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IGNITION  作者: ムネディ


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Chapter 32 音を聴く人

ジュラスとの契約から数日後。

 

市原ファクトリーを訪れた人物を見て、美月は一瞬だけ戸惑った。

 

ベリーショートの髪に、飾り気のない服装。肩には仕事道具らしい大きなバッグを提げている。

 

「ジュラスの藤村忍です。MUNE RACING担当として来ました」

 

声を聞いて、美月は慌てて頭を下げた。

 

「篠崎美月です。よろしくお願いします」

 

名刺を受け取る。そこには確かに、藤村忍と書かれていた。

 

「篠崎さんって、いくつですか?」

 

「24です」

 

忍の表情が少し変わった。

 

「同じじゃん。あ、ごめんなさい。いきなり」

 

言ってから、自分で気づいたらしい。

 

美月は笑った。

 

「大丈夫です。私も同い年の人ってあまりいないので」

 

「じゃあ、美月でいい?」

 

「うん。私も忍って呼んでいい?」

 

「もちろん」

 

出会って数分。妙に早く距離が縮まった。

 

そこへ白石がやってきた。

 

「忍さん、いらっしゃい」

 

「白石さん。お久しぶりです」

 

「担当が忍さんだと聞いたとき、ちょっと驚きました」

 

「私も父から聞きました。白石さん、昔から何度も来てたんですよね」

 

白石が苦笑する。

 

「藤村社長には、かなり迷惑をかけました」

 

「父は迷惑とは言ってませんよ」

 

「本当ですか?」

 

「しつこかったとは言ってました」

 

「それは否定できませんね」

 

美月は2人のやり取りを聞きながら、白石とジュラスの関係が昨日今日のものではないことを知った。

 

白石が忍を見る。

 

「藤村社長はお元気ですか?」

 

「元気です。宗村さんとの話、帰ってから結構楽しそうでしたよ」

 

「楽しそう?」

 

「本人は認めないと思いますけど」

 

白石が笑った。

 

「でしょうね」

 

 

*

 

 

忍が最初に向かったのはMR-01だった。

 

左右のサイドミラーには、すでにJURASのロゴが入っている。

 

忍はしばらくそこを見ていた。

 

「本当にミラーなんだ……」

 

白石が横から答える。

 

「藤村社長の指定ですから」

 

「父、こういうの興味ないと思ってたんですけどね」

 

「MUNEを応援してくださってるんじゃないですか?」

 

忍は少し考えた。

 

「それ本人に言ったら否定しますよ」

 

「でしょうね」

 

2人とも笑った。

 

MR-01の周囲には神谷とペクトがいた。

 

「藤村忍です。よろしくお願いします」

 

「神谷だ。話は聞いてる」

 

「ペクト・ルーザです」

 

忍がペクトを見る。

 

「ああ、JY-01を何度もお願いした人」

 

ペクトが少し困ったように笑う。

 

「その説明だと、私がかなり迷惑な人に聞こえますね」

 

「実際、何度も断られたんですよね?」

 

「はい」

 

「父から聞いてます」

 

ペクトも笑った。

 

「でも、最後には渡してくれました」

 

「対面で取りに来いって?」

 

「その通りです」

 

忍は納得したように頷いた。

 

「父らしい」

 

神谷が2人を見る。

 

「それで、今日はJY-01を持ってきたんだな?」

 

「はい。ただ、使う前にHELIOSを確認させてください」

 

「データか?」

 

「それも見ます。でも、まず実際の状態を知りたいです」

 

神谷はペクトを見る。

 

「問題ありません」

 

「分かった」

 

準備が始まった。

 

 

*

 

 

スターターの乾いた回転音に続いて、MR-01のHELIOS V10が目を覚ました。

 

低い唸りがファクトリーの床を震わせ、回転が整うにつれて、厚みのある中音の上へ澄んだ高音が重なっていく。閉じた空間で反響した響きが、壁と天井を伝って広がった。

 

すでにMUNEの音になり始めたV10の響きだった。

 

忍は黙っていた。

 

エンジンを見る。音を聴く。排気の匂いと振動も確かめるように、ゆっくりと位置を変える。

 

美月はその姿を横から見ていた。

 

さっきまで普通に話していた同い年の女性とは、まるで別人のようだった。

 

エンジンが停止する。

 

高い音が落ち、厚い中音が短く沈む。響きが消えたあとも、ファクトリーにはかすかな残響が漂っていた。

 

忍はしばらく何も言わなかった。

 

神谷が聞く。

 

「どうだ?」

 

「もう1度お願いできますか?」

 

再びHELIOS V10が始動する。

 

今度は回転を変えるたび、太い中音の上で澄んだ高音が伸び、スロットルが戻されると響きが短く沈んだ。

 

忍は先ほどとは別の位置へ移り、始動直後の揺らぎから回転が落ち着くまでを確かめる。ペクトもPCで各数値を追っていた。

 

2度目の停止。

 

忍はMR-01を見ながら考え込んだ。そして、神谷を見た。

 

「JY-01じゃない方がいいと思います」

 

ペクトが顔を上げる。

 

「JY-01ではなく?」

 

「はい」

 

神谷は表情を変えない。

 

「何を使う?」

 

「JY-03です」

 

「理由は?」

 

忍は少し考えて答えた。

 

「JY-01が悪いわけじゃありません。ペクトさんがHELIOSとの相性を見つけたのも間違ってないと思います。でも、このエンジンなら私はJY-03を試したいです」

 

ペクトが聞く。

 

「音で判断したんですか?」

 

「音だけじゃないです。今の油で動いている状態も含めてです。ただし、私の感覚だけで決めるつもりはありません」

 

「詳しく聞かせてもらえますか?」

 

「もちろん」

 

2人の表情が技術者のものに変わる。

 

神谷がそれを見ながら言った。

 

「まずデータも確認してくれ。そのうえでJY-03を試す価値があるなら候補にする」

 

忍が頷く。

 

「分かりました」

 

すぐに使うとは言わない。担当者の感覚だけで決めることもしない。

 

確認して、試す。結果を見る。

 

それがMUNEのやり方だった。忍も異論はなかった。

 

「JY-03は用意できます」

 

「公開テストの前に確認できるように進めよう」

 

神谷が答えた。

 

そこで初めて、忍の顔が少し緩んだ。

 

 

*

 

 

昼。

 

忍は美月と一緒に食堂へ入った。

 

「美月、おすすめは?」

 

「さんが焼き」

 

即答だった。

 

「迷わないね」

 

「迷う必要ないもん」

 

忍はさんが焼き定食を受け取り、美月の向かいに座った。

 

一口食べる。そして止まった。

 

美月が笑う。

 

「どう?」

 

忍はもう一口食べた。

 

「……これ、いつでも食べられる?」

 

「基本あるよ」

 

「MUNE担当になってよかった」

 

「そこなの?」

 

「重要でしょ」

 

美月が吹き出した。

 

どうやら新しいさんが焼き派が1人増えたらしい。

 

しばらく食べてから、美月が聞く。

 

「忍って、お父さんに言われて技術者になったの?」

 

「全然。父から技術者になれって言われたことはないよ。自分で選んだだけ」

 

忍は箸を動かしながら答えた。

 

「そうなんだ」

 

「美月は?」

 

「私も似たような感じかな。自分で面白いと思って進んでたら、気づいたらここにいた」

 

忍が笑う。

 

「それでIGPまで来る?」

 

「私もそう思う」

 

2人で笑った。

 

午前中に初めて会ったばかりだった。それでも話していると、不思議なくらい自然だった。

 

忍がさんが焼きをもう一口食べる。

 

「これ、本当においしいね」

 

「でしょ?」

 

「次もこれにする」

 

「ペクトさんもさんが焼き派だよ」

 

「HELIOSの人も?」

 

「生魚が駄目だったから」

 

忍が笑った。

 

「何それ」

 

美月も笑う。

 

作業エリアでは、神谷とペクトがJY-03を試すための確認を始めている。

 

公開テストは、まだ先。

 

そこで初めてMUNEは、他のIGPチームと同じ場所へ立つ。

 

その前にできることを、1つずつ積み上げる。

 

ジュラスから来た藤村忍も、その輪の中へ入り始めていた。

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