Chapter 18 数字と感覚
2度目のMR-00実走テスト。
千葉ウッドレイクサーキットのピットには、前回とは違う空気が流れていた。
最初の2日間は、MR-00が何をする車なのかを知るための時間だった。
今回は違う。
榊原直哉のノートパソコンには、前回の実走データを基にした解析結果が並んでいる。
CFD。
シミュレーション。
風洞で確認した空力特性。
そして藤原蒼真が実際に車を走らせて感じたこと。
それらが、本当に同じ方向を向いているのか。
その確認が、今回の目的だった。
神谷英治はMR-00の前で腕を組んだ。
「今日も1つずつだ」
榊原が頷く。
「分かってます」
「分かっててもやりたくなるんだよ。走行時間が限られてると、つい2つ、3つと変えたくなる」
「耳が痛いですね」
ラスタス・パルナーが笑った。
「若い頃、それをやって何度も迷子になりました」
神谷が横目で見る。
「今は?」
「1つずつ変えて迷子になります」
「ダメじゃねえか」
榊原が吹き出した。
少し離れたところで聞いていた宗村も笑っている。
「いいチームになってきたねぇ」
神谷は振り返らなかった。
「笑ってないで邪魔するなよ」
「まだ何もしてないよ」
「これからするだろ」
「信用ないなぁ」
「あるから言ってる」
宗村は首を傾げた。
褒められたのかどうか、よく分からなかった。
最初に確認するのは、姿勢変化に対する空力特性だった。
前回、藤原はブレーキングからターンイン、そして加速へ移る過程で、車の反応が綺麗につながらないと指摘していた。
榊原はそれを実走データと照合し、CFDと風洞で再検討していた。
だが計算上の車と、実際のMR-00は完全には一致していない。
藤原がコックピットへ収まる。
神谷が覗き込んだ。
「最初は基準状態。前回最後と同じだ。そのあと1項目だけ変える」
「了解です」
藤原はステアリングを握ったまま榊原を見る。
「何を見る?」
「高速コーナーへ入る時の姿勢変化です。前回、姿勢が変わった時に空力が少し不安定だと言っていましたよね」
「言った」
「そこが計算と合ってません。今日はそれを確かめたいです」
藤原が頷く。
「分かった」
MR-00のエンジンが始動する。
しばらくして車はピットを離れた。
数周後。
〈やっぱりある。ブレーキを残しながら入ると、途中で一度フロントの感触が薄くなる〉
榊原は画面を見つめた。
数値が流れていく。
「出てる……」
ラスタスが隣から画面を覗く。
「どこです?」
榊原が画面の一部を示した。
「ここ。車高変化が想定より大きいです。その瞬間に空力バランスも動いてる」
神谷が聞く。
「CFDでは?」
「ここまで動いてません」
「風洞は?」
「同じです」
神谷は画面を見たあと、コースへ視線を戻した。
「じゃあ、計算側の前提が実車と合っていない可能性がある」
榊原は少し黙った。
自分が担当してきた領域だった。
だが言い訳はしなかった。
「あります」
ラスタスが小さく頷く。
「それを確認するためのMR-00です」
榊原はもう一度画面を見る。
「はい」
藤原が戻ってくる。
ヘルメットを脱ぐと、すぐに榊原が近づいた。
「藤原さん。1か所だけ変えます。同じところを見てもらえますか?」
「いいよ」
「速く走ろうとしなくて大丈夫です。さっきと同じように走ってください」
藤原が少し笑った。
「そっちの方が難しいんだけどな」
変更作業が始まった。
一度に触るのは1つだけ。
それ以外は変えない。
やがてMR-00が再びコースへ出る。
榊原はモニターから目を離さなかった。
MR-00が高速コーナーへ入る。
「来るぞ」
神谷が呟く。
数値が変化した。
榊原が身を乗り出す。
「違う」
ラスタスも気づいた。
「さっきより小さいですね」
無線が入る。
〈今のはいい。さっきあった抜ける感じがかなり減ってる〉
榊原は思わず椅子にもたれた。
だが神谷は喜ばない。
「まだだ」
榊原が振り返る。
「はい?」
「1周だけで決めるな」
榊原はすぐに画面へ向き直った。
「藤原さん、同じ走り方でもう数周お願いします」
〈了解〉
MR-00は走り続ける。
1周。
2周。
3周。
藤原のコメントとデータは、ほぼ同じ傾向を示していた。
ピットへ戻った藤原が車を降りる。
榊原が尋ねた。
「かなり変わりましたよね?」
「変わった。ただ、別のところが気になるようになった」
藤原はMR-00を振り返った。
榊原の表情が止まる。
神谷は笑った。
「ほら来た」
「嬉しそうですね」
「当たり前だ。次に見るものが出た」
藤原も笑う。
「前が落ち着いた分、今度はリアの動きが分かりやすい。今まで前の違和感に隠れてたんだと思う」
ラスタスが頷く。
「1つ直すと、次が見える」
「ですね」
榊原はノートへ書き込んだ。
宗村が横から覗く。
「終わらないねぇ」
神谷が答える。
「レーシングカーなんてそんなもんだ」
「いつ完成するの?」
「完成したと思ったら負けだよ」
宗村が笑った。
「それ、怖いなぁ」
「だから金掛かるんだ」
今度は宗村の笑顔が消えた。
「もっと怖い話になった」
ラスタスが肩を揺らして笑った。
午後。
確認作業は続いた。
設定を1つ変える。
藤原が走る。
感覚を言葉にする。
榊原がデータと比較する。
ラスタスがIGPでの経験から意見を出す。
最後に神谷が判断する。
何度か、藤原の感覚とデータがきれいに一致した。
逆に一致しないこともあった。
そのたびに榊原は立ち止まった。
以前なら、数字の方を先に信じていたかもしれない。
だが今は違う。
「藤原さんが感じてるのに、こっちに出てないなら……取れてないだけかもしれない」
神谷が頷く。
「そういうことだ」
「センサーを追加しますか?」
「今日はやらない。MR-01の方で、最初から取れるようにする」
榊原はメモを残した。
MR-00を完成させるためではない。
すでに設計が進んでいるMR-01へ持ち帰るための記録だった。
MR-01の基本設計は、MR-00の完成を待って始めたものではない。
神谷たちはMR-00の製作と並行して、本番車の設計を進めていた。
MR-00で確認できたものは反映する。
想定と違ったものは見直す。
問題のなかった部分まで、理由もなく変えたりはしない。
MR-00は本番車の前に作った練習用の1台ではなかった。
MR-01を正しく作るために、設計と実走の間をつなぐ車だった。
最後の走行が終わった。
MR-00がピットへ戻される。
エンジンが止まると、榊原たちはすぐに最後のデータ確認を始めた。
宗村は少し離れた場所から車を眺めていた。
藤原が隣へ来る。
「終わりましたね」
「うん」
「寂しいですか?」
宗村は少し考えた。
「ちょっとね」
MR-00が再び実走テストを行う予定はない。
予算上、許された実走は2回まで。
その役目を終えた。
「でも、いい仕事したよね」
藤原が頷く。
「十分だと思います」
宗村はMR-00を見つめた。
速い車ではなかった。
完璧な車でもない。
むしろ問題ばかり見つかった。
だが、その問題を見つけるたびに、ファクトリーではMR-01の設計が修正されてきた。
もしMR-00を作らず、計算とシミュレーションだけを信じていたら。
このテストで初めて分かったことのいくつかは、MR-01が完成してから気づくことになっていたかもしれない。
神谷が二人のところへ来た。
「帰るぞ」
宗村が振り返る。
「MR-00は?」
「当然持って帰る」
「いや、そうじゃなくて。このあと」
神谷は車を見る。
「残すよ」
宗村の表情が少し変わる。
「売らない?」
「売っていくらになるんだよ。それより、こいつは残しておく意味がある」
藤原が小さく笑った。
「MUNEが最初に作ったフォーミュラカーですからね」
神谷は頷く。
「それに、まだ研究には使える。走らなくても学べることはある」
宗村はもう一度MR-00を見る。
分からないことを知るために作った車。
数字と現実の違いを教えた車。
そして、本番車へつながる材料を残した車。
「じゃあ帰ろうか」
宗村が言った。
「MR-01が待ってる」
神谷が歩き出す。
「ああ。戻ったら忙しくなるぞ」
榊原が振り返った。
「今回のデータ、結構ありますからね」
「だからだよ」
神谷は足を止めずに答えた。
「全部入れりゃいいってもんじゃない。残すものと変えるものを決める」
MR-00から得た数字。
藤原の感覚。
一致したもの。
一致しなかったもの。
すべてを持ち帰る。
その先で待っているMR-01は、まだ何もないところから生まれる車ではなかった。
基本設計はすでに進んでいる。
MR-00が走るより前から、神谷たちは本番車の設計を並行して進めてきた。
そして実走で新しいことが分かるたび、その結果も少しずつMR-01へ反映されている。
だから、これから始めるのではない。
2度の実走で得た最後の材料を加え、これまで積み上げてきた設計を固めていく。
次にMUNE RACINGが完成させるのは、技術を学ぶための車ではない。
世界最高峰へ持ち込むための1台。
MR-01。
MUNE RACINGは、その設計を確定させる段階へ入ろうとしていた。




