71話 君の名は
その夜は、誰もが眠れなかった。
日向が声を押し殺して泣いていた。
柚月の目が開いている。
私は布団の中で寝返りを打つ。
本当に神廟に行って石室で勾玉を嵌めれば、帰れる……?
その前にあの地図にないトンネルに出てしまったら……?
でもそうしたら、日向は呪われたまま?
日本に帰ってまで呪われる……?
分からないことばかり。
ミヤビの隣にいたマカーベくんを思い出す。
ミヤビはあの衝撃的な話には全く動じてなかった。
だけど、マカーベくんは一瞬、悲痛な顔をしてた。
転移者の子孫だから?
——かへりたし……
スザクの神殿での書き置き。
ゲンブの神殿のレイス。
ビャッコの神殿で草薙剣に取り憑いた幾多の魂。
みんな、帰りたがってた……
帰りたかったんだ……
千年の眠りを解き放つって何?
夜は更けていく。
昼間の疲れと夕食時の緊張からか、いつの間にか眠ってしまったらしい。
夢を見ていた。
あの地図にないトンネルの崩れた土砂に何かが埋もれている。
あれは……何?
「……尋! 千尋ッ!」
日向の声が遠くからする。
夢……だよね?
あの崩落したトンネル……?
あれは、私の体……?
潰れてる……!?
日向と柚月も……死んでる……
「千尋ッ!!」
心臓がどくんどくんと激しく鼓動を打っている。
温かい布団の中……
夢……
それに気がつくと、ほっとした。
生きてる。
まだ眠い……
「千尋っ! もうとっくに日が出てるよ!」
柚月の声がする。
「……あと五分」
「神廟に行くよッ!!」
「はッ! そうだった……」
私は眠い目を擦った。
顔にかかる髪をかきあげる。
黄ばんだ障子から差し込む光は、明るかった。
壁掛け時計がボーンと鳴った。
もう十時だった。
「昨日は、疲れたでしょ?」
朝食の席で姉が言った。
「ナガノさんは?」
「コージと二人で漁に出た」
姉はため息をついた。
「せっかく、来てくれてるんだから、今日じゃなくても……」
「そっか……いないんだ」
あんなにお世話になったのに、最後にありがとうって言いたかった。
「なんか、ヒュドラがいなくなったから、海まですごく近くなったって確かめに行った」
「ミヤビさんたちは?」
「もうとっくに下に行ったわよ」
「スガワーラさんは?」
姉は食後のお茶を注いだ。
「集落に帰った。でも、これからはスガワーラさんたちと仲良く出来そうよ」
「よかった……」
「イシカーワさんも残ってくれるって」
「スザクに帰らないんだ……」
「セイリューの神殿を復旧するって言ってた」
「そっか……」
私はためらいがちに聞いてみた。
「お姉さんは、日本に帰りたくは、ないですか?」
姉は目を閉じた。
「ゼンも言ってたけど、私たちは日本では、きっと亡霊……」
「……」
姉は首を振った。
「ごめんなさいね。あなたたちは、きっと帰れるから。だって、あのオロチをやっつけたんだから」
姉の笑った瞳に涙が光った。
「寂しくなるけど、本当にありがとう……」
「お姉さん……」
「ほら、食べたら、もう行きなさい」
姉は涙を拭った。
「あなたたちの、騎士が待ってるわよ」
姉は庭に目をやった。
「チヒロ……ヒナタ……ユヅキ……行こう」
マカーベが立っていた。
「私たちを、名前で呼んでくれた……!」
「女神さまじゃ、ない!」
「マカーベくん……!」
思わず涙が浮かんだ。
「神輿は、戻らせた」
マカーベが長剣の柄に手をかけた。
「だから、歩いていく」
「分かった!!」
「ヘーキ」
「うん、ありがと」
私たちは立ち上がった。
うじうじ考えてても仕方がない。
帰る。
何があっても、帰る。
「お姉さん、ありがとう! ご飯美味しかった!」
「お世話になりました」
「ナガノさんにもよろしく!」
「わんわんわん!」
私たちは庭に出て、お姉さんに手を振った。
「お弁当、持たせたから! 早めに食べてね!」
お姉さんは私たちが見えなくなるまで手を振っていた。
河辺の下り坂を降りていく。
棚田に集落の人たちが、農作業をしているのが見えた。
集落の人は手を止めると、手を振って口々に叫んだ。
「オロチやっつけてくれてありがとな!」
「気をつけて帰れよ!」
「ありがとう!」
ぬかるんだ道は滑りやすい。
マカーベが私の手を取ってくれる。
「マカーベって、下の名前は何?」
日向が聞いた。
「マカーベって苗字よね?」
「年はいくつ?」
「千尋のこと好き?」
柚月がどさくさで聞いた。
「ちょっと、やめて……」
——でも、マカーベくんの名前は気になる。年も、私のことも……
「マカーベくんの名前教えて」
私は聞いてみた。
「……カイ」
マカーベは小さく答えた。
「マカベ・カイ!」
「カイ……くん?」
——胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「ね、年は?」
「十七……」
「十七歳! 高校生じゃん!」
「一つ年上?」
「じゃ、千尋のことは?」
「……」
マカーベは顔を背けた。
「そこ滑る……気をつけろ」
「なーに、話を逸らしてんの!」
「きゃっ!」
「チヒロ……」
足を滑らせた私にマカーベのたくましい腕が伸びた。
背中を支えられると、顔が目の前にあった。
「……ありがと」
「なに、二人とも顔、赤くなってるの?」
思わず顔を背けてしまう。
前を行く日向と柚月が振り向いて、にやにやと笑った。
「わんわんわん!」
やがて川辺につくと野営はきれいに片付けられていた。
平底船には帆が張られている。
神官、モノノフたちが平伏して待っていた。
マカーベも傍で膝をつく。
空気が張り詰め、物音一つしない。
「御主女神さまがた……ご機嫌うるわしゅう」
アベーノが額を砂地に擦り付けた。
見渡してもタイラーの姿はなかった。
老スガワーラの言葉が蘇る。
——勾玉で守られていなければ、今頃……
今頃、どうなっていたの?
考えるのをやめた。
今は、それより先に行かないと。
「出立の用意が整いまして、そふらふ……」
アベーノが合図をすると待機していた神輿が立ち上がった。
私たちは神輿に乗るように促され、そのまま三番船に乗り込んだ。
『出航! もやいを外せ!』
船長の号令と共に平底船は漕ぎ出した。
マカーベは一番船に乗ったようだった。
船にはミヤビと巫女たちが薙刀を構えていた。
「もう、危険なことはないよ、多分」
日向がミヤビに言った。
「だから……」
「アントークの呪いが出ましたなら、即座に我々巫女で対処いたしまする……」
ミヤビは片膝をついたまま、日向の草薙剣に目を向けた。
「怖いこと、言わないで……」
「日向……その剣、やっぱり重くなってる?」
「……うん」
日向は、かすかにうなずいた。
顔色が少し悪い。
「早く、神廟に行かないと……」
「昨晩のうちに、小舟でスザクの都に伝令が発ち申しました」
ミヤビが言った。
「大世界神スミレさまと神廟で落ち合いまする……」
「……!」
「昨晩、スガワーラが話されていたことで、ござりまする」
私たちを見つめるミヤビの目はどこまでも深く、しかし感情の色がなかった。
「神廟に認められれば統一神として、四女神がこの常世の世で、平和の礎になりましょう……」
「……」
その目は私たちではなく、何か別のものを見ていた。




