Chapter 26 走らせるために
HELIOS V10の初始動から数日。
市原ファクトリーでは、MR-01の作業が続いていた。
エンジンに火が入った。
だから次は走れる。
外から見れば、そう思うかもしれない。
だが柴崎哲也に言わせれば、話はまるで逆だった。
「エンジンが掛かったから、ここから確認するものが増えるんだよ」
篠崎美月はMR-01の右後方で手を動かしながら顔を上げた。
「減らないんですか?」
「減ると思った?」
「ちょっとだけ」
「甘い」
「ですよね」
美月はすぐに作業へ戻った。
初始動後に確認された配管や接続部には問題がなかった。
それでも、1度熱が入ったことで確認できることがある。
締結。
配管。
電装。
冷却系。
エンジン周辺だけではない。
走らせるなら、ブレーキもサスペンションもステアリングもすべてが正常に機能しなければならない。
MR-01は1台の車になった。
だが、まだレーシングカーとして1メートルも走っていない。
ペクト・ルーザも引き続きファクトリーにいた。
ノートPCを前に、神谷英治と初始動時のログを確認している。
「こちらは問題ありません。走行前にもう1度確認します」
神谷が頷いた。
「お願いします」
そこへ宗村宗一がやって来た。
「今日もいるね」
神谷が振り返る。
「何が?」
「ペクト」
「仕事だからな」
「さんが焼きじゃなくて?」
ペクトが宗村の顔を見る。
「もちろん仕事です。でも、昼はさんが焼きにします」
迷いのない答えだった。
宗村が笑う。
神谷が呆れた顔をする。
「余計なこと覚えさせるなよ」
「俺じゃないよ。美月さんだから」
少し離れた場所から声が飛んできた。
「私のせいにしないでください」
宗村が笑う。
「聞こえてた?」
「聞こえますよ」
ペクトは美月を見つけると、嬉しそうに親指を立てた。
美月も笑って親指を返す。
柴崎が工具を置いた。
「はい。交流はそこまで。美月、左側も見るぞ」
「はい」
美月はすぐに表情を戻した。
会議スペースには、神谷、ラスタス、榊原直哉、藤原蒼真、中村信治、結城遼が集まっていた。
モニターにはMR-01のデータが表示されている。
神谷が話し始める。
「初始動のログに大きな問題はなかった。車体側も今のところ予定どおり。だから、次は実走へ進む」
信治の表情がわずかに変わった。
ようやく走る。
その言葉が現実味を帯びてきた。
神谷は続けた。
「ただし、最初から速さを見るつもりはない。まず車が正常に走るか。それだけ」
ラスタスが頷く。
「最初の走行で欲張る必要はありません。ブレーキ、シフト、冷却、油圧、車高の変化。それからドライバーが感じる基本的な挙動。確認するものはいくらでもあります」
榊原がモニターを見る。
「空力も、実走データが入って初めて比較できます」
神谷が頷いた。
「1度に全部答えを出そうとしない。問題があれば1つずつ潰す」
信治はその言葉を聞きながらMR-00のことを思い出していた。
自分は乗っていない。
だが、藤原の走行から得られたデータがMR-01へ反映されていく過程は見てきた。
1度に変更するのは1つ。
何が効いたのか分からなくなるようなことはしない。
MR-00でチームが学んだやり方だった。
神谷が藤原を見る。
「最初は藤原に乗ってもらう」
「分かりました」
藤原は短く答えた。
信治も黙って頷いた。
驚きはなかった。
MR-00を走らせ、このチームのフォーミュラ開発の基準を作ってきたのは藤原だ。
IGPの経験もある。
最初の確認を任せるなら自然だった。
藤原が信治を見る。
「不満?」
「いや、全然」
「本当に?」
信治が笑う。
「ありますよ。早く乗りたいって意味なら」
藤原も少し笑った。
「じゃあ先に壊れないか見てくる」
「それ、縁起悪くないですか?」
「壊れない車を作ってるんだろ?」
神谷が横から答えた。
「作ってる。だから余計なこと言わずに走ってこい」
会議室に小さな笑いが起きた。
結城は信治の横で資料を見ていた。
「中村さん」
「ん?」
「藤原さんが走っている時、気になったことがあったら言ってください」
「俺が?」
「外から見て分かることもあると思うので。それと藤原さんのコメントを聞いて、自分ならどう感じるか考えておいてほしいです」
信治は少し考えた。
「俺が乗る前から?」
「乗ってから考え始めたら遅いかなって」
信治が笑う。
「結城さん、意外と厳しいね」
「そうですか?」
「もっと優しい人だと思ってた」
「優しいですよ」
「自分で言う?」
結城も笑った。
まだ2人には、藤原と朝倉のような長年の積み重ねはない。
だが、少しずつ言葉の距離が縮まっていた。
*
午後。
MR-01には走行用の部品が組み付けられていった。
美月はフロア近くへ身体を入れ、作業している。
狭い。
力も必要になる。
それでも工具の持ち方と身体の位置を変えながら、手際よく作業を進める。
柴崎が横から確認した。
「そこ、締めた?」
「はい」
「確認は?」
「しました」
「何回?」
美月が手を止めた。
「……3回」
柴崎が頷く。
「ならいい」
美月が身体を起こす。
「最近そればっかりですね」
「確認する仕事だからな」
「私、ちゃんと成長してます?」
柴崎はMR-01を見たまま答えた。
「してなかったら任せてない」
美月が一瞬黙った。
「……そういうの、普通に言うんですね」
「何が?」
「なんでもないです」
美月は少し嬉しそうに次の作業へ移った。
夕方。
藤原がMR-01のコクピットへ収まった。
今日は走らない。
ポジションと操作系の最終確認だった。
ステアリングを握る。
ペダルを踏む。
視線を動かす。
信治は車体の横からその様子を見ていた。
「どうです?」
藤原がステアリングから手を離す。
「前よりいい」
神谷が聞く。
「何が?」
「全部」
「それじゃ分からん」
藤原が笑う。
「MR-00で言ったところですよ。着座位置も視界も操作系も。ちゃんと別の車になってる」
神谷はそれ以上何も言わなかった。
だが信治には、その言葉の意味が分かった。
MR-00を速くした車ではない。
MR-00で犯した失敗を繰り返さないために作った車。
それがMR-01だった。
藤原がコクピットから降りる。
入れ替わるように信治が近づいた。
手を伸ばし、MR-01のボディに軽く触れる。
次は、走る。
自分が初めてIGPマシンを運転する日も近い。
宗村が少し離れた場所から2人を見ていた。
隣には桐生美咲がいる。
「ようやくですね」
「うん」
「長かったですか?」
宗村は少し考えた。
MR-00を作った。
失敗した。
人を集めた。
金を集めた。
1つずつ積み上げて、ようやくここまで来た。
「まだスタートラインにも立ってないよ」
桐生がMR-01を見る。
「でも、スタートラインは見えてきました」
宗村も同じ方向を見る。
MR-01は静かに作業灯の下に置かれている。
数日前、初めてHELIOS V10の音を響かせた車。
次は、その音がファクトリーではなくサーキットに響く。
「そうだね」
宗村が小さく笑った。
「じゃあ、走らせようか」
MR-01のシェイクダウンが近づいていた。




