Chapter 28 シート越しの世界
千葉ウッドレイクサーキット。ピットレーンの出口が近づいてくる。
信治はステアリングを握り直した。
背中のすぐ後ろでHELIOS V10が鳴っている。
外から聞いていたときとはまるで違った。澄んだ高音も、厚みのある中音も、コックピットでは音というより振動に近い。低く厚い響きが背中を押し、回転が上がるにつれて高音が細く伸びる。シフトアップのたびに音が一瞬途切れ、次の段でまた鋭く立ち上がった。アクセルへ右足を乗せるだけで、車全体が次の動きを待っているように感じる。
〈中村さん、まずは予定どおり確認からいきましょう〉
結城の声が聞こえた。
〈了解〉
ピット出口を越える。
信治はアクセルを踏み込んだ。
「……っ」
思わず声が漏れた。
国内トップフォーミュラでも、遅い車に乗っていたわけではない。
それでも違う。
HELIOS V10の回転が上がるにつれて、身体がシートへ押しつけられる。速度そのものより、アクセルに対する反応の速さに意識が追いつかない。
次のコーナーが迫った。
ブレーキを踏む。
今度は身体が前へ持っていかれた。
「これ……」
信治は思っていた位置より手前で速度を落としすぎたことに気づいた。
慎重になったつもりだった。
それでもブレーキは、自分が想像していた以上に効いた。
ステアリングを切る。
MR-01が向きを変える。
速さを求める段階ではない。それでも、操作に対して車がどう動いたのかは分かる。
藤原の言葉が頭をよぎった。
――乗れば分かる。
「そういうことかよ……」
少し笑った。
1周目は、とにかく車を知ることに徹した。
アクセル。
ブレーキ。
シフト。
ステアリング。
そして、自分の身体へ入ってくる情報。
国内トップフォーミュラの延長線上にあると思っていた。
間違ってはいない。
だが、その延長線が想像していたよりずっと遠くまで伸びている。
〈結城さん〉
〈はい〉
〈ブレーキ、かなり余らせてます〉
〈こちらでも確認できてます。今はそれでいいです〉
〈了解〉
2周目。
少しだけブレーキを遅らせた。
MR-01は受け止めた。
さらに次のコーナーでも試す。
今度はさっきより強く踏み込む。
フロントが路面を捉える感触が伝わってきた。
信治の口元が緩む。
これなら、もう少しいける。
〈中村さん〉
結城の声が飛んできた。
〈はい〉
〈まだシェイクダウンです〉
「分かってるって……」
思わず呟いてから、無線を返す。
〈分かってます。ちゃんと戻ります〉
〈お願いします〉
結城の声は穏やかだった。
だが、釘はしっかり刺された。
信治は一度息を吐いた。
自分でも分かっている。
少しずつ楽しくなってきていた。
ピットでは、結城が信治のデータを追っていた。
その横からラスタスが画面を見る。
「ブレーキ、変わりましたね」
「はい。最初の一周より明らかに踏み始めが遅くなってます」
「彼らしい?」
結城は少し考えた。
「たぶん。でも、まだ本人も探ってると思います」
ラスタスは頷いた。
「それでいいですよ。最初から答えが分かってるドライバーなんていませんから」
少し離れた場所では藤原もモニターを見ていた。
宗村が隣へ来る。
「どう?」
「楽しそうですね」
「データで分かるの?」
「なんとなくです」
「なんとなくかぁ」
藤原は小さく笑った。
「でも、そろそろ結城が止めると思いますよ」
その直後だった。
〈中村さん、次で一度戻りましょう〉
〈了解〉
宗村が藤原を見る。
「当たった」
「そりゃ戻しますよ。シェイクダウンですから」
MR-01がピットへ戻ってきた。
停止すると、メカニックたちがすぐに車体を囲む。
信治はエンジンが止まっても、しばらくコックピットから動かなかった。
静かだった。
ついさっきまで身体を包んでいた音と振動が消えている。
「中村さん?」
美月に呼ばれて顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫。ちょっと……すごかったなと思って」
「何がです?」
信治はヘルメットを外した。
「全部」
美月が笑った。
「それじゃ分かりませんよ」
「だよな」
車から降りると、結城が待っていた。
「どうでした?」
信治はすぐには答えなかった。
頭の中にある感覚を言葉へ変える。
以前、結城と話したときから、それが自分たちの仕事だと分かっていた。
「最初はブレーキが効きすぎると思いました。でも、違います。俺がまだ使えてないだけです。踏んだ分だけちゃんと止まるし、少し奥まで持っていってもフロントは逃げなかった」
結城が頷く。
「ステアリングは?」
「思ったより素直です。切ったときに急に何かが出る感じはない。ただ、速いところはまだ全然分からない。今日はそこまで行けてないから」
「リアは?」
「今のペースなら問題ないです。でも、ブレーキをもっと奥まで持っていったときにどうなるかは知りたいです」
結城はメモを取っていた。
その横で神谷が聞いている。
信治は少し考えてから続けた。
「あと、エンジンがすごく扱いやすいです。パワーは当然あるんですけど、いきなり蹴飛ばされる感じじゃない。アクセルを開けた分だけ来る感じがします」
少し離れた場所にいたペクトが、その言葉を聞いて笑った。
「それはHELIOSとして嬉しい評価です」
信治も笑う。
「でも、まだ怖いですよ」
「それも正常な評価だと思います」
神谷が口を開いた。
「藤原と大きく違うところは?」
結城がデータを見直す。
「ブレーキです。中村さんの方が明らかに奥へ持っていこうとしています。ただ、まだ限界を探している途中なので、今の段階でセットアップを変える理由にはならないと思います」
「俺もそう思う」
信治が答えた。
「今変えられると、車なのか俺なのか分からなくなるので。もう少しこのまま乗りたいです」
神谷は一度だけ頷いた。
「分かった。変えない」
それだけだった。
だが信治には、その判断が嬉しかった。
自分のために車を変えてもらうことが目的ではない。
自分が感じたことを伝え、それが本当に車の問題なのか、ドライバー側の問題なのかを一緒に探す。
MR-01を速くする。
その仕事に、自分も入ったのだ。
「どうだった?」
藤原が声を掛けてきた。
信治は振り返った。
「藤原さん」
「うん」
信治は少しだけ考えた。
聞きたいことはいくつもあった。
自分のブレーキングはどうだったのか。
藤原ならどこまで行くのか。
この車はIGPで通用するのか。
けれど、今は一つだけでいいと思った。
「楽しいですね、これ」
藤原が笑った。
「だろ?」
その返事だけで十分だった。
ガレージでは、再びMR-01の確認作業が始まっていた。
神谷と柴崎。
結城とラスタス。
ペクト。
そして多くのスタッフたち。
誰も今日のラップタイムを気にしていない。
まだ速さを競う日は来ていない。
信治はMR-01を見た。
初めてIGPマシンを走らせた。
怖かった。
速かった。
そして、自分がまだこの車をほとんど使えていないことも分かった。
それでも、不思議と焦りはなかった。
分からないなら、分かるまで走ればいい。
藤原が先にいる。
結城が隣にいる。
そして、自分たちの車がある。
信治はレーシンググローブをもう一度手にはめた。
「結城さん」
「はい?」
「次、いつ行けます?」
結城はMR-01を囲んでいるメカニックたちを見た。
「まず、ちゃんと点検させてください」
「ですよね」
信治は笑った。
世界最高峰への最初の一周は終わった。
けれど、中村信治のIGPは、まだ始まったばかりだった。




