67話 沈みし街
湖の水が引きはじめていた。
湖面がみるみる下がっていく。
真上から太陽の日差しが降り注ぎ、気温が上がっていく。
塔のテラスの石畳もじわじわと乾いていく。
さっきまでの嵐は? ヒュドラは、幻?
でも——
——まだ、終わりじゃない……?
アントークの最後の叫びが、まだ耳に残っていた。
鍵が揃った……?
三種の神器と勾玉……だよね。
確かに、揃ってる。
でも、何かが足りない気がする。
眼下を見下ろす。
あれほどいたヒュドラの痕跡は跡形もなかった。
真鍮製の梯子は、ところどころひしゃげていた。
ミヤビと柚月は、その梯子をあっさりと降りてゆく。
日向もこわごわ泣き叫びながらも降りていった。
「マカーベくん……」
「……チヒロ」
私には、絶対に降りられなかった。
助けて……私はマカーベを見上げた。
マカーベは毛皮のチョッキを脱ぎ、一度水を払うと着直した。
腰を降ろして背中を見せる。
「ありがと……」
マカーベに背負われる。
水に濡れた毛皮は湿ってはいたが、中には染み込んでいないようだった。
「怖い……」
必死にマカーベにしがみつく。
風が吹いて梯子が揺れ、ミシミシと軋む音がする。
下はとても見れない。
目を閉じてひたすら耐える。
下に降りるとタイラーとイシカーワがずぶ濡れで震えていた。
スザクが柚月の周りで跳ね回っている。
「良かった……みんな無事で……」
「白虎さまと朱雀さまにお守りいただき……」
「わんわんわん!!」
「スザク、えらいぞ!」
「でも、どうするよ? これ?」
「降りられないし……」
螺旋階段へと続く屋上の通路は、ヒュドラによって潰されていた。
神殿の屋根はところどころ穴が空いている。
下までは三階分の高さはあった。
「見て! 街が出てきた!」
「水没してたんだ……」
湖の水位はさらに下がり、神殿の下に石造りの建物が姿を現していく。
「立派な街……」
「これじゃ、ナガノさん船で、来れない……」
「やば……」
目の前に朱色の鳥居が、残った湖から突き出している。
三方が崖に囲まれていた。
私たちが来た水路は、滝となっていた。
そして川となって湖に注ぐ。
「女神さまがた……梯子を用意しました故……」
ミヤビが振り返った。
マカーベが塔に登る梯子を外して、崩れた天井から広場の崩れた壁に下ろした。
「また梯子……」
ミヤビと柚月は、身軽に降りていく。
「日向ーっ! 大丈夫! 梯子、支えてるから!」
「もう! 梯子、怖い!」
日向がまた叫びながら降りていく。
私もマカーベに背負われて降りた。
揺れる梯子に生きた心地がしない。
でもマカーベくんに何度、背負われて、担がれて、救われてきただろう。
「マカーベくん。ありがと……」
その広い背中につぶやいた。
下につくと日向と柚月が、にやにやしてこっちを見てくる。
「いいなあ。私もマカーベにおんぶされたい」
「おんぶに抱っこ、本当にお姫様だね」
「もう、やめて……」
私はちらりとマカーベを見た。
マカーベは俯いて顔を背ける。
マカーベくん、きっとまだ、ピーコ姫のことを引きずってる……
ピーコ姫と似てても、真逆な私なんて……
きっと、足手纏いと思ってる……
勾玉が四つ揃った。
それは、別れの時間が近づいてることを意味してる……
マカーベくん、ピーコ姫と、日本に行こうとしてた。
それは、ピーコ姫の意思?
マカーベくんは、どう思ってる?
私とじゃ……ダメ?
「千尋……千尋っ!」
「なに、ぼーっとしてるの?」
「あ。ごめん」
私たちは神殿の広場を歩いていた。
日の光が明かり取りの窓と崩れた壁から差し込む。
ヒュドラの攻撃でいたるところ壁が崩れていた。
広場の階段を降り、正面玄関を抜けると白い光に包まれた。
「わあっ! きれい……」
「水が全部、引いたんだね」
白い石畳の通りがまっすぐ伸びている。
両側に白い建物が並ぶ。
濡れた石畳が太陽に反射して、まるで宝石のように輝いていた。
壁には貝が張り付き、柱には藻がからみついている。
でも、建物そのものは崩れていなかった。
——ずっと、水の中で待ってたんだ。
「あ! 人がいる!」
「ナガノさんじゃ、ないね」
「現地民……?」
私たちに緊張が走った。
神殿の階段の下に何人か集まっている。
ナガノさんが、妨害があるかもって言ってた。
「女神さまがた……」
ミヤビが薙刀を構えた。
マカーベが長剣の柄に手をかけ前に出る。
それより早くタイラーがマカーベの前に出て大音声を張り上げた。
『セイリューの民よ! 我が名はタイラー……』
「と言っておりまする」
ミヤビが訳していく。
その声に現地民の間でざわめきがおきる。
『ここにおわす四神を解放された世界統一神である三女神にお仕えする上神官である!』
タイラーは得意げに胸を張った。
日向の冷ややかな視線がそれをすぐに萎ませた。
——いつの間にか、仕えていることになってる……
ミヤビが苦笑して訳していく。
『頭を垂れよ!』
『……タ、タイラー上神官?!』
『アントーク御神、ご降臨の折の、あの……!』
『青竜を解放された……女神?』
『頭が高いと言っておろう!! ひれ伏さんか!!』
『はッ……!!』
現地民は驚きの声を上げ、一斉にひれ伏した。
『お、おそれながら、申し上げます……!』
現地民の一人がひれ伏しながら声をあげた。
『我らはスガワーラ一族、代々アントーク御神を祀ってきた者どもです』
別の一人が震える声を上げる。
『神獣青竜の御解放……アントーク御神の御霊をお鎮め下さり! 歓喜に耐えませぬ!』
最後は涙声になっていた。
でも、私はその名前に戦慄が走った。
「スガワーラって、もしかして……菅原の一族?」
「ん? 菅原さんでしょ? どういうこと……?」
私の声に不穏な響きが入り、不安な声を柚月が上げた。
「日本三大怨霊が、揃っちゃった……崇徳院、平将門、菅原道真……」
「え? タイラーって将門の子孫なの!?」
「……アントークについてきたなら、清盛系かもしれないけど」
壇ノ浦に沈んだ幼帝、安徳天皇とアントークが重なった。
あのとき、平家の家臣も一緒に……? 転移した?
『我が一族は! アントーク御神の御霊を! 祀って参りました……』
スガワーラと名乗る男の涙交じりの声が響く。
『二十年前! あの親征の折! アントーク御神の眠りを妨げしスザクの暴挙!』
その声に怒りが伴った。
「あのクソのタキのせいだね……」
『あれ以来! 湖の水が増え続け、ヒュドラが湧き続け、アントーク御神の御廟をお祀りすることも叶わず……』
「……」
「そっか、それで、変わっちゃったんだ……」
三十年前は、友好的だったけど、最近変わったってナガノさん言ってた。
そういうこと?
『セイリューの民よ! 新たに崇め奉れ! 今日! このタイラーが導きし、世界統一神三女神のご降臨で! アントーク御神の御霊は救われた!!』
タイラーが声を張り上げた。
「元はと言えば、タキをけしかけたタイラーのせいじゃん……」
日向がタイラーに聞こえるように言った。
「しれっと自分の手柄にしようとしてるな」
柚月がうなずいた。
だが、タイラーは聞こえなかったフリをして続けた。
『道を開けよ! 我らを船団のもとに案内せよ!』
『は! はー!』
「タイラー調子のりすぎ……」
タイラーとイシカーワは下に降りて何やらスガワーラと話をしている。
日向がため息をついた。
「最初の鏡で会った時、私がタイラーの神になってやるって、言っちゃったんだよね」
「どこまで、ついてくるのかな?」
「絶対、アベーノと喧嘩するよ、あいつ……」
私たちは小声でささやいた。
「ささっ、女神さまがた……御足労おかけし、大変心苦しいですが……」
階段下からタイラーの声がかかった。
「なんか、うざくなってきた……」
「あの者ら、ナガノ殿の居場所も分かるそうで、ござりまする」
イシカーワが穏やかに言った。
その目からは、出会った頃の狂気は消えていた。
「ナガノさん! 早く船に戻ってお弁当食べよう!」
セイリューの民は十名ほどいた。
先頭を歩いていく。
神殿から続く石畳は、太陽でみるみる乾いていく。
そのうちの一人の老人が、ずっと日向の背負う草薙剣を険しい目で見ているのに気がついた。
でも私は、自分のことで、いっぱいいっぱいだった。
その道はやがて登り階段となり、私たちが来た水路に続いているようだった。
急勾配のその濡れた石段を見上げ、ごくりと息を飲んだ。
これ、登るの?
隣に滝が流れ落ちる。
私一人だけ、遅れる。
濡れて藻がついた石畳は滑りそうになる。
マカーベが心配そうに立ち止まって、待っていてくれた。
私は首を振った。
このくらい、自分で登れる。
やっとの思いで登りきると水路にナガノの姿があった。
「嬢ちゃんたち……すごいな」
その顔が、現地民の一人を見て曇った。
その視線の先に一人の老人がいた。
その老人は深刻な顔で、日向が背負う草薙剣を見ていた。




