Chapter 23 心臓と足元
市原ファクトリーのエンジン・ギアボックス作業エリアに、HELIOS V10が置かれていた。
MR-01に搭載されるエンジン。
中村信治は少し離れた場所から、その姿を眺めていた。
国内トップフォーミュラでも当然、エンジンを間近で見る機会はあった。
それでも、自分がこれから世界最高峰で使うものだと思うと、見え方が違う。
「気になります?」
横から声がした。
振り返ると、小柄な女性が工具を手に立っていた。
何度か製作エリアで顔を合わせている。
「篠崎さん、でしたよね」
「篠崎美月です」
「中村信治です」
「知ってます」
美月が笑った。
「ドライバーですもん」
「ですよね」
信治も笑う。
美月はHELIOS V10の横へ移動し、確認していた箇所へ視線を戻した。
信治も少し近づく。
「思ったよりコンパクトですね」
「それ、エンジン担当の人の前で言ったら説明長くなるかもしれませんよ」
「悪口じゃないですよ」
「分かってます」
美月は工具を置いた。
「でも、これを載せれば終わりじゃないですから」
「冷却とか?」
「それもあります。配管も配線もありますし、周りの部品もあります。載せたあとに私たちが触れないと困りますし」
信治はエンジンと、その周囲に配置される部品の位置を見比べた。
「整備性か」
「はい。速くても、壊れた時に直せないんじゃ困りますから」
「呼びました?」
背後から日本語で声をかけられ、2人が振り返る。
ノートPCを抱えたペクト・ルーザが立っていた。HELIOSからMUNEを担当するエンジニアだ。
「説明が長くなる人です」
美月が言うと、ペクトは困ったように笑った。
「まだ何も説明していませんよ」
信治はHELIOS V10へ視線を戻した。
「ちょうど聞きたかったんです。IGPのエンジンって、全部V10じゃないんですよね?」
「ええ。規定は3.0Lの自然吸気で、V8、V10、V12が認められています。最大回転数は18,000rpmです。ただ、気筒数だけで性格が決まるわけではありません。メーカーの設計思想と、ワークスかカスタマーかでも違います」
ペクトは作業台の上にあるHELIOS V10を見た。
「MUNEが契約したのは、HELIOS V10のカスタマー仕様です。開幕はSPEC1を使います。ワークスのFalconとは違い、いつでも最新仕様を先に使える立場ではありませんが、滑らかなレスポンスと扱いやすさがあり、低速から高速まで大きな穴を作りにくい。燃費と信頼性も含めた万能型です」
「最高速だけなら、もっと強いエンジンもあるんですか?」
「あります。ORIONのV12は最大出力と高速域の伸びが武器です。AEGISのV8は軽さと鋭いレスポンスを生かし、立ち上がりで強さを出す。HELIOSはどちらか1つへ極端に寄せず、様々なコースと長い決勝をまとめやすい。初めて18戦を戦うMUNEにとって、その扱いやすさは大きな意味があります」
信治は、外側からでは分からない違いが詰まった金属の塊を見つめた。
「音も違うんですか?」
「かなり違いますよ。ORIONのV12は重い咆哮が遠くまで伸び、AEGISのV8は回転が上がるほど甲高い金属音が鋭くなる。HELIOSのV10は澄んだ高音に厚みのある中音が重なります。走り始めれば、数字より先に耳で分かるかもしれません」
まだ静かなHELIOS V10から、信治はサーキットに響く音を想像した。
ペクトが続ける。
「契約にはHELIOS指定メーカーのトランスミッションを使う条件もあります。MUNEの判断だけで別メーカーへ変更はできません。それと、Season 1で使えるエンジンはドライバー1人につき全18戦で18基。各GPでは新しい1基を登録し、原則としてFPから決勝まで使います。同じGPで追加の新規エンジンを入れれば、1基につき決勝グリッドが5つ下がります」
「交換すれば終わり、じゃないんですね」
「はい。だから、壊さないことも、異常があれば確実に手を入れられることも重要です」
美月が小さく頷いた。
「さっき私が言ったのは、そういうことです」
美月の言葉が、今度は違う重さで信治に届いた。
「柴崎さんが好きそうな話だ」
「毎日言われてます」
美月が少し嫌そうな顔をしたところへ、ちょうど柴崎哲也が現れた。
「何を?」
「何でもないです」
「そうか」
柴崎は作業台を見る。
「確認終わった?」
「終わりました」
「もう1回」
美月が振り返る。
「やっぱり言うと思った」
「何か問題あるか?」
「ありません」
美月は工具を取り直した。
信治が笑う。
「本当に毎日なんだ」
「確認不足で止まるのが1番くだらないですからね」
柴崎はそれだけ言って別の作業へ向かった。
美月は小さく息を吐いた。
「厳しいですね」
「厳しいです。でも間違ってないので、余計に言い返せないんですよ」
そう言いながら、美月の手は止まっていなかった。
信治はその様子を眺めた。
「篠崎さんって、前からMUNEに?」
「いえ。元々は上総工科大の学生です」
「学生?」
「産学連携でここに来てたんです。それでMR-00の作業を見てた時に、整備しにくそうなところがあって」
「それを指摘した?」
「はい。そしたら柴崎さんに拾われました」
「拾われたって」
「だいたいそんな感じです」
美月が笑う。
少し離れた場所から柴崎の声が飛んできた。
「聞こえてるぞ」
「推薦していただきました」
「よろしい」
信治は吹き出した。
美月も笑いながら作業を続ける。
「だから私も、IGPは初めてなんです」
「じゃあ同じですね」
「立場は全然違いますけど」
「でも1年目でしょ?」
美月は少し考えてから頷いた。
「そうですね」
世界最高峰への挑戦。
ドライバーだけが初めてなのではない。
MUNE RACINGそのものが、新しい世界へ足を踏み入れようとしていた。
*
午後。
製作エリアには、MR-01で使用するTERRANOVA COMPETITION TYRESが用意されていた。
信治が1本のタイヤを眺めていると、美月が横を通った。
「今度はタイヤですか?」
「気になるものが多いんですよ」
「それはいいことじゃないですか」
信治はタイヤへ視線を戻した。
「国内で使ってたものとは当然違うしな」
「私もまだ勉強中です」
「そこは説明してくれないんだ」
「分からないことを知ってるふりしたら、柴崎さんに怒られます」
「それは間違いない」
2人で笑った。
そこへ藤原蒼真がやって来た。
信治が振り返る。
「藤原さん」
「タイヤ?」
「はい。IGPだと、どれくらい違うのかなって」
藤原はTERRANOVAのタイヤを見た。
「走れば分かるよ」
「それだけですか?」
「今ここで俺が説明しても、信治が実際に感じるものと同じとは限らないから」
信治は少し考えた。
少し前に藤原と話したことと似ている。
藤原の感じ方を、そのまま自分の答えにする必要はない。
「自分で感じろってことですね」
「その方がいい」
美月がタイヤを見ながら言う。
「でも、結局この4本しか地面に触れてないんですよね」
信治と藤原が美月を見る。
「エンジンがどれだけ回っても、空力がどれだけ良くても、最後はここから路面に伝えるんだなって。最近、作業しながら思うんです」
信治はタイヤへ目を戻した。
「確かに」
知識としては分かっている。
タイヤが重要ではないレースなどない。
だが、MR-01の部品が1つずつ形になっていく今、その意味が妙に実感を伴った。
HELIOS V10が生み出す力。
神谷たちが作るシャシー。
榊原が詰めている空力。
そして最後に、そのすべてを路面へ伝えるタイヤ。
どれか1つだけ優れていても、車は速くならない。
夕方。
美月はMR-01の作業エリアで部品を確認していた。
1度確認した。
それでも、もう1度見る。
柴崎に言われたからではない。
自分が納得したかった。
「美月」
柴崎が呼ぶ。
「はい」
「終わった?」
「終わりました。2回確認しました」
「ならいい」
美月が少し得意そうな顔をする。
柴崎はそのまま通り過ぎようとして、足を止めた。
「明日、別のところも頼むぞ」
「はい」
それだけだった。
だが、美月には十分だった。
学生としてこのファクトリーへ来た頃は、知らないことばかりだった。
今だって知らないことは多い。
IGPの現場経験もない。
世界を転戦したこともない。
それでも、自分の手でMR-01を作っている。
少し離れた場所では、信治がその姿を見ていた。
隣に藤原が立つ。
「MUNEって、IGP初めての人、多いですね」
信治が言った。
藤原は製作エリアを見渡した。
「だから経験ある人も呼んだんでしょ」
「ラスタスさんとか」
「そう。でも最後に作るのはMUNEだからね」
信治はHELIOS V10が置かれた作業エリアを見る。
その先にはTERRANOVAのタイヤ。
そして中央では、MR-01が少しずつ形を作り始めている。
心臓だけでは走れない。
足元だけでも走れない。
それらを1台の車としてまとめ、走らせる人間が必要になる。
美月が柴崎に呼ばれ、工具を持って小走りで向かっていった。
信治はその背中を見送りながら笑った。
「俺も負けてられないな」
藤原が横を見る。
「誰に?」
「みんなにです」
藤原は少し笑った。
MR-01を作っているのは、設計図でもエンジンでもタイヤでもない。
そのすべてに向き合う人間たちだった。




