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IGNITION  作者: ムネディ


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Chapter 13 答えの出ない夜

 榊原直哉は、自宅の机に資料を広げたまま動けずにいた。

市原のファクトリーを訪れてから、数日が経っている。

宗村から渡された資料には何度も目を通した。

新規参戦。

限られた予算。

IGPでの実績はない。

転職先として考えれば、わざわざ不安定な方へ飛び込むようなものだった。

今の環境を捨てる理由を数字だけで探せば、答えは簡単だった。

行かない方がいい。

それなのに、MR-00が頭から離れない。

神谷が言っていた。

数字では良くても、走らせると使えないところがある。

空力を扱ってきた榊原にとって、その言葉は珍しいものではなかった。

計算上の最大値が、そのままサーキットでの速さになるとは限らない。

車は動く。

ブレーキを踏めば前が沈み、加速すれば姿勢が変わる。縁石を使えば、理想状態からさらに外れる。

分かっている。

分かっているからこそ、MR-00に残されたデータを見てみたかった。

そして、その先に作られるMR-01を見てみたかった。

榊原は椅子にもたれた。

「……面倒なところ紹介してくれたな」

思わず声が漏れた。

高瀬教授の顔が浮かぶ。

きっと最初から、こうなることを分かっていたのだろう。

携帯電話へ手を伸ばしかけて、やめる。

まだ決めきれない。

仕事を変える。

生活も変わる。

興味だけで決めていい話ではなかった。

そう考えたところで、なぜかなめろう定食を思い出した。

榊原は眉間を押さえた。

「……なんで今、それなんだよ」

少し笑った。

あの食堂も妙だった。

技術者もスタッフも同じ場所で昼を食べ、宗村まで普通に混ざっていた。

世界最高峰へ挑むチームだというのに、変に気取ったところがない。

MR-00も同じだった。

失敗を隠していない。

分からないことを、分かったことにしていない。

未完成だからこそ、自分が入る余地がある。

そこまで考えて、榊原はもう一度携帯電話を手に取った。

*

翌日。

上総工科大学の研究室で、高瀬は榊原からの電話を受けた。

「先生、最初から分かってました?」

「何が?」

「俺が迷うことです」

「転職なんだから迷うだろうね」

「そうじゃなくて、MUNEを見たら興味を持つって」

電話の向こうで、高瀬が少し笑った。

「僕は紹介しただけだよ」

「その言い方、ずるいですよ」

「行けとは言ってないだろう?」

それは事実だった。

高瀬は一度もMUNEへの転職を勧めていない。

宗村に紹介しただけ。

榊原にも、話を聞いてみればいいと言っただけだった。

「先生ならどうします?」

「それを僕に聞くのかい?」

榊原は苦笑した。

予想通りの答えだった。

「やっぱり聞くんじゃなかった」

「君が何を捨てるのか、それでも何をやりたいのか。それを決めるのは僕じゃないよ」

高瀬の声は穏やかだった。

榊原はしばらく黙った。

「……そうですね」

通話を終えた。

答えをもらえなかった。

けれど、不思議と頭の中は整理されていた。

*

数日後。

宗村の携帯電話が鳴った。

「はい、宗村です」

「榊原です。今、大丈夫ですか?」

宗村は手元の資料を置いた。

「大丈夫ですよ」

少し間があった。

「この前の話なんですが、まだ募集してます?」

宗村が笑う。

「数日で別の人に決めるほど、うちは人材豊富じゃないですよ」

電話の向こうで榊原も笑った。

「じゃあ、改めて条件の話をさせてもらえますか。前向きに考えたいです」

宗村は一瞬だけ黙った。

それから、いつもの調子で答えた。

「もちろん。神谷さんも喜ぶと思います」

「神谷さんが?」

「この前、榊原さんが帰ったあと言ってましたよ。『あいつ、データを見せたら帰らなくなりそうだな』って」

榊原が吹き出した。

「それ、褒められてます?」

「神谷さん基準なら相当」

「本人から聞きたいですね」

「じゃあ来てください」

「分かりました」

宗村はそこで、ふと思い出した。

「そういえば榊原さん」

「はい?」

「なめろう定食なら、転職条件に入れなくても食べられますからね」

数秒、返事がなかった。

「……覚えてたんですか?」

「本人に聞かれましたからね」

「……そうでしたね」

宗村は首を傾げながら電話を切った。

正式な手続きを経て、榊原がMUNEへ加わった。

最初に神谷から渡されたのは、完成された設計案ではなかった。

MR-00で集めた大量のデータだった。

風洞。

CFD。

実走。

それぞれの数字が、きれいに一致しているわけではない。

榊原はモニターを見ながら腕を組んだ。

「結構ありますね」

神谷が隣に立つ。

「嫌になったか?」

「逆です」

榊原は画面から目を離さなかった。

「これだけズレてるなら、調べることには困らなそうです」

神谷の口元がわずかに緩んだ。

「言うと思った」

榊原が振り向く。

「1つ確認していいですか?」

「何だ?」

「空力について、俺に任せてもらえる範囲はどこまでです?」

神谷は少し考えた。

「まずは見てくれ。MR-00で何が起きてたのか、俺たちが見落としてるところも含めてな。その上でMR-01をどうするかは一緒に決める」

榊原は頷いた。

それで十分だった。

自分の専門だからといって、好き勝手に車を作るわけではない。

1台のレーシングカーには、空力以外にも無数の要求がある。

神谷が全体を見ている。

その中で、自分は風を読む。

榊原は再びモニターへ向かった。

しばらくして神谷が声をかける。

「昼、行くぞ」

「もうそんな時間ですか」

「初日から食い損ねるな」

2人は食堂へ向かった。

扉を開ける。

榊原は少しだけ期待しながらメニューを見る。

神谷がその様子に気づいた。

「何だ?」

「いや……なめろう、あるかなと思って」

神谷が呆れた顔をした。

「お前、それで転職決めたんじゃないだろうな」

「まさか」

榊原は笑った。

「最後の一押しくらいです」

奥から和代の声が飛んできた。

「榊原さん、なめろうあるよ!」

榊原が神谷を見る。

「だそうです」

「……高瀬先生、何を紹介してきたんだ」

神谷はそう言いながらも笑っていた。

MR-01は、まだ図面の中でも完成していない。

藤原も、ラスタスも、朝倉も、榊原も。

それぞれ違う場所からMUNEへ集まってきた。

完成されたチームではない。

だからこそ、1人が加わるたびに、できることが1つ増えていく。

その日の午後。

榊原のモニターには、再びMR-00のデータが並んでいた。

彼が最初に探し始めたのは、最大のダウンフォースを生む数字ではなかった。

実際のコースで、どこまで使えるのか。

MUNEの次のマシンを作るための仕事が、静かに始まった。

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