Chapter 16 最初の一周
千葉ウッドレイクサーキット。
MUNE RACINGがMR-00の初実走に選んだ場所だった。
今回のテストは2日間。
報道陣には一切公開されていない。
見学者もいない。
MUNEにとって初めてのフォーミュラカー実走だったが、それを大々的に宣伝するつもりはなかった。
まず走らせる。
問題を見つける。
外へ見せるのは、そのあとでいい。
早朝のピットにはMR-00が静かに収まっていた。
見た目だけなら、もうレーシングカーとして十分に形になっている。
だが神谷英治に言わせれば、走れそうな車と、走らせていい車は別物だった。
「もう一回いくぞ」
神谷の声に、柴崎哲也がチェックシートへ目を落とした。
「燃料系、確認済み。冷却系、漏れなし。ブレーキ配管、異常なし。電装も問題ありません」
「油圧は?」
「保持してます」
神谷は頷いた。
少し離れた場所では、榊原直哉がノートパソコンを開いている。
画面にはMR-00から取得するデータ項目が並んでいた。
隣にいるラスタス・パルナーが、その一部を指さす。
「これも取れますか?」
「取れます。ただ、最初から全部細かくすると、見る方が追いつかなくなります」
「なら今はこのままで。最初は車が何をしているのか、大きなところから見ましょう」
榊原が頷いた。
神谷は二人の会話を聞きながらMR-00のフロントへ回る。
「今日の目的、確認するぞ」
ラスタスが答える。
「シェイクダウンと基本的な問題抽出。速さを見る日ではありません」
「そういうことだ」
神谷は車体へ目を向けた。
「走る、止まる、曲がる。まずそこからだ」
誰も異論はなかった。
宗村が桐生とともにピットへ入ってくる。
「静かだねぇ」
神谷が振り返る。
「シークレットテストなんだから当たり前だろ」
「いや、もうちょっとこう、初めて走るぞって感じがあるのかと思って」
「壊れず帰ってきてから喜べ」
「神谷さんらしい」
「宗村さんが呑気すぎるんだ」
桐生が横で小さく息を吐いた。
「宗村さんは何かあってから騒ぐタイプですから」
「美咲さん、それ褒めてないよね?」
「もちろんです」
榊原が思わず笑った。
藤原蒼真がレーシングスーツ姿で現れた。
旧所属先との契約上の制約は、すでに解消されている。
今日から正式に、MUNEの仕事としてMR-00を走らせることができる。
藤原はしばらく車を眺めたあと、ゆっくりとコックピットへ身体を収めた。
少しして動きが止まる。
神谷が近づく。
「どうした?」
「狭いですね」
「最初がそれかよ」
「大事ですよ。右膝が少し当たります。それと、この位置だと前が思ったより見づらいです」
神谷の表情が変わった。
すぐに柴崎へ目を向ける。
柴崎はすでにメモを取っていた。
エンジンすら掛けていない。
それでも問題は1つ見つかった。
藤原がステアリングを握り、スイッチ類を確認する。
「操作系も走ってから見ます。今は触れますけど、グローブをして走行中だと少し気になるかもしれません」
「分かった」
神谷はそれ以上聞かなかった。
今日の目的は藤原から全部の答えをその場でもらうことではない。
MR-00が実際に走った時、何が起きるのかを見ることだった。
やがて柴崎が確認を終える。
「準備できました」
神谷が藤原を見る。
「最初は確認だけでいい。無理するな」
「分かってます」
藤原がヘルメットを被る。
エンジン始動の合図が出た。
次の瞬間、MR-00のエンジンが目を覚ました。
乾いた音が、静かな千葉ウッドレイクサーキットのピットに響く。
宗村は黙ってその光景を見ていた。
レーシングエンジンの音なら、これまで何度も聞いてきた。
それでも今日は違った。
MUNEが初めて作ったフォーミュラカーが、初めて自分の力でコースへ向かおうとしている。
MR-00がゆっくりとピットを離れた。
最初の周回は慎重だった。
藤原はブレーキ、ステアリング、シフト、エンジンの反応を1つずつ確かめていく。
速さを求める走りではない。
この車が何をするのか。
どこで違和感が出るのか。
藤原は身体で探っていた。
〈ブレーキは問題ない。シフトも大丈夫。ただ、低速で向きを変えた時、フロントに対してリアが少し遅れてくる〉
神谷は無線を聞きながら榊原を見る。
榊原は画面を追っていた。
「出てます。舵を入れた直後の前後の動きに少しズレがあります」
ラスタスが画面を覗く。
「今はそのまま走ってもらいましょう。まだ触らない方がいい」
神谷も頷いた。
〈藤原、そのままでいい。何周か続けてくれ〉
〈了解〉
MR-00は走り続けた。
周回を重ねるにつれて、藤原の速度が少しずつ上がる。
それでも限界を探る走りではない。
やがてMR-00がピットへ戻ってきた。
エンジンが止まる。
藤原がヘルメットを脱ぐより先に神谷が近づく。
「どうだ?」
藤原は少し考えてから答えた。
「思ってたより、ちゃんとフォーミュラカーですよ」
神谷が眉をひそめる。
「褒めてるのか?」
「褒めてます。ただ、重いです。車重だけじゃなくて、動かした時に重さを感じる。切り返しで少し待たされます」
「リアか?」
「リアだけじゃないですね。前も後ろも、一拍ずつ違う感じがあります」
榊原が尋ねる。
「高速では?」
「まだ攻めてませんけど、姿勢が変わった時に空力が少し不安定です。一定の状態なら悪くない。でもブレーキからターンイン、そこから加速へ移るところで反応がつながってない」
榊原はすぐに画面へ視線を戻した。
ラスタスが聞く。
「タイヤは?」
「まだ使えてません。温まってないという意味じゃなくて、この車がタイヤをちゃんと働かせるところまで持っていけてない感じです」
神谷は腕を組む。
問題が増えていく。
それでも、表情はどこか満足そうだった。
宗村がそれに気づく。
「神谷さん、楽しそうだね」
「問題を見つけに来たんだ。出なかったら困る」
「そうだけどさ」
藤原がコックピットから降りる。
「あと、着座位置は変えたいです。視界ももう少し欲しい。操作系も走りながらだと触りづらいところがあります」
柴崎がメモを取りながら言う。
「結構出ますね」
藤原はMR-00を見る。
「まだありますよ」
神谷が即座に返す。
「全部言え」
「今日直すんですか?」
「いや。今日は知る日だ」
藤原が小さく頷いた。
*
午後。
MR-00は再びコースへ出た。
午前中に見つかった問題を、その場ですべて直すことはしない。
確認に必要な最低限の調整だけを行い、基本状態は残した。
一度に何もかも変えれば、どの変化が何を生んだのか分からなくなる。
藤原が感じたことを無線で伝える。
榊原が数字を見る。
ラスタスが経験と照らす。
柴崎たちが車の状態を確認する。
神谷が、次に何を見るのかを決める。
宗村は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
初めてMR-00を作り始めた頃とは違う。
一人の考えで車を動かしているわけではない。
役割の違う人間たちが、1つの情報を持ち寄り始めていた。
初日の走行が終わる頃。
朝よりもチェック項目は増えていた。
宗村が紙を覗き込む。
「すごいね」
神谷が顔を上げる。
「何が」
「ダメなところ」
「嬉しそうに言うな」
「だって、これ全部MR-01で同じことやらなくて済むんでしょ?」
神谷は答えず、藤原を見る。
藤原は飲み物を口にしながらMR-00を眺めていた。
「藤原。今日の感想、最後に1つだけ言うなら?」
藤原は少し考える。
「作って正解だったと思います」
宗村が首を傾げた。
「こんなに問題出たのに?」
「だからですよ。これを作らずに、いきなりMR-01を作ってたら、今日出た問題を全部そっちでやってたでしょう。だったら、この車の価値は十分あります」
藤原はMR-00を見る。
「MR-01で同じことをやらなくて済む」
神谷は黙ったままチェックシートへ視線を落とした。
重量。
姿勢変化時の空力。
前後の応答。
タイヤ。
着座位置。
視界。
操作系。
初日だけで、いくつもの課題が見つかった。
だが、2日間のテストはまだ半分しか終わっていない。
明日は、今日見つけた問題が同じ条件で再現するかを確かめ、原因を1つずつ切り分けていく。
宗村はMR-00へ近づいた。
走行を終えた車体には、細かな汚れが付いている。
初めてコースを走った証だった。
「走ったね」
神谷が隣へ来る。
「ああ」
「世界一には、まだ遠い?」
「当たり前だろ」
宗村は笑った。
「じゃあ、最初の1歩だ」
神谷は否定しなかった。
報道陣もいない。
カメラもない。
世界の誰も、まだこの一歩を知らない。
それでも千葉ウッドレイクサーキットで、MUNE RACINGの最初のフォーミュラカーは確かに走った。
2日間の完全シークレットテスト。
その初日は、速さではなく、失敗すべき場所を見つけることから始まった。




