Chapter 30 現在地
市原ファクトリーへ戻ったMR-01は、すでに各部の点検に入っていた。
走り終えたから終わりではない。
外装が外され、メカニックたちが目視で状態を確認する。その横では走行データの整理が進み、モニターには藤原と信治、それぞれの走行が並べられていた。
宗村は少し離れたところから、その様子を眺めていた。
MR-01は走った。
藤原も信治も、自分の力でピットへ戻ってきた。
それだけなら、シェイクダウンは成功と言っていい。
だが、ここから先は別の話だった。
「で」
宗村が神谷の横へ立つ。
「世界と戦えそう?」
神谷はモニターから目を離さなかった。
「知らん」
「即答だね」
「他のIGPマシンと走ってないんだから、分かるわけないだろ」
「ですよねぇ」
宗村は苦笑した。
速かったのか。
遅かったのか。
今のMUNEには比較する相手がいない。
自分たちだけで走ったタイムを眺めて「戦える」と判断するほど、神谷も宗村も楽観的ではなかった。
「ただ」
神谷が続ける。
「最低限、次へ進める車にはなってる」
宗村が神谷を見る。
「壊れなかった?」
「それもある。藤原と信治で乗り方が違っても、急に訳の分からない動きは出てない。変更に対する反応を見るところまで進められる」
「なるほど」
「速くするのはそこからだ」
宗村はMR-01へ視線を戻した。
それで十分だった。
今の段階では。
*
ミーティングスペースには、神谷、ラスタス、榊原、藤原、信治、結城、ペクトらが集まっていた。
画面にはシェイクダウンで得たデータが表示されている。
神谷が全員を見た。
「まず、シェイクダウンとしては問題ない。大きなトラブルは出なかった」
誰かが喜ぶわけでもない。
それがスタート地点に立っただけだと全員が分かっている。
「藤原」
「はい」
「もう一度、全体の印象を聞かせてくれ」
藤原は画面を見ながら答えた。
「基本的には素直です。MR-00みたいに操作と車の動きがつながらない感じはないです。ただ、まだどこか一つを直せば速くなるって段階でもないと思います」
「中村は?」
「俺も似てます。ただ、ブレーキングでリアが軽くなるところは、もう少し見たいです」
隣にいた結城が続けた。
「信治のデータでは出ています。ただ、走るたびに本人のブレーキの抜き方も変わっています。今の段階で車側だけの問題とは言えません」
信治が頷く。
「うん。俺も今すぐ変えてほしいとは思ってない」
自然に交わされる「信治」という呼び方に、宗村が一瞬だけ反応した。
だが、今回は何も言わなかった。
前にニヤついて桐生に睨まれたばかりだ。
神谷が藤原を見る。
「藤原はどう思う?」
「今は触らなくていいと思います」
信治がそちらを見る。
「藤原さんは、どうしてそこを触らないって判断できるんです?」
「触って失敗したことがあるから」
あまりにも普通に返ってきたので、信治は一瞬黙った。
藤原は続ける。
「違和感が出ると、すぐ車を変えたくなる。でも、ドライバーが車に慣れて消えることもあるし、別のところを変えたら一緒に消えることもある。最初から全部触ると、何が効いたのか分からなくなる」
「なるほど……」
「まあ、俺も昔は触ってましたけどね」
「それで失敗した?」
「何回も」
信治が笑った。
「じゃあ、説得力ありますね」
「だろ?」
ラスタスも笑っていた。
「失敗した回数なら、経験者は強いですよ」
「それ褒めてます?」
藤原が聞く。
「もちろん」
「怪しいなぁ」
張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
神谷は構わず話を戻した。
「一度に変えるのは一つだ。シェイクダウンで出たものを全部直そうとするな。何を変えて、何が変わったのか分からなくなる」
榊原がデータを切り替える。
「空力側も同じです。実走との相関は取れていますが、まだ詰められる部分はあります。ここからは変更した結果をCFDと照らし合わせながら進めたいです」
「頼む」
神谷が短く答えた。
MR-00で何度も繰り返した作業だった。
違うのは、目の前にあるのが学習用の車ではないこと。
今度は、この車で世界へ行く。
*
ミーティングが終わっても、ペクトはHELIOS V10のデータを見ていた。
宗村が横から画面を覗く。
「どう?」
「エンジン側は良好です。シェイクダウンとしては特に心配する数字はありません」
「良かった」
「ただし」
ペクトが宗村を見る。
「これから走行距離が増えます。今までと同じように確認は続けます」
「もちろん」
宗村は少し考えた。
公開テスト。
そこで初めて、他のIGPチームと同じ場所を走る。
自分たちがどこにいるのか。
嫌でも数字で見せられる。
だったら、その前にできることは一つでも多くやっておきたい。
「ペクト」
「はい?」
「ちょっと聞いていい?」
「どうぞ」
「よいオイルメーカー知らない?」
ペクトの手が止まった。
「オイル、ですか?」
「うん。もちろん今使ってるものに問題があるって話じゃないよ。ただ、公開テストまでに試せるものがあるなら知っておきたいなって」
ペクトはすぐには答えなかった。
宗村はその横顔を見る。
「何かある?」
「……あります」
宗村の眉が上がった。
「あるんだ」
「ただ」
ペクトは少し困ったように笑った。
「簡単な会社ではありません」
「性能は?」
「HELIOSとの相性だけで言えば、私が試した中では非常にいいです」
今度は宗村が黙った。
HELIOSのエンジニアが、そこまで言う。
「どこのメーカー?」
ペクトは答えた。
「ジュラスです」
宗村は聞き覚えのない名前に首を傾げた。
「ジュラス……?」
「日本のオイルメーカーです」
「日本?」
「はい。ただ、IGPではほとんど知られていないと思います。HELIOSでも名前を知っている人がいる程度です」
「ペクトは何で知ってるの?」
「いろいろ試しましたから」
「いろいろ?」
ペクトは少し照れたように笑った。
「私は文系出身です。周りは理系のエンジニアばかりなので、普通にやっていたら追いつけません。だからエンジンの周りにあるものも含めて、自分で調べて、試せるものは試しました」
宗村は黙って聞いていた。
「その中で見つけたんです。HELIOSと、とても相性のいいオイルを」
「それがジュラス?」
「はい」
宗村は腕を組んだ。
「紹介してもらえる?」
ペクトの表情が微妙に曇った。
「そこが問題です」
「何?」
「一見さんお断りに近い会社です」
宗村は数秒黙った。
それから笑った。
「なるほど。そういう会社か」
「知っているんですか?」
「いや、知らない。でも、なんとなく好きかもしれない」
ペクトが首を傾げる。
宗村は立ち上がった。
「白石さんにも相談してみるよ。スポンサー関係で国内企業は結構回ってるから、何か知ってるかもしれない」
「分かりました」
宗村が数歩進んだところで、ペクトが呼び止めた。
「宗村さん」
「ん?」
「さんが焼きのお礼です」
「え?」
「ジュラスを教えるのは」
宗村は笑った。
「それ、美月に言ってあげて。さんが焼きを教えたの俺じゃないから」
「あ……そうでした」
ペクトは真顔になった。
「では、美月にもお礼をしないといけませんね」
「そこ真面目に考えるんだ」
宗村は笑いながら部屋を出た。
その足で白石を探す。
ジュラス。
聞いたことのないオイルメーカーだった。
だが、HELIOSのエンジニアが自分で試し、相性がいいと言った。
話くらいは聞いてみたい。
宗村は白石を見つけた。
「白石さん、ちょっといい?」
「はい。どうしました?」
「ジュラスって会社、知ってる?」
白石の動きが止まった。
「……ジュラス?」
宗村がその反応に気づく。
「知ってるの?」
白石は少しだけ遠い目をした。
「知ってるも何も……」
そして、苦笑した。
「私、LMP2の頃に何度も営業に行ってますよ」
「え?」
今度は宗村が止まる番だった。
MR-01のシェイクダウンが終わり、MUNEはようやく自分たちの現在地を知るための準備を始めた。
その先で待っていたのは、新しい技術ではない。
かつて白石が積み重ねていた、古い縁だった。




