

 

大きく変わったわけではない。

 

パワーが突然増えたわけでもない。

 

だが、アクセルへ足を乗せ、そこから踏み込んでいく過程が妙に自然だった。

 

〈遼〉

 

〈うん〉

 

〈俺の気のせいかもしれないけど、前より滑らか〉

 

結城がモニターを見る。

 

〈そのまま続けて。今は感覚だけ覚えておいて〉

 

〈了解〉

 

何周か重ねる。

 

信治は少しずつ確信を持った。

 

車そのものを変えたわけではない。

 

それなのに、エンジンを使うことが楽に感じる。

 

低い回転域からアクセルを開けても唐突さがなく、回転が上がるにつれて力が途切れずについてくる。HELIOS V10が持つ滑らかな加速特性を、以前より素直に受け取れる感覚だった。

 

確認走行を終え、MR-01がピットへ戻った。

 

信治がコックピットから降りる。

 

神谷が聞く前に、藤原が少し笑っていた。

 

「どうだった?」

 

「藤原さん、先に何て言いました?」

 

「それを言ったら意味ないだろ」

 

「じゃあ言います」

 

信治はヘルメットを脱いだ。

 

「すごく滑らかです。なんか……レーシングマシンなのに、気持ちいいって言いたくなりました」

 

藤原が吹き出した。

 

「やっぱり」

 

「同じですか?」

 

「ほぼそのまま」

 

信治も笑った。

 

忍だけが2人を交互に見ていた。

 

嬉しそうではある。

 

だが、すぐにペクトのところへ向かった。

 

「データを見せてください」

 

ペクトが笑う。

 

「まず喜ばないんですか?」

 

「結果を確認してからです」

 

「藤村社長に似ていますね」

 

忍が嫌そうな顔をした。

 

「それ、美月にも言われました」

 

「やっぱり」

 

「ペクトさんまで言わないでください」

 

ペクトは走行データを表示し、忍と神谷もモニターの前へ集まった。

 

ドライバー2人の感覚。

 

HELIOS側が記録した油圧、油温、回転数、振動の推移。

 

ジュラス側が確認するオイルの状態。

 

どれか1つだけで結論を出すことはできない。

 

走行後のオイルからサンプルが採取され、フィルターも点検された。

 

それぞれの確認が終わるまで、神谷は判断を口にしなかった。

 

 

*

 

 

午後。

 

ガレージの奥に、神谷、ペクト、忍が集まっていた。

 

走行データと点検結果が、PCの画面に並んでいる。

 

2人のドライバーが感じた滑らかさは一致していた。データにも異常はなく、採取したオイルとフィルターからも、この段階で使用を取りやめる理由は見つからなかった。

 

神谷が口を開いた。

 

「JY-03で行こう」

 

忍が顔を上げる。

 

「いいんですか?」

 

「2人の評価が揃ってる。データと点検結果にも問題はない。公開テストで距離を重ねて、さらに確認する」

 

忍は数秒黙ってから頷いた。

 

「分かりました」

 

そこで、ようやく笑った。

 

帰り支度の前、美月が忍を捕まえた。

 

「ねえ」

 

「何?」

 

「信治さん、どうだった?」

 

「何が?」

 

「さっき見てたじゃん」

 

「ドライバーだからでしょ」

 

「藤原さんのときと顔が違ったけど」

 

「気のせい」

 

忍はバッグを持ち上げる。

 

美月がニヤニヤしながら後ろをついてきた。

 

「まあいいけど」

 

「何が?」

 

「私と被ってないなら」

 

忍が足を止めた。

 

「……美月は?」

 

「遼さん」

 

「なら大丈夫」

 

2人は顔を見合わせた。そして、同時に笑った。

 

公開テストを前に、MR-01はまた1つ準備を整えた。

 

大きな改良ではない。

 

それでも、1つずつ。

 

走らせ、確かめ、できることを積み重ねる。

 

それがMUNE RACINGの世界への近づき方だった。

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