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IGNITION  作者: ムネディ


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Chapter 15 走らせる前に

 ファクトリーの作業エリアで、MR-00は静かにジャッキの上に載っていた。

見た目だけなら、もう走れそうだった。

だが神谷英治に言わせれば、走れそうな車と、走らせていい車は別物だった。

「もう1回」

その一言で柴崎哲也がチェックシートへ目を落とした。

「燃料系、確認済み。冷却系、漏れなし。ブレーキ配管、確認済み。電装も昨日の再チェックから異常なし」

「油圧は?」

「保持してます」

神谷は頷いた。

少し離れた場所では、榊原直哉がノートパソコンを開いている。MR-00から取得するデータ項目と解析環境の確認を続けていた。

その画面を横から覗き込んでいたラスタス・パルナーが言う。

「榊原さん。この項目も残せますか?」

「残せます。ただ、サンプリングを上げると他との兼ね合いが出ます」

「なら今はこれでいいです。最初から全部取ろうとすると、何を見たいのか分からなくなりますから」

榊原が頷いた。

「まず基準を作る、ですね」

「そういうことです」

少し前まで、ここにラスタスはいなかった。

榊原もいなかった。

それぞれ別の場所で、別の仕事をしていた人間たちが、今は1台の車を囲んでいる。

神谷はその様子を横目で見ながら、MR-00のフロントへ回った。

「ラスタス」

「はい」

「最初の走行で、どこまでやる?」

ラスタスは少し考えた。

「走る、止まる、曲がる。それを確認できれば十分でしょう。藤原に速く走ってもらう必要はありません」

「同感だ」

神谷は短く答えた。

MR-00は速さを証明するための車ではない。

MUNEがフォーミュラカーを作るために、何を知らないのかを見つける車だ。

最初の実走で欲張れば、何かが起きたとき原因が分からなくなる。

「一度に変えるのは1つだけ。問題が出ても、まとめて直そうとするな」

神谷の言葉に榊原が顔を上げた。

「データも同じ考え方ですか?」

「そう。悪いところが10個見つかったら喜べばいい。10個もMR-01へ持っていかずに済む」

ラスタスが笑った。

「それは、とても安上がりな失敗ですね」

「うちは金がないからな」

「そこは胸を張るところですか?」

「知らん。宗村さんに聞け」

ちょうどその宗村が、桐生と一緒に作業エリアへ入ってきた。

「俺の名前聞こえたけど」

「気のせいだ」

神谷はMR-00から目を離さない。

宗村は気にする様子もなく車の周囲を歩いた。

「どう?」

「走らせる準備は進んでる。ただし、まだ確認する」

「慎重だねぇ」

神谷がようやく宗村を見る。

「宗村さんが慎重じゃない分、俺がやってるんですよ」

「俺だって慎重だよ」

隣にいた桐生が何も言わず宗村を見る。

「……何、その目」

「別に」

榊原が笑いをこらえて下を向いた。

以前より人が増えた。

それだけではない。

作業の進め方が変わり始めている。

LMP2を知る神谷と柴崎。

IGPを知るラスタス。

解析を担う榊原。

それぞれが自分の知識だけを押し通すのではなく、必要なところで相手へ問いかけていた。

宗村はMR-00を見る。

「車は先に準備できちゃったか」

神谷が頷いた。

「問題はドライバーだ」

それだけで全員が誰のことか分かった。

藤原蒼真。

MUNEのドライバーではある。

だが、旧所属との契約はまだ残っている。

MUNEと契約したからといって、今日から自由に何でもできるわけではない。

その一線を越えるつもりは宗村にもなかった。

「待つしかないね」

「そういうことだ」

宗村はあっさり答えた。

桐生が予定表を確認する。

「その間にできることは全部やっておきましょう。藤原さんが参加できるようになってから、準備不足で待たせる方がもったいないです」

「美咲さん、正解」

「褒めている場合ではありません」

「はい」

返事だけは素直だった。

午後。

藤原がファクトリーを訪れた。

ただし、作業には参加しない。

MR-00にも触れない。

作業エリアの外側から、しばらく車を眺めていた。

宗村が隣に立つ。

「乗りたい?」

藤原はMR-00を見たまま答えた。

「聞きます?」

「一応」

「乗りたいですよ」

少しだけ間があった。

「目の前にあるのに乗れないのが、一番つらいですね」

宗村が笑った。

「もうちょっと我慢して」

「分かってます。ここで変なことして、あとで揉める方が面倒ですから」

藤原はそれ以上近づかなかった。

ラスタスが作業エリアから顔を上げる。

藤原と目が合った。

「まだ乗れませんね」

「見れば分かる」

「残念です」

「嬉しそうに言うなよ」

ラスタスが笑う。

以前から二人を知っているわけではない榊原は、そのやり取りを少し不思議そうに見ていた。

だがすぐに画面へ戻った。

ここでは、過去を説明するより仕事の方が早い。

夕方になっても、MR-00はエンジンを掛けなかった。

今日はその必要がない。

確認すべきものを確認し、記録すべきものを記録する。

柴崎が最後のチェックを終える。

「今日はここまででいいでしょう」

神谷も頷いた。

「明日もう一度見る」

宗村が苦笑する。

「また見るの?」

「見る」

即答だった。

「走り出してからボルト1本締め忘れてました、じゃ笑えねえんだよ」

「それはそうだ」

「だったら、こっちが終わるまで待っててくださいよ」

「はいはい」

神谷はチェックシートを柴崎へ返した。

作業エリアから人が少しずつ離れていく。

榊原は保存したデータを確認し、ラスタスは翌日の確認項目を追加していた。

宗村は少し離れた場所から、その光景を眺めた。

MR-00を作り始めた頃は、もっと少人数だった。

分からないことばかりだった。

今も分からないことは多い。

むしろ人が増えたことで、分かっていなかったことが次々と見えるようになってきた。

それでいい。

宗村はそう思った。

「宗村さん」

桐生に呼ばれて振り返る。

彼女が1枚の予定表を持っていた。

「藤原さんの契約上の制約がなくなった後、最初に確保できるテスト日程です」

宗村が受け取る。

神谷も近づいてきた。

紙に書かれた日付を見る。

誰も大げさな反応はしなかった。

それでも、空気が少し変わった。

宗村がMR-00を見る。

長い間、作るために置かれていた車。

もうすぐ、その役割が変わる。

「いよいよだね」

神谷は予定表を受け取り、もう1度日付を確認した。

「ここまでに全部終わらせる」

「終わる?」

「終わらせるんだよ」

宗村が笑う。

「じゃあ、頼んだ」

神谷は呆れたように息を吐き、作業エリアへ戻っていった。

その先にはMR-00がある。

まだ1度も、MUNEのフォーミュラカーとしてコースを走ったことのない車。

けれど今はもう、一部の人間だけで作った試作車ではなかった。

神谷が見る。

柴崎が組む。

ラスタスが経験を持ち込む。

榊原が数字にする。

そして、藤原が走らせる。

別々の場所から集まった人間たちが、ようやく1台の車を中心に動き始めていた。

MR-00の最初の仕事は、走ることではなかったのかもしれない。

MUNE RACINGを、フォーミュラチームへ変えていくこと。

その役目はもう、始まっていた。

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