↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
IGNITION  作者: ムネディ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/69

Chapter 25 火を入れる日

市原ファクトリーの組立エリアには、朝から普段とは少し違う緊張感が漂っていた。

MR-01の後方にはHELIOS V10が収まっている。

だが、エンジンを載せれば車が完成するわけではない。

配管、配線、冷却系、油圧系、電装、各種センサー。

昨日から続けてきた確認作業を終えて、ようやく最初の始動を迎えようとしていた。

神谷英治はMR-01の横でチェックリストを見ていた。

「柴崎」

「車体側は終わってる。漏れもなし。始動後にもう1度見る」

「電装は?」

「確認済み」

神谷が頷く。

少し離れた場所では、篠崎美月がMR-01の後方を確認していた。

柴崎哲也が声を掛ける。

「美月、そっちは?」

「大丈夫です。目視だけじゃなく触って確認しました」

「何回?」

「3回」

「ならいい」

美月が少し笑った。

「今日は『もう1回』って言わないんですね」

「自分でやったなら言わない」

何度も確認する。

簡単なことだが、走り出してからでは遅い。

だから今やる。

その少し後ろでは、ペクト・ルーザがノートPCを開いていた。

HELIOS Engineeringでカスタマープロジェクトを担当し、MUNEを支えるエンジニアだ。

画面には、始動前のエンジン側のデータが並んでいる。

神谷が声を掛けた。

「ペクト。こちらは最終確認に入ってる」

ペクトが画面から顔を上げる。

「エンジン側は準備できています。急がなくて構いません」

その会話を聞いていた宗村宗一が、ペクトを見る。

「ずいぶん落ち着いてるね」

ラスタス・パルナーが横から口を挟んだ。

「初回始動を急かすエンジン屋の方が嫌でしょう」

宗村は納得したように頷いた。

「それもそうか」

ペクトが2人の会話に気づいた。

「何の話ですか?」

ラスタスが説明すると、ペクトは笑った。

「急ぐ理由はありません。今日の1番の目的はエンジンを無事に始動することです。2番目は昼食です」

ラスタスが吹き出した。

宗村が首を傾げる。

「昼食?」

「市原ファクトリーの食堂を楽しみにしているそうです」

ラスタスが笑いながら補足した。

ペクトは嬉しそうに頷いた。

以前MUNEを訪れたHELIOS関係者から、市原ファクトリーの食堂について聞いていたらしい。

特に楽しみにしていたのが、なめろう定食だった。

MUNE担当を決める話が出た時、ペクトは自分から手を挙げた。

しかも希望者は1人ではなかったという。

「勝ったんです」

ペクトは少し得意そうに笑った。

宗村が聞く。

「何に?」

「社内競争です」

「MUNEへ来るための?」

「はい」

「なめろう定食目当て?」

ペクトの表情が少しだけ真面目になった。

「もちろん仕事が1番です。ただ、昼食も重要です」

宗村が笑う。

「気が合いそうだね」

神谷の声が飛んできた。

「宗村さん。始めるぞ」

「はいはい」

宗村が離れる。

ペクトもノートPCへ向き直った。

先ほどまでとは表情が違う。

仕事となれば、一瞬で切り替わる。

藤原蒼真と中村信治も、邪魔にならない場所からMR-01を見ていた。

信治はいつもより口数が少ない。

藤原が横を見る。

「緊張してる?」

「ちょっと」

「今日は乗らないよ」

「分かってます。でも、自分が乗る車ですよ」

藤原は小さく笑った。

「そうだな」

信治は再びMR-01を見る。

図面だった。

部品になった。

そして、1台のレーシングカーになった。

だが、まだ自ら音を発したことはない。

これから、その心臓に初めて火が入る。

神谷がペクトを見る。

「始める」

「こちらも準備できています」

スタッフが持ち場につく。

宗村も後ろへ下がった。

神谷は最後に柴崎を見る。

「いける?」

「いける」

神谷が頷いた。

「始動する」

スターターを回す。

乾いた作動音が、キュルルルッと組立エリアに走った。

一瞬。

さらに一瞬。

低い初爆がヴォンッと弾けた。

HELIOS V10が目を覚ました。

10気筒の燃焼が1つの響きへ重なり、組立エリアの空気を震わせる。

始動直後に持ち上がった回転が、ウォォン……と厚みのある中音を残しながら落ち着いていく。

その響きには、HELIOSらしい澄んだ高音が重なっていた。

ただ甲高いだけではない、芯のあるV10サウンドだった。

閉ざされたファクトリーの壁に反射した音が、MR-01を中心に何重にも広がった。

信治は思わず目を見開いた。

国内トップフォーミュラでも、多くのレーシングエンジンを聞いてきた。

だが、今耳にしている音には別の意味がある。

これがHELIOS V10。

これから自分がIGPで背負うエンジンの音だった。

藤原は黙ってMR-01を見ている。

宗村も何も言わなかった。

美月は一瞬だけ車へ目を向けると、すぐに担当箇所の確認へ戻った。

神谷とペクトは、最初からモニターを見ている。

油圧。

水温。

各種センサー。

数値が次々と表示される。

エンジンが掛かった。

だから成功。

そんな単純な話ではない。

「油圧、正常です」

ペクトが告げる。

神谷が柴崎を見る。

「漏れは?」

「なし」

「電装?」

「問題なし」

一定時間の確認を終え、神谷が指示を出す。

「止める」

HELIOS V10の音が消えた。

さっきまでファクトリーを満たしていた音がなくなり、突然静寂が戻ってくる。

信治の耳には、それでもまだV10の余韻が残っているように感じられた。

数秒の沈黙。

宗村が口を開く。

「……掛かったね」

神谷はモニターを見たまま答えた。

「掛かったな」

「もう少し喜ばない?」

「これからログを見るんだよ」

「今日くらいいいじゃん」

「まだダメ」

宗村は苦笑した。

だが神谷の口元も、ほんの少しだけ緩んでいた。

ペクトがログを確認する。

「最初の始動として問題ありません。ただ、確認したい項目がいくつかあります」

神谷が頷いた。

「お願いします。こちらも車体側をもう1度確認します」

「分かりました」

*

昼。

一行が食堂へ入ると、牧村和代が厨房から顔を出した。

「今日は人数多いねえ」

宗村がペクトを紹介する。

「和代さん、この人がHELIOSから来てくれたペクト。食堂を楽しみにしてたんだって」

「まあ。それは嬉しいねえ」

千夏も笑顔でやって来る。

「今日はなめろう定食ありますよ」

ラスタスが、なめろうがどんな料理かをペクトへ説明した。

ところが、ペクトの表情が止まった。

「……生の魚なんですか?」

宗村が目を丸くする。

「そうだけど」

ペクトの顔が曇る。

「生の魚は……食べられないんです」

一瞬、全員が黙った。

宗村が聞き返す。

「なめろう定食を楽しみに日本まで来たのに?」

ペクトは困ったように笑った。

「料理の名前と、すごくおいしいという話しか聞いていませんでした」

宗村が額を押さえた。

「HELIOSの人、そこ説明してなかったのか……」

「どうやら重要な情報が欠けていました」

その時だった。

少し離れた席にいた美月が会話を聞きつけて立ち上がった。

「だったら、さんが焼きにすればいいんじゃないですか?」

宗村が振り返る。

「さんが焼き?」

「なめろうを焼いたものです。火が通っていれば大丈夫ですよね?」

ペクトの表情が明るくなる。

「それなら食べられます」

美月は厨房を見る。

「和代さん、さんが焼きできます?」

和代は少し考えた。

「材料は同じだからできるよ。ちょっと待ってもらうけどね」

「お願いします」

宗村が美月を見る。

「ナイス」

「せっかく楽しみに来たのに、何も食べられないのは可哀想じゃないですか」

ペクトが美月へ頭を下げた。

「ありがとうございます」

美月は笑って首を横に振った。

「いえいえ」

少し照れながら、美月は自分の席へ戻った。

しばらくして、湯気を立てたさんが焼き定食が運ばれてきた。

味噌と薬味を合わせて叩いた魚を香ばしく焼き上げた表面には、うっすらと焼き色がついている。

箸を入れると、中から柔らかな身が現れた。

炊きたての白いご飯。

味噌汁。

小鉢。

ペクトは慎重に一口取った。

口へ運ぶ。

噛む。

動きが止まった。

宗村が心配そうに見る。

「今度はどう?」

ペクトはもう一口食べた。

今度はご飯も一緒だった。

そして大きく頷く。

「来てよかった」

ラスタスが笑う。

宗村も笑った。

「エンジンの話?」

ペクトはさんが焼きを指した。

「両方です」

美月が離れた席から笑った。

ペクトは美月へ向かって親指を立てる。

美月も同じように返した。

柴崎が横で言う。

「仕事でもそれくらい気が利くと助かるな」

「余計な一言ですよ」

「明日も頼むぞ」

「はいはい」

美月は笑いながらご飯を食べ続けた。

*

午後。

再び作業が始まった。

始動ログを確認する。

車体側を点検する。

ペクトと神谷たちは、気になった数値を1つずつ潰していく。

食堂では笑っていたペクトも、モニターの前では完全にエンジニアの顔へ戻っていた。

MR-01はまだ1メートルも走っていない。

HELIOS V10も、本来の力を出したわけではない。

それでも今日、初めて自らの音を響かせた。

澄んだ高音。

その下を支える厚みのある中音。

やがて世界各地のサーキットで、MUNE RACINGを知らせることになる音。

だが今はまだ、市原ファクトリーの壁に響いただけだった。

MR-01がその音を連れて走り出す日は、少しずつ近づいていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。