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IGNITION  作者: ムネディ


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31/72

Chapter 30 現在地

市原ファクトリーへ戻ったMR-01は、すでに各部の点検に入っていた。

 

走り終えたから終わりではない。

 

外装が外され、メカニックたちが目視で状態を確認する。その横では走行データの整理が進み、モニターには藤原と信治、それぞれの走行が並べられていた。

 

宗村は少し離れたところから、その様子を眺めていた。

 

MR-01は走った。

 

藤原も信治も、自分の力でピットへ戻ってきた。

 

それだけなら、シェイクダウンは成功と言っていい。

 

だが、ここから先は別の話だった。

 

「で」

 

宗村が神谷の横へ立つ。

 

「世界と戦えそう?」

 

神谷はモニターから目を離さなかった。

 

「知らん」

 

「即答だね」

 

「他のIGPマシンと走ってないんだから、分かるわけないだろ」

 

「ですよねぇ」

 

宗村は苦笑した。

 

速かったのか。

 

遅かったのか。

 

今のMUNEには比較する相手がいない。

 

自分たちだけで走ったタイムを眺めて「戦える」と判断するほど、神谷も宗村も楽観的ではなかった。

 

「ただ」

 

神谷が続ける。

 

「最低限、次へ進める車にはなってる」

 

宗村が神谷を見る。

 

「壊れなかった?」

 

「それもある。藤原と信治で乗り方が違っても、急に訳の分からない動きは出てない。変更に対する反応を見るところまで進められる」

 

「なるほど」

 

「速くするのはそこからだ」

 

宗村はMR-01へ視線を戻した。

 

それで十分だった。

 

今の段階では。

 

*

 

ミーティングスペースには、神谷、ラスタス、榊原、藤原、信治、結城、ペクトらが集まっていた。

 

画面にはシェイクダウンで得たデータが表示されている。

 

神谷が全員を見た。

 

「まず、シェイクダウンとしては問題ない。大きなトラブルは出なかった」

 

誰かが喜ぶわけでもない。

 

それがスタート地点に立っただけだと全員が分かっている。

 

「藤原」

 

「はい」

 

「もう一度、全体の印象を聞かせてくれ」

 

藤原は画面を見ながら答えた。

 

「基本的には素直です。MR-00みたいに操作と車の動きがつながらない感じはないです。ただ、まだどこか一つを直せば速くなるって段階でもないと思います」

 

「中村は?」

 

「俺も似てます。ただ、ブレーキングでリアが軽くなるところは、もう少し見たいです」

 

隣にいた結城が続けた。

 

「信治のデータでは出ています。ただ、走るたびに本人のブレーキの抜き方も変わっています。今の段階で車側だけの問題とは言えません」

 

信治が頷く。

 

「うん。俺も今すぐ変えてほしいとは思ってない」

 

自然に交わされる「信治」という呼び方に、宗村が一瞬だけ反応した。

 

だが、今回は何も言わなかった。

 

前にニヤついて桐生に睨まれたばかりだ。

 

神谷が藤原を見る。

 

「藤原はどう思う?」

 

「今は触らなくていいと思います」

 

信治がそちらを見る。

 

「藤原さんは、どうしてそこを触らないって判断できるんです?」

 

「触って失敗したことがあるから」

 

あまりにも普通に返ってきたので、信治は一瞬黙った。

 

藤原は続ける。

 

「違和感が出ると、すぐ車を変えたくなる。でも、ドライバーが車に慣れて消えることもあるし、別のところを変えたら一緒に消えることもある。最初から全部触ると、何が効いたのか分からなくなる」

 

「なるほど……」

 

「まあ、俺も昔は触ってましたけどね」

 

「それで失敗した?」

 

「何回も」

 

信治が笑った。

 

「じゃあ、説得力ありますね」

 

「だろ?」

 

ラスタスも笑っていた。

 

「失敗した回数なら、経験者は強いですよ」

 

「それ褒めてます?」

 

藤原が聞く。

 

「もちろん」

 

「怪しいなぁ」

 

張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。

 

神谷は構わず話を戻した。

 

「一度に変えるのは一つだ。シェイクダウンで出たものを全部直そうとするな。何を変えて、何が変わったのか分からなくなる」

 

榊原がデータを切り替える。

 

「空力側も同じです。実走との相関は取れていますが、まだ詰められる部分はあります。ここからは変更した結果をCFDと照らし合わせながら進めたいです」

 

「頼む」

 

神谷が短く答えた。

 

MR-00で何度も繰り返した作業だった。

 

違うのは、目の前にあるのが学習用の車ではないこと。

 

今度は、この車で世界へ行く。

 

*

 

ミーティングが終わっても、ペクトはHELIOS V10のデータを見ていた。

 

宗村が横から画面を覗く。

 

「どう?」

 

「エンジン側は良好です。シェイクダウンとしては特に心配する数字はありません」

 

「良かった」

 

「ただし」

 

ペクトが宗村を見る。

 

「これから走行距離が増えます。今までと同じように確認は続けます」

 

「もちろん」

 

宗村は少し考えた。

 

公開テスト。

 

そこで初めて、他のIGPチームと同じ場所を走る。

 

自分たちがどこにいるのか。

 

嫌でも数字で見せられる。

 

だったら、その前にできることは一つでも多くやっておきたい。

 

「ペクト」

 

「はい?」

 

「ちょっと聞いていい?」

 

「どうぞ」

 

「よいオイルメーカー知らない?」

 

ペクトの手が止まった。

 

「オイル、ですか?」

 

「うん。もちろん今使ってるものに問題があるって話じゃないよ。ただ、公開テストまでに試せるものがあるなら知っておきたいなって」

 

ペクトはすぐには答えなかった。

 

宗村はその横顔を見る。

 

「何かある?」

 

「……あります」

 

宗村の眉が上がった。

 

「あるんだ」

 

「ただ」

 

ペクトは少し困ったように笑った。

 

「簡単な会社ではありません」

 

「性能は?」

 

「HELIOSとの相性だけで言えば、私が試した中では非常にいいです」

 

今度は宗村が黙った。

 

HELIOSのエンジニアが、そこまで言う。

 

「どこのメーカー?」

 

ペクトは答えた。

 

「ジュラスです」

 

宗村は聞き覚えのない名前に首を傾げた。

 

「ジュラス……?」

 

「日本のオイルメーカーです」

 

「日本?」

 

「はい。ただ、IGPではほとんど知られていないと思います。HELIOSでも名前を知っている人がいる程度です」

 

「ペクトは何で知ってるの?」

 

「いろいろ試しましたから」

 

「いろいろ?」

 

ペクトは少し照れたように笑った。

 

「私は文系出身です。周りは理系のエンジニアばかりなので、普通にやっていたら追いつけません。だからエンジンの周りにあるものも含めて、自分で調べて、試せるものは試しました」

 

宗村は黙って聞いていた。

 

「その中で見つけたんです。HELIOSと、とても相性のいいオイルを」

 

「それがジュラス?」

 

「はい」

 

宗村は腕を組んだ。

 

「紹介してもらえる?」

 

ペクトの表情が微妙に曇った。

 

「そこが問題です」

 

「何?」

 

「一見さんお断りに近い会社です」

 

宗村は数秒黙った。

 

それから笑った。

 

「なるほど。そういう会社か」

 

「知っているんですか?」

 

「いや、知らない。でも、なんとなく好きかもしれない」

 

ペクトが首を傾げる。

 

宗村は立ち上がった。

 

「白石さんにも相談してみるよ。スポンサー関係で国内企業は結構回ってるから、何か知ってるかもしれない」

 

「分かりました」

 

宗村が数歩進んだところで、ペクトが呼び止めた。

 

「宗村さん」

 

「ん?」

 

「さんが焼きのお礼です」

 

「え?」

 

「ジュラスを教えるのは」

 

宗村は笑った。

 

「それ、美月に言ってあげて。さんが焼きを教えたの俺じゃないから」

 

「あ……そうでした」

 

ペクトは真顔になった。

 

「では、美月にもお礼をしないといけませんね」

 

「そこ真面目に考えるんだ」

 

宗村は笑いながら部屋を出た。

 

その足で白石を探す。

 

ジュラス。

 

聞いたことのないオイルメーカーだった。

 

だが、HELIOSのエンジニアが自分で試し、相性がいいと言った。

 

話くらいは聞いてみたい。

 

宗村は白石を見つけた。

 

「白石さん、ちょっといい?」

 

「はい。どうしました?」

 

「ジュラスって会社、知ってる?」

 

白石の動きが止まった。

 

「……ジュラス?」

 

宗村がその反応に気づく。

 

「知ってるの?」

 

白石は少しだけ遠い目をした。

 

「知ってるも何も……」

 

そして、苦笑した。

 

「私、LMP2の頃に何度も営業に行ってますよ」

 

「え?」

 

今度は宗村が止まる番だった。

 

MR-01のシェイクダウンが終わり、MUNEはようやく自分たちの現在地を知るための準備を始めた。

 

その先で待っていたのは、新しい技術ではない。

 

かつて白石が積み重ねていた、古い縁だった。

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