Chapter 21 二人のドライバー
市原ファクトリーの製作エリアでは、MR-01の部品が少しずつ増えていた。
まだ1台のレーシングカーには見えない。
それでも数日前まで図面の中にしかなかったものが、確実に形を持ち始めている。
中村信治は、その一角に置かれたコックピット周辺のモックアップへ身体を収めていた。
「もう少しペダル遠くできます?」
柴崎哲也が足元を確認する。
「どれくらい?」
「ほんの少しです。今だとブレーキを奥まで踏んだ時に膝が窮屈で」
「美月、記録」
「はい」
篠崎美月が数字を書き留める。
信治はステアリングを握り、左右へ切った。
前回気になった腕の位置は改善されている。
「こっちは大丈夫そうです」
「なら次、シフト操作」
「はい」
信治が右手を動かした、その時だった。
製作エリアの入口から声がした。
「おはようございます」
聞き覚えのない声に、信治が顔を上げる。
藤原蒼真が立っていた。
信治は一瞬、動きを止めた。
顔は知っている。
当然だった。
IGPを走った日本人ドライバーであり、これから同じチームで戦うもう1人のレギュラードライバーだ。
だが、直接会うのは初めてだった。
宗村宗一が藤原の後ろから現れた。
「そういえば」
柴崎が嫌な予感でもしたような顔をする。
宗村は信治と藤原を交互に見た。
「2人、ちゃんと会うの初めてだよね」
「宗村さん」
柴崎が呆れる。
「何?」
「何じゃないでしょう」
「いや、契約した時期も違うし、来るタイミングもずれてたから」
藤原が小さく笑った。
信治は慌ててモックアップから出ようとした。
「すみません、ちょっと待ってください」
「そのままでいいよ」
藤原が近づいてくる。
「藤原蒼真です。よろしく」
信治は座ったまま頭を下げた。
「中村信治です。よろしくお願いします」
それだけだった。
もっと何かあるのかと思っていた。
IGP経験者とルーキー。
MUNE RACINGが世界へ送り出す2人のドライバーの初対面。
けれど握手も、大げさな言葉もなかった。
宗村が2人を見て言う。
「はい。これで顔合わせ終了」
柴崎が笑った。
「軽いなあ」
「同じチームなんだから、そのうち嫌でも毎日顔合わせるでしょ」
「それもそうですね」
信治も思わず笑った。
緊張が少し抜けた。
藤原はモックアップの横へ立った。
「合わせてた?」
「はい。ペダルとステアリング周りを」
「どう?」
信治は少し迷った。
「思ってたより細かく合わせるんですね」
「長く乗るからね」
藤原はそれ以上説明せず、コックピットを覗き込んだ。
「何か気になった?」
「1つあったんですけど、直してもらいました」
「どこ?」
信治はステアリングを切る。
「最初は腕がここに近かったんです。今は大丈夫です」
藤原が同じ場所を見る。
「なるほど」
それだけ言って離れた。
信治は少し拍子抜けした。
もっと何か指摘されると思っていた。
藤原はすでにMR-00を走らせ、MR-01の設計にもフィードバックを入れている。
自分より、この車の成り立ちをずっと知っている。
信治は思い切って聞いた。
「藤原さん」
「ん?」
「こういう時って、どこまで言っていいんですか?」
藤原が振り返る。
「どういう意味?」
「まだ走ってないじゃないですか。俺もIGPの車は初めてだし、自分が気になるからって設計を変えてもらっていいのかなって」
藤原は少し考えた。
「気になるなら言えばいいよ」
「でも、それが正しいか分からないですよね」
「正しいか決めるのは神谷さんたちだから」
信治が黙る。
藤原はモックアップを指した。
「俺たちは乗る側だから、感じたことは言わないと分からない。ただ、気に入らないから変えてくれじゃなくて、何が気になるのかは説明した方がいい」
「何が気になるのか……」
「さっきの腕なら、近いから嫌じゃなくて、操作した時に当たりそうだから気になる。それなら柴崎さんたちも考えられる」
信治は頷いた。
答えを教えられたという感じではなかった。
考え方だけ渡された。
「なるほど」
「まあ、俺も全部分かってるわけじゃないけどね」
信治は藤原を見る。
「藤原さんでも?」
「新車だよ?」
藤原がMR-01の部品へ目を向ける。
「俺もこの車は走ったことない」
その一言で、信治の中にあったものが少し変わった。
藤原はIGP経験者。
自分はルーキー。
その差ばかりを意識していた。
だがMR-01という車に限れば、まだ誰も走らせていない。
昼。
食堂へ入ると、藤原が先に席についていた。
信治はトレーを持ったまま少し迷ったが、その向かいへ座った。
「ここ、いいですか?」
「どうぞ」
今日の定食を見た藤原が言う。
「大盛り?」
信治は自分の茶碗を見る。
「千夏ちゃんに聞かれて、つい」
「ついでそれ?」
「食べられますよ」
藤原が笑った。
初対面の時より、少し話しやすくなっていた。
信治は箸を動かしながら聞いた。
「藤原さん、MR-00って実際どうだったんです?」
「面白かったよ」
「面白かった?」
「いろんな意味で」
信治が笑う。
「それ、絶対いい意味だけじゃないですよね」
「だからMR-01があるんだよ」
藤原はそれ以上、MR-00の欠点を並べなかった。
信治も聞かなかった。
自分が乗るのはMR-01だ。
食事を終え、2人で製作エリアへ戻る。
途中、信治が足を止めた。
「藤原さん」
「ん?」
「俺、IGPは初めてですけど、遠慮はしないですから」
藤原が信治を見る。
少し間があった。
「何に?」
「同じチームでも、ドライバー同士じゃないですか」
藤原の口元がわずかに緩む。
「その方がいいよ」
「ですよね」
「俺もするつもりないし」
信治も笑った。
先輩と後輩。
経験者とルーキー。
それは間違いではない。
けれど、コースへ出れば2人とも同じMUNE RACINGのレギュラードライバーだった。
教える者と教わる者だけでは終わらない。
いつか同じ基準で車を語り、同じ場所で競う。
その関係は、まだ始まったばかりだった。
製作エリアでは、MR-01が少しずつ形になっている。
そして、その車を走らせる2人もようやく同じ場所に立った。




