Chapter 27 最初の一周
MR-01のシェイクダウン当日。
MUNE RACINGは、千葉ウッドレイクサーキットへ戻ってきた。
MR-00の2度の実走テストを行い、フォーミュラカーを走らせるための基準を作った場所だ。
初始動から数日。市原ファクトリーで走行前の確認を終えたMR-01は、初めてサーキットへ運び込まれていた。
最初に藤原が基本機能を確認し、問題がなければ信治へ引き継ぐ。ファクトリーで決めた手順どおりだった。
MR-01のHELIOS V10が目を覚ました。
ファクトリーで聞いたときとは違う。
厚みのある中音を下支えに、回転の上昇とともに澄んだ高音が伸び、ピットの屋根を抜けていく。閉ざされたファクトリーでは感じられなかった音の広がりがあった。
宗村はピットウォールの前で腕を組み、ガレージの中央に置かれたマシンを見つめていた。
蒼、オレンジ、シルバーを基調としたMR-01。
MR-00で失敗した。
分からないことを知った。
何度も設計を見直した。
そして、ようやくここまで来た。
「宗村さん」
神谷に呼ばれ、宗村は視線を向けた。
「始めます」
「お願いします」
いつもの神谷だった。
記念すべき日だからといって、声が弾んでいるわけでもない。
シェイクダウンの目的は速さではなかった。
走ること。
止まること。
曲がること。
そして、戻ってくること。
MR-01がレーシングカーとして最低限果たさなければならない仕事を、1つずつ確認する。
ペクト・ルーザはノートPCの画面を見ながら、HELIOS V10のデータを追っていた。
「油圧、問題ありません。水温も安定しています。予定どおり最初は回転を抑えてください」
穏やかな口調とは対照的に、その視線は鋭い。
食堂ではさんが焼きを嬉しそうに食べていたペクトも、仕事となれば表情が変わる。HELIOSからMUNEを任されているエンジニアとして、視線はエンジンの数値からほとんど離れない。
「分かった」
神谷が短く返した。
その横ではラスタスも各データを確認している。
「最初から欲張る必要はないですよ。今日は走れば、それだけで確認できることが山ほどあります」
「同感だ」
神谷が答えた。
2人の前を藤原が通った。
レーシングスーツ姿だった。
「藤原」
「はい」
「最初は確認だけだ。タイムはいらない」
「分かってます」
藤原はそれだけ答えると、MR-01へ向かった。
信治は少し離れた場所から、その姿を見ていた。
自分もレーシングスーツを着ている。
だが、最初に乗るのは藤原だ。
IGPを実際に走った経験を持ち、MR-00でMUNEの基準を作ったドライバー。
MR-01の最初の1周を任せるなら、藤原以外にはいなかった。
藤原がコックピットへ身体を沈める。
メカニックたちがベルトを締め、ステアリングを取り付ける。
エンジン回転がアイドリングで落ち着いた。
宗村の隣へ桐生が来た。
「緊張してます?」
「そりゃするよ」
「顔には出てませんけど」
「代表が今にも泣きそうな顔してたら嫌でしょ」
「そこまでは言ってません」
宗村は笑った。
その間にも確認作業は淡々と進んでいく。
やがて柴崎が車体から離れ、ピットレーンの状況を確かめてから手を上げた。
その合図を受け、MR-01がゆっくりと動き出した。
ほんの数メートル。
それだけなのに、宗村は無意識に息を止めていた。
「……動いた」
桐生が横を見る。
「車なんですから動いてもらわないと困ります」
「そういう意味じゃないんだけどなぁ」
「分かってます」
桐生は小さく笑った。
MR-01がピットレーンへ出る。
そして、藤原がアクセルをわずかに開いた。
HELIOS V10の響きが変わった。
厚みのある中音を残しながら回転が滑らかに上がり、澄んだ高音がピットレーンへ長く伸びた。
MR-01が遠ざかっていく。
宗村はその音が聞こえなくなるまで、ピットレーンの先を見続けていた。
やがてモニターに藤原の走行データが入り始める。
ペクトの指が画面を追う。
「エンジン側は問題ありません」
神谷は返事をせず、別のモニターを見ていた。
柴崎も車両側のデータを確認している。
誰もラップタイムを気にしていなかった。
しばらくして無線が入った。
〈ブレーキ、問題ない。シフトも大丈夫。ステアリングにも変な引っ掛かりはない〉
藤原の報告は短く、必要な情報だけがそろっていた。
神谷がマイクを取った。
〈了解。そのまま予定どおり確認を続けてくれ〉
〈了解〉
やがて遠くから、HELIOS V10の澄んだ高音が近づいてきた。
MR-01がホームストレートを通過していく。
速さを競っているわけではない。
それでも宗村には十分だった。
自分たちが作ったIGPマシンが、実際のコースを走っている。
「宗村さん」
柴崎だった。
「はい?」
「まだ喜ばないでくださいよ」
「まだ何も言ってないじゃない」
「顔に出てます」
「美咲さんには出てないって言われたんだけど」
「私には分かります」
「どっちを信じればいいの?」
桐生は答えなかった。
数周後、MR-01がピットへ戻ってきた。
停止位置へ収まると、エンジンが止められ、柴崎を中心にメカニックたちが車体を囲む。
藤原の降車手順と並行して、決められた確認作業が始まった。
宗村も近づこうとした。
「宗村さん」
柴崎に止められた。
「何?」
「今は邪魔です」
「俺、代表なんだけど」
「知ってます」
「知ってて言ってる?」
「はい」
宗村は黙って一歩下がった。
隣で桐生が笑いを堪えている。
「笑った?」
「いいえ」
「絶対笑ったよね」
その間にも神谷は車体側を、ペクトはエンジン側のデータを確認していた。
漏れ。
温度。
各部の状態。
異常がないことを1つずつ確認していく。
やがて藤原がヘルメットを脱いだ。
神谷が近づく。
「どうだ?」
藤原は少し考えた。
「MR-00とは全然違いますね」
神谷の目が細くなる。
「いい意味か?」
「はい。ちゃんと操作した分だけ返ってくる感じがあります。まだ何が速いとか遅いとかを言う段階じゃないですけど、少なくとも何をしてるのか分からない車じゃない」
神谷は小さく頷いた。
MR-00で藤原から指摘された問題を、ただ消したわけではない。
そこから学び、MR-01という別の車を作った。
その最初の答えだった。
「もう少し走れるか?」
「もちろん」
藤原が答えたところで、信治が近づいてきた。
「藤原さん」
「ん?」
「どうでした?」
藤原は信治を見た。
「乗れば分かるよ」
信治が苦笑する。
「またそれですか」
「俺の感想を聞いてから乗るより、自分で感じた方がいいだろ」
そう言われれば返す言葉はなかった。
藤原は信治の肩を軽く叩いて、その場を離れた。
確認を終えたMR-01へ、今度は信治が近づく。
結城もヘッドセットを着け直した。
ここからは自分の担当だ。
信治がコックピットへ身体を沈める。
国内トップフォーミュラとは違う景色。
目の前にあるステアリング。
左右に伸びるフロントタイヤ。
そして背後には、世界最高峰を戦うためのHELIOS V10がある。
メカニックがベルトを締めた。
ステアリングが取り付けられる。
結城の声が無線から聞こえた。
〈中村さん、聞こえますか?〉
信治は1度息を吐いた。
〈聞こえてる〉
〈まずは藤原さんと同じ確認メニューです。無理にペースを上げなくて大丈夫です〉
〈了解〉
スターターの乾いた作動音に続き、HELIOS V10が始動した。
低い初爆から立ち上がった10気筒の振動が、シートを通して身体へ伝わってくる。
さっきまで外から聞いていた澄んだ高音と厚みのある中音が、今は背中越しの振動を伴っていた。
信治は正面を見た。
ピットレーンの先に、まだ知らない世界がある。
合図が出る。
クラッチをつなぐ。
MR-01が動き始めた。
ゆっくりとガレージを離れ、ピットレーンへ出ていく。
宗村も、神谷も、藤原も、その後ろ姿を見送った。
中村信治、25歳。
その日初めて、IGPマシンでコースへ向かった。




