Chapter 22 二つの基準
市原ファクトリーの製作エリアに、2つのシートが並んでいた。
どちらもMR-01用。
同じ形に見えるが、細部は違う。
藤原蒼真が片方へ身体を収め、ステアリングを握った。
柴崎哲也が横から覗き込む。
「どう?」
藤原はペダルを踏み、何度かステアリングを切った。
「もう少し背中を起こせます?」
「どのくらい?」
「少しでいいです。今だと肩が沈みすぎる感じがする」
柴崎が位置を確認する。
「美月」
「はい」
篠崎美月が数値を書き留めた。
その隣では、中村信治がもう1つのシートに座っている。
信治もペダルを踏み込み、膝の角度を確かめていた。
「俺は今くらいで大丈夫です」
柴崎が2人を見比べる。
「同じ身長だったら楽なんだけどな」
「そこは俺たちに言われても」
信治が笑う。
藤原も小さく笑った。
体格が違えば、シートもペダル位置も変わる。
それ自体は珍しいことではない。
問題は、その先だった。
信治がブレーキペダルを何度か踏む。
「柴崎さん、これって踏み始めの位置、もう少し手前にできます?」
「できるけど、理由は?」
「今の位置だと、強く踏んだ時に奥で合わせる感じになりそうなんです。もう少し早いところから踏力を掛けたいです」
柴崎が頷いた。
「藤原は?」
藤原は自分の足元を確認する。
「俺は今の方がいいですね。こっちの方が細かく合わせやすそうだから」
信治が藤原を見る。
「違いますね」
「違うね」
「どっちに合わせます?」
藤原は信治へ顔を向けた。
「何で合わせるの?」
「え?」
「信治は信治でいいでしょ」
信治は一瞬黙り、それから笑った。
「そうか。そうですよね」
「俺の車に乗るわけじゃないし」
柴崎が2人のやり取りを聞きながら、足元を覗き込んだ。
「調整幅を確認するか」
美月が資料を開く。
「今の構造なら、2人とも範囲には入ります」
「なら問題なし」
柴崎は立ち上がった。
「2人いるんだから、2人が乗れるように作る。それだけだ」
少し離れたところで、神谷英治がその様子を見ていた。
榊原直哉が隣に立つ。
「要求、結構違いますね」
「当たり前だ」
「設計する側としては同じ方が楽なんですけど」
「だったらドライバーをコピーしてこい」
「無茶言いますね」
神谷は2つのシートへ視線を戻した。
「違うからデータが取れるんだよ」
榊原が神谷を見る。
「2人の要求を全部入れるんですか?」
「入れない」
即答だった。
「必要な調整幅は持たせる。でも1人の好みのために基本設計を崩す気はない」
「ですよね」
MR-01は藤原専用車でも、信治専用車でもない。
2人がそれぞれのやり方で走り、セットアップを作り、そこからチームが答えを探していくための車だった。
午後。
信治は設計室で、結城遼と向かい合っていた。
結城は信治担当のレースエンジニアとしてMUNEへ加わっている。
国内トップフォーミュラでは同じカテゴリーにいた。
だが別のチームだった。
実際に一緒に仕事をするのは、MUNEが初めてになる。
結城が午前中の記録を見ながら聞いた。
「中村さん、ブレーキのところ、もう少し聞いていいですか?」
「もちろん」
「『早いところから踏力を掛けたい』っていうのは、ペダルの位置だけの話ですか? それとも踏み始めの感触も含んでます?」
信治は少し考えた。
「……両方かもしれないです」
「もう少し具体的にできます?」
信治が椅子にもたれる。
「難しいな」
「ですよね」
結城は急かさなかった。
信治は足を動かしながら、感覚を思い出す。
「ブレーキを踏みにいった時に、1回待つ感じにしたくないんです。踏んだ瞬間から車を止めにいける感じが欲しい」
結城がメモを取る。
「それなら、ペダル位置だけ変えて終わりにはしない方がよさそうですね」
「伝わりました?」
「たぶん。でも実車で確認しないと分からないです」
信治が笑った。
「そこは言い切らないんですね」
「走ってないですから」
「確かに」
結城も少し笑った。
信治は、目の前のエンジニアを改めて見た。
年齢は近い。
藤原のようなIGP経験者でもなければ、ラスタスのようなベテランでもない。
それでも、自分の言葉を途中で決めつけず、何を意味しているのか確かめようとしている。
「結城さん」
「はい」
「俺、説明下手だったら言ってください」
「じゃあ俺も、聞き方が分かりづらかったら言ってください」
「それでいきましょう」
2人はまだ、お互いの言葉の癖さえ知らない。
だから、1つずつ合わせていくしかなかった。
その日の夕方。
藤原と信治の確認結果が、神谷のところへ集められた。
藤原は操作の細かさを重視する。
信治はブレーキ操作へ入った瞬間の感覚を強く気にしている。
ただし、それはまだ止まった車での確認にすぎない。
神谷は資料を見ながら言った。
「ここで決めつけるなよ」
榊原が頷く。
「実走してからですね」
「そう。今分かってるのは、2人の好みが違うってことだけだ」
ラスタスが資料を覗き込んだ。
「それだけでも十分ですよ」
「だな」
神谷は2人分の記録を並べた。
同じ車に乗る。
同じタイヤを使う。
同じエンジンで戦う。
それでも、2人が同じ感覚を持つ必要はない。
むしろ同じでは困る。
片方だけでは見えないものが、もう片方から見えることもある。
そこへデータを重ねれば、車そのものの性格が少しずつ見えてくる。
製作エリアへ戻ると、藤原と信治が並んでMR-01の部品を眺めていた。
信治が言う。
「藤原さん」
「ん?」
「俺、結構違うこと言うかもしれません」
藤原は信治を見る。
「いいんじゃない?」
「藤原さんと反対でも?」
「それが自分で感じたことならね」
信治は少し笑った。
「じゃあ遠慮なく」
「どうぞ」
そこへ神谷が通りかかった。
「ただし」
2人が振り返る。
「違うこと言うのは構わん。でも、どっちが正しいかで喧嘩するなよ」
信治が笑う。
「しませんよ」
藤原も頷く。
「たぶん」
「たぶんって何だ」
神谷が呆れる。
少し離れたところで柴崎が笑っていた。
神谷は2人のシートへ目を向けた。
藤原蒼真と中村信治。
経験も違う。
走らせ方も、おそらく違う。
これからMR-01を実際に走らせれば、その差はもっとはっきりするだろう。
だが神谷にとって、それは問題ではなかった。
2人が違うからこそ、1台の車を2つの方向から見ることができる。
「2人とも違う」
神谷が呟く。
柴崎が聞いた。
「困ります?」
神谷は首を横に振った。
「だからいいんだよ」
2つの基準が、MR-01の中に生まれ始めていた。




