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IGNITION  作者: ムネディ


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28/71

Chapter 27 最初の一周

MR-01のシェイクダウン当日。

MUNE RACINGは、千葉ウッドレイクサーキットへ戻ってきた。

MR-00の2度の実走テストを行い、フォーミュラカーを走らせるための基準を作った場所だ。

初始動から数日。市原ファクトリーで走行前の確認を終えたMR-01は、初めてサーキットへ運び込まれていた。

最初に藤原が基本機能を確認し、問題がなければ信治へ引き継ぐ。ファクトリーで決めた手順どおりだった。

MR-01のHELIOS V10が目を覚ました。

ファクトリーで聞いたときとは違う。

厚みのある中音を下支えに、回転の上昇とともに澄んだ高音が伸び、ピットの屋根を抜けていく。閉ざされたファクトリーでは感じられなかった音の広がりがあった。

宗村はピットウォールの前で腕を組み、ガレージの中央に置かれたマシンを見つめていた。

蒼、オレンジ、シルバーを基調としたMR-01。

MR-00で失敗した。

分からないことを知った。

何度も設計を見直した。

そして、ようやくここまで来た。

「宗村さん」

神谷に呼ばれ、宗村は視線を向けた。

「始めます」

「お願いします」

いつもの神谷だった。

記念すべき日だからといって、声が弾んでいるわけでもない。

シェイクダウンの目的は速さではなかった。

走ること。

止まること。

曲がること。

そして、戻ってくること。

MR-01がレーシングカーとして最低限果たさなければならない仕事を、1つずつ確認する。

ペクト・ルーザはノートPCの画面を見ながら、HELIOS V10のデータを追っていた。

「油圧、問題ありません。水温も安定しています。予定どおり最初は回転を抑えてください」

穏やかな口調とは対照的に、その視線は鋭い。

食堂ではさんが焼きを嬉しそうに食べていたペクトも、仕事となれば表情が変わる。HELIOSからMUNEを任されているエンジニアとして、視線はエンジンの数値からほとんど離れない。

「分かった」

神谷が短く返した。

その横ではラスタスも各データを確認している。

「最初から欲張る必要はないですよ。今日は走れば、それだけで確認できることが山ほどあります」

「同感だ」

神谷が答えた。

2人の前を藤原が通った。

レーシングスーツ姿だった。

「藤原」

「はい」

「最初は確認だけだ。タイムはいらない」

「分かってます」

藤原はそれだけ答えると、MR-01へ向かった。

信治は少し離れた場所から、その姿を見ていた。

自分もレーシングスーツを着ている。

だが、最初に乗るのは藤原だ。

IGPを実際に走った経験を持ち、MR-00でMUNEの基準を作ったドライバー。

MR-01の最初の1周を任せるなら、藤原以外にはいなかった。

藤原がコックピットへ身体を沈める。

メカニックたちがベルトを締め、ステアリングを取り付ける。

エンジン回転がアイドリングで落ち着いた。

宗村の隣へ桐生が来た。

「緊張してます?」

「そりゃするよ」

「顔には出てませんけど」

「代表が今にも泣きそうな顔してたら嫌でしょ」

「そこまでは言ってません」

宗村は笑った。

その間にも確認作業は淡々と進んでいく。

やがて柴崎が車体から離れ、ピットレーンの状況を確かめてから手を上げた。

その合図を受け、MR-01がゆっくりと動き出した。

ほんの数メートル。

それだけなのに、宗村は無意識に息を止めていた。

「……動いた」

桐生が横を見る。

「車なんですから動いてもらわないと困ります」

「そういう意味じゃないんだけどなぁ」

「分かってます」

桐生は小さく笑った。

MR-01がピットレーンへ出る。

そして、藤原がアクセルをわずかに開いた。

HELIOS V10の響きが変わった。

厚みのある中音を残しながら回転が滑らかに上がり、澄んだ高音がピットレーンへ長く伸びた。

MR-01が遠ざかっていく。

宗村はその音が聞こえなくなるまで、ピットレーンの先を見続けていた。

やがてモニターに藤原の走行データが入り始める。

ペクトの指が画面を追う。

「エンジン側は問題ありません」

神谷は返事をせず、別のモニターを見ていた。

柴崎も車両側のデータを確認している。

誰もラップタイムを気にしていなかった。

しばらくして無線が入った。

〈ブレーキ、問題ない。シフトも大丈夫。ステアリングにも変な引っ掛かりはない〉

藤原の報告は短く、必要な情報だけがそろっていた。

神谷がマイクを取った。

〈了解。そのまま予定どおり確認を続けてくれ〉

〈了解〉

やがて遠くから、HELIOS V10の澄んだ高音が近づいてきた。

MR-01がホームストレートを通過していく。

速さを競っているわけではない。

それでも宗村には十分だった。

自分たちが作ったIGPマシンが、実際のコースを走っている。

「宗村さん」

柴崎だった。

「はい?」

「まだ喜ばないでくださいよ」

「まだ何も言ってないじゃない」

「顔に出てます」

「美咲さんには出てないって言われたんだけど」

「私には分かります」

「どっちを信じればいいの?」

桐生は答えなかった。

数周後、MR-01がピットへ戻ってきた。

停止位置へ収まると、エンジンが止められ、柴崎を中心にメカニックたちが車体を囲む。

藤原の降車手順と並行して、決められた確認作業が始まった。

宗村も近づこうとした。

「宗村さん」

柴崎に止められた。

「何?」

「今は邪魔です」

「俺、代表なんだけど」

「知ってます」

「知ってて言ってる?」

「はい」

宗村は黙って一歩下がった。

隣で桐生が笑いを堪えている。

「笑った?」

「いいえ」

「絶対笑ったよね」

その間にも神谷は車体側を、ペクトはエンジン側のデータを確認していた。

漏れ。

温度。

各部の状態。

異常がないことを1つずつ確認していく。

やがて藤原がヘルメットを脱いだ。

神谷が近づく。

「どうだ?」

藤原は少し考えた。

「MR-00とは全然違いますね」

神谷の目が細くなる。

「いい意味か?」

「はい。ちゃんと操作した分だけ返ってくる感じがあります。まだ何が速いとか遅いとかを言う段階じゃないですけど、少なくとも何をしてるのか分からない車じゃない」

神谷は小さく頷いた。

MR-00で藤原から指摘された問題を、ただ消したわけではない。

そこから学び、MR-01という別の車を作った。

その最初の答えだった。

「もう少し走れるか?」

「もちろん」

藤原が答えたところで、信治が近づいてきた。

「藤原さん」

「ん?」

「どうでした?」

藤原は信治を見た。

「乗れば分かるよ」

信治が苦笑する。

「またそれですか」

「俺の感想を聞いてから乗るより、自分で感じた方がいいだろ」

そう言われれば返す言葉はなかった。

藤原は信治の肩を軽く叩いて、その場を離れた。

確認を終えたMR-01へ、今度は信治が近づく。

結城もヘッドセットを着け直した。

ここからは自分の担当だ。

信治がコックピットへ身体を沈める。

国内トップフォーミュラとは違う景色。

目の前にあるステアリング。

左右に伸びるフロントタイヤ。

そして背後には、世界最高峰を戦うためのHELIOS V10がある。

メカニックがベルトを締めた。

ステアリングが取り付けられる。

結城の声が無線から聞こえた。

〈中村さん、聞こえますか?〉

信治は1度息を吐いた。

〈聞こえてる〉

〈まずは藤原さんと同じ確認メニューです。無理にペースを上げなくて大丈夫です〉

〈了解〉

スターターの乾いた作動音に続き、HELIOS V10が始動した。

低い初爆から立ち上がった10気筒の振動が、シートを通して身体へ伝わってくる。

さっきまで外から聞いていた澄んだ高音と厚みのある中音が、今は背中越しの振動を伴っていた。

信治は正面を見た。

ピットレーンの先に、まだ知らない世界がある。

合図が出る。

クラッチをつなぐ。

MR-01が動き始めた。

ゆっくりとガレージを離れ、ピットレーンへ出ていく。

宗村も、神谷も、藤原も、その後ろ姿を見送った。

中村信治、25歳。

その日初めて、IGPマシンでコースへ向かった。

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