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IGNITION  作者: ムネディ


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Chapter 12 風を読む人

 「また金のない話か」

上総工科大学の研究室で、高瀬重臣は宗村の顔を見るなり言った。

宗村は向かいの椅子に腰を下ろし、苦笑する。

「先生、俺が金のある相談をしたことあります?」

「ないね」

「でしょう?」

高瀬は笑い、机の上に置いていた資料を閉じた。

窓の向こうでは、学生たちが実験設備の周囲を行き来している。MUNE RACINGと大学との付き合いは、LMP2時代から続いていた。高瀬は宗村の恩師であると同時に、チームが技術的な袋小路へ入りかけたとき、少し離れた場所から別の視点を与えてくれる存在でもあった。

ただし、答えそのものを教えてくれる人ではない。

「それで、今度は何が足りない?」

「人です」

「いつも足りないじゃないか」

「今回は空力です」

高瀬の表情が少し変わった。

宗村は持参した資料を机へ置いた。

MR-00で得たデータを、本番車となるMR-01へどう生かすか。神谷を中心に検討は始まっている。しかし、LMP2を戦ってきたMUNEにとって、フォーミュラカーの空力はまだ経験の浅い領域だった。

外部施設を利用した風洞試験。CFD。シミュレーション。そして実走データとの相関。

設備だけ揃えても、それを正しく読める人間がいなければ意味がない。

高瀬は資料を数枚めくった。

「神谷君は?」

「分かってますよ。だから人を探せって」

「なるほど」

高瀬は資料から顔を上げた。

「1人いるよ」

宗村が身を乗り出しかける。

「ただし」

その一言で止まった。

「君のところへ行きたがるかどうかは知らない」

「そこは俺がなんとかします」

「そういうところが心配なんだけどね」

高瀬は眼鏡の位置を直した。

「榊原直哉。空力とCFD、解析、シミュレーションを扱える。君たちがこれから必要とする分野には合っていると思う」

宗村はその名前を頭の中で繰り返した。

「紹介してもらえます?」

「話をするところまではね。決めるのは榊原君だよ」

「もちろん」

高瀬は宗村をじっと見る。

「大学はMUNEの人材供給所じゃないからね」

「分かってますって」

その返事を聞いて、高瀬はようやく笑った。

*

数日後。

宗村は榊原と向かい合っていた。

最初の反応は、期待していたものとは少し違った。

「転職、ですか」

「はい」

榊原は手元の資料を見た。

そこにはMUNE RACINGの名前と、IGP参戦計画の概要が記されている。

「高瀬先生から、話だけでも聞いてみろと言われたので来ました。ただ……今の仕事を辞めてまで、というのは」

「ですよね」

あっさり返され、榊原が顔を上げた。

宗村は笑っている。

「俺でもそう思います。新規参戦のレーシングチームですよ。しかも世界最高峰。安定した転職先です、なんて顔で言ったら嘘になる」

榊原はわずかに表情を緩めた。

「普通、そこは安心させるところじゃないですか」

「嘘ついて来てもらっても、あとで困るのはお互いですから」

宗村は資料を指で軽く叩いた。

「ただ、面白い仕事はあると思います」

榊原の視線が再び資料へ落ちた。

「MR-01ですか」

「はい」

「MR-00を改良するわけではないんですね」

「別物です。あれで失敗したことを、本番で繰り返さないために作ります」

榊原の指が止まった。

初めて、資料を見る目が変わった。

宗村はそれを見逃さなかった。

だからといって畳みかけることもしない。

「一度、うちを見ません?」

「市原を?」

「資料だけじゃ、たぶん分からないんで」

榊原は少し考えたあと、頷いた。

市原のファクトリーへやってきた榊原が最初に見たのは、華やかな新設施設ではなかった。

LMP2時代から使い続けてきた建物。

そこへIGP参戦に必要な設備と機能を、少しずつ足している途中だった。

作業エリアではMR-00が置かれ、その周囲をスタッフが行き交っている。

榊原は足を止めた。

「これが……」

「MR-00です」

宗村が隣に立つ。

「速いですか?」

榊原の問いに、宗村は首を傾げた。

「速くするための車じゃないですからね」

「なるほど」

榊原は車体を見つめたまま動かなかった。

そこへ神谷が歩いてくる。

「宗村さん」

「あ、ちょうどいい。神谷さん、榊原さんです」

互いに軽く頭を下げる。

神谷は余計な挨拶を挟まず、榊原の視線の先を見た。

「高瀬先生から聞いてる」

「こちらも、お名前は伺っています」

榊原はMR-00へ視線を戻した。

「これ、空力はかなり苦労しました?」

「した」

即答だった。

「姿勢が変わったときの挙動が思ったより厄介だった。数字だけ見れば良くても、走らせると使えないところもある」

榊原が少し近づく。

「そのデータ、残っていますか?」

「全部」

「風洞との相関は?」

「まだ足りない」

神谷の答えを聞きながら、榊原の目が車体の各部を追っていく。

宗村は口を挟まなかった。

二人の会話は、そのまましばらく続いた。

空力そのものだけではない。

車高が変わったとき。

ブレーキングで前が沈んだとき。

ドライバーが縁石を使ったとき。

実際のコースでは、計算上の理想状態だけで車が走るわけではない。

榊原は質問し、神谷は分かっていることと分かっていないことを分けて答えた。

やがて榊原がMR-00から離れる。

「面白いですね」

宗村が笑った。

「でしょう?」

「まだ転職するとは言ってません」

「言ってませんね」

宗村はあっさり認めた。

その反応に、榊原が小さく笑った。

*

昼になり、3人は食堂へ向かった。

宗村が席へ着くと、牧村和代が声をかける。

「宗村さん、今日はお客さん?」

「高瀬先生の紹介です」

「あら、じゃあちゃんと食べてもらわないと」

榊原がメニューを見る。

少し迷ったあと、なめろう定食を選んだ。

宗村は何も言わなかった。

やがて料理が運ばれてくる。

榊原は一口食べた。

そして、箸が止まった。

宗村が横を見る。

「どうしました?」

「……いや」

もう一口。

「美味いですね、これ」

和代が笑う。

「でしょ?」

榊原はそのまま黙って食べ続けた。

宗村も、それ以上は何も言わなかった。

*

帰り際。

榊原はファクトリーの入口で一度振り返った。

作業場の奥では、神谷たちがもう仕事へ戻っている。

古いものもある。

足りないものもある。

世界最高峰へ挑むには、まだ小さなチームだった。

それでも。

分からないことを、分かったふりはしない。

失敗したものを隠さず、次の設計に使う。

榊原には、それが妙に引っかかった。

「宗村さん」

「はい」

「少し、考えさせてもらっていいですか」

宗村は笑った。

「もちろん」

「すぐには返事できません」

「仕事を辞める話ですから。それくらい悩んでください」

榊原は頷いた。

駐車場へ向かって歩き出す。

数歩進んでから、また振り返った。

「ちなみに」

「はい?」

「あの定食って、いつでも食べられるんですか」

宗村は一瞬だけ黙った。

そして笑った。

「たぶん、そこは転職条件に入れなくても大丈夫です」

榊原も笑った。

まだ答えは出ていない。

けれど市原へ来る前より、迷う理由は確実に増えていた。

MUNE RACINGにとって必要なのは、完成された組織へ人を当てはめることではない。

これから作るものを、一緒に考えられる人間を集めることだった。

MR-01はまだ形になっていない。

その車の周囲に集まる人間もまた、少しずつ揃い始めていた。

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