Chapter 20 図面の向こう側
市原ファクトリーの製作エリアに、金属を削る乾いた音が響いていた。
MR-01の設計が固まり、仕事の中心は少しずつ画面の中から現場へ移り始めている。
もっとも、設計が終わったから製作が始まる、というほど単純ではない。
製作へ回した部品の横で、別の部品はまだ解析が続いている。製造上の問題が見つかれば設計室へ戻され、形状が修正される。
その繰り返しだった。
柴崎哲也は、届いたばかりの部品を作業台の上へ置いた。
図面を横に並べ、ノギスを当てる。
1度測り、位置を変えてもう1度。
隣にいた篠崎美月が記録へ数字を書き込んだ。
「合ってます」
「もう1回」
美月が顔を上げる。
「今、2回測りましたよ」
「じゃあ3回目だ」
「疑ってるんですか?」
「お前じゃない。部品をだ」
美月は少し笑い、もう1度測定した。
「同じです」
「よし」
柴崎はようやく頷いた。
MR-01は、図面通りに作れば終わる車ではない。
図面通りのものが本当に出来上がっているか。
組み付けられるか。
整備できるか。
そして、壊れたときに交換できるか。
柴崎が見るのはそこだった。
神谷英治が製作エリアへ入ってきた。
「どうだ?」
柴崎は部品を指した。
「これは問題ありません。ただ、こっちはちょっと」
別の部品を持ち上げる。
神谷が眉を寄せた。
「寸法か?」
「寸法は合ってます。組む時に工具が入りにくい」
「どこ?」
柴崎が実際の位置関係を示す。
神谷は数秒見ただけで理解した。
「榊原呼んでくる」
「お願いします」
しばらくして、榊原直哉が設計室からやって来た。
手にはノートパソコンを抱えている。
「何かありました?」
柴崎が部品を示した。
「ここ。設計上は入るんだろ?」
「入ります」
「工具は?」
榊原の動きが止まった。
「……入らない?」
「入りにくい。組めないことはないけど、レース中に交換となったら面倒だ」
榊原は部品と画面を交互に見る。
「クリアランスは取ってあります」
「部品のな」
柴崎は工具を手にした。
「人間の手は?」
榊原が黙った。
神谷が横で笑う。
「出たな」
「何ですか」
「画面の中じゃ人間は整備しないからな」
榊原は少し悔しそうに部品を眺めた。
美月が口を挟む。
「ここを少し逃がせませんか? それなら工具を振れると思います」
榊原が画面上のモデルを回転させた。
「できなくはない。でも、こっちに影響するな……」
神谷が覗き込む。
「重量は?」
「ほとんど変わりません。ただ、剛性は再確認します」
「じゃあ確認してくれ。問題なければ直そう」
榊原が頷いた。
「分かりました」
柴崎は部品を作業台へ戻した。
「速い車でも、直せなきゃ困るからな」
「覚えましたよ」
「MR-00でも似たこと言ってなかったか?」
榊原は答えなかった。
美月が笑いを堪えていた。
午後。
ファクトリーの別の場所では、外部へ製作を依頼する部品の確認が行われていた。
MUNEだけですべてを作るわけではない。
市原周辺には、LMP2時代から付き合いのある加工会社がある。IGP参戦に合わせて構築された市原テクニカルパートナーズも、本格的に動き始めていた。
宗村宗一は桐生美咲と並び、発注予定の一覧を眺めていた。
「増えたねぇ」
「増やしたのは宗村さんたちでしょう」
「俺?」
「代表ですから」
「こういう時だけ代表扱いするよね」
桐生は相手にせず、資料をめくった。
「納期を優先する部品はこちらです。試作品は柴崎さんと神谷さんから順番をもらっています。外注先には無理な納期を押し付けないでください」
「分かってるよ」
「宗村さんの『ちょっとお願いがあるんだけど』は、だいたいちょっとじゃありません」
宗村は否定できなかった。
「でも、助けてもらわないとMR-01は作れないからね」
その言葉だけは真面目だった。
ファクトリーの設備はLMP2時代より増えている。
それでも、世界最高峰のフォーミュラカーを1台丸ごと自社だけで作れるわけではない。
作れるものは自分たちで作る。
外の方が優れているものは頼る。
必要なのは、何でも抱え込むことではなかった。
夕方。
設計室では、榊原が午前中に指摘された部分の修正結果を神谷へ見せていた。
「剛性への影響は許容範囲です。これなら整備スペースも取れます」
神谷が確認する。
「柴崎」
呼ばれた柴崎が画面を見る。
「これならいけます」
「よし。変更」
榊原がデータを更新した。
その横でラスタスが別の資料を見ていた。
「こういう修正は、今のうちに全部見つけたいですね」
柴崎が笑う。
「全部は無理ですよ」
「ですよね」
「組んだら、また出ます」
榊原がため息をついた。
「怖いこと言わないでくださいよ」
「出るよ」
神谷まで即答した。
「新車なんだから当たり前だ。設計して、作って、組んで、それで初めて分かることもある」
榊原は椅子にもたれた。
「MR-00が終わったら、もう少し楽になると思ってました」
「なるわけないだろ」
「ですよね」
ラスタスが笑った。
少し離れた場所では、中村信治がMR-01のコックピット周辺の資料を眺めていた。
MUNEで初めて実際に乗るフォーミュラカー。
MR-00には1度も乗っていない。
だからこそ、MR-01は信治にとって特別だった。
まだ完成していない車を前に、走った時の感覚を想像するしかない。
信治は資料を眺めていたが、やがて1か所で視線を止めた。
「すみません」
近くにいた柴崎が振り返る。
「どうした?」
信治はコックピット周辺を示した。
「ここなんですけど、実際に座った時の位置って、もう確認できます?」
「まだ完成状態では無理だけど、何が気になる?」
信治は少し考えた。
「ステアリングを切った時に、腕がここへ近くなりそうな気がして」
柴崎が資料を見る。
「体格で変わるところだな」
「ですよね」
「気づいたなら言ってくれ。今なら確認できる」
信治は少し意外そうな顔をした。
「これくらいでもいいんですか?」
「完成してから言われるよりずっといい」
「なるほど」
信治はもう1度資料へ目を落とした。
まだ走っていない。
ましてIGPマシンの実戦経験もない。
それでも、自分がこれから乗る車だ。
分からないから黙っているのではなく、分からないからこそ確認する。
信治は資料を持って柴崎のあとを追った。
夜。
製作エリアの照明の下に、MR-01のために作られた部品が少しずつ増えていた。
まだレーシングカーには見えない。
金属部品。
治具。
複合材のパーツ。
番号の付いた箱。
それぞれは、ただの部品だった。
宗村は作業エリアの入口で足を止めた。
隣には神谷がいる。
「まだ車には見えないね」
「当たり前だ」
「でも、始まった感じはする」
神谷は並んだ部品を眺めた。
「図面なら何回でも直せる。でも、物になったら金も時間も掛かる」
「急に現実的になるね」
「最初から現実だよ」
宗村が笑う。
神谷は作業台の上に置かれた部品へ目を向けた。
MR-00で学んだ。
設計で考えた。
そして今、その答えが少しずつ形になり始めている。
まだMR-01ではない。
だが、その1つ1つが集まった先に、MUNE RACINGが世界へ持ち込む最初のマシンがある。
宗村が静かに言った。
「ちゃんと作ろう」
神谷は少しだけ笑った。
「そのためにやってる」
MR-01は、画面の中から現実の世界へ出始めていた。




