64話 女神逃走、満ちる大蛇
セイリューの神殿……ヒュドラの巣……
鏡……いや、湖の中に捕まっている青竜……
あの悲しそうな瞳……
でも、誰が青竜を閉じ込めた?
千尋が「誰かが」と言っていたけど。
何か、……誰かがいる。絶対にいる。
「……日向? 日向ッ!」
立ち止まった私に、柚月が声をかけた。
「あ……ごめん」
「どうした?」
「何か、気になるの?」
千尋が眉間にシワを寄せて聞いた。
直感で生きてきた。
びびびと来ると、それに従った方がいい。
二人もそれを知ってる。
「やな感じがする……」
「まあ、あれだけ、ヒュドラがいるし……」
「嫌なって、どんな感じ……?」
部屋を出ようとしたミヤビたちも、立ち止まる。
広場は、不気味に静まり返っていた。
「違う……ヒュドラじゃない。もっと深いところから……」
「それって、青竜を閉じ込めた”何か”?」
千尋が首を傾げたとき、激しい水飛沫とともにヒュドラが部屋に向かって飛び込んできた。神殿が揺れ、部屋の壁にひびが入る。
部屋の入り口も崩れて、広がりつつあった。
「きゃっ!」
「……っぶな」
あのタイミングで飛び出してたら、全滅だった……?
この場所も安全ではない。
もう、時間の問題。
ヒュドラはまた頭を上げると後退していく。
ざぶざぶと水の中に頭が沈んでいく音がする。
壁から顔を出していたミヤビが叫んだ。
「今だ! 走れ!」
「マカーベくん……」
千尋はまたマカーベに肩に担ぎ上げられた。
私たちは神殿を今度は反対側に、全力で駆け出した。
ばしゃばしゃと水を蹴る。
「タイラー!!」
水音がして振り向くとタイラーが足を滑らせてひっくり返っていた。
八咫鏡が水の中にばしゃんと落ちる。
「鏡! 落としちゃダメ!」
なくしたら、詰む!
考えるより先に手が伸びた。
「上神官どのッ!」
イシカーワも戻ってきた。
水面が次々と再び盛り上がる。
「日向ッ!! 来るよッ!!!」
「草薙剣! 勾玉! 頼む!!」
私は迫り来るヒュドラに向けて草薙剣を振り上げた。
剣と勾玉が呼応するようにまぶしく輝いた。
「わあああっ!!」
「ヴゥオオオオォォ!!」
草薙剣を振り下ろすと同時に、視界が一瞬で真っ白に染まった。
音が、消えた。
振り下ろした剣に感触はない。
視界が戻った広場は、ヒュドラの長い首が痙攣するように、力なくのたうち回っていた。
「タイラー! 行くよ!」
イシカーワはタイラーに肩を貸して走り出す。
戻ってきたミヤビが鏡を拾い上げた。
後ろで、さらに水面が盛り上がった。
「また来るよっ!!」
「早く通路に!」
「わああああッ!」
通路に飛び込み、さらに奥に向かう。
「正面の扉じゃ! 階段がある!」
タイラーが叫んだ。
再び後ろから水音が響いた。
「ヴゥオオオオオ!!」
通路を頭がずりずりと進んでくる。
「鍵、空いてる!!」
柚月が叫んで飛び込んだ。
「イシカーワ! 早く!」
最後にイシカーワとタイラーが扉に入り、バンとマカーベが扉を閉めた。
どどーんと扉と壁が激しく揺れた。
狭い空間を草薙剣の光が照らしていく。
「螺旋階段……」
「こんなの、あったんだ……」
先頭をマカーベ、その後ろにミヤビ、私たちが続く。
最後に二人の神官が続いた。
登り切った先の扉を開けると、青空が広がった。
太陽はまだ頂点に達していない。
東はキラキラと輝く大海だった。
その上に暗雲が広がっている。
「早くしないと、十二時すぎちゃう……」
「やっぱり、雨も降りそう……」
目の前には神殿のテラスに向かう通路がある。
手すりはない。
足を滑らせて落ちたら、ヒュドラに飲み込まれる……
「「「ヴゥオオオオオオッ」」」
「マジ……か」
次の瞬間、湖の水面が泡だった。
神殿を中心にヒュドラの長い首が一斉に突き出した。
うねうねととぐろを巻き、水面が黒い塊に埋め尽くされていく。
「こんなじゃ……ナガノさん、来れない……」
「うげ……気持ち悪い……」
「これじゃ、合わせ鏡にならない……」
ヒュドラの頭が、私たちに向かって一斉に向いた。
「ヤバい……」
「女神さまがた! てっぺんに上る梯子があるで、ござりまする!」
タイラーが後ろから叫んだ。
ヒュドラの頭が牙を剥きだして伸びてくる。
「きゃッ!」
千尋がまたマカーベの肩に担がれた。
だんだん、雑になってる……
前を走るマカーベの背中に、千尋は逆さまになってしがみついていた。
顔を上げた千尋と目が合った。
「千尋! 絶対に手は離さないで!」
「う、う、うん」
私たちは一列になって通路を走っていく。
私の後ろでヒュドラの頭が通路の壁に突っ込んだ。
「ミヤビさん! 気をつけて!」
最後尾のミヤビが鏡と薙刀を抱えて走る。
その前を神官二人がどたどたと駆けてきた。
「きゃッ!」
ヒュドラの複数の首が次々とロケットのように打ち込まれ壁を揺らす。
そのうちの一つが通路にまで乗り上げた。
「走れ!」
後ろでヒュドラの粗い息遣いが響いた。
「ミヤビさん!」
ミヤビが振り向きざま、薙刀を一閃させた。
ヒュドラの顎を切り裂き、血が迸る。
「ヴゥオオオオッ!!」
ヒュドラは苦痛の呻き声を上げて、頭が引っ込んでいく。
「はあはあはあ……」
私は通路を走り切り、壁に手をついた。
後ろから神官二人とミヤビが続く。
神殿の本殿の上はテラスになっていた。
ここまではヒュドラの首は届きそうもないけど……
私は振り返って神殿の塔を見上げた。
見るからに頼りない銅製のような梯子が備え付けられている。
二階建ての屋根くらいの高さ……?
ごくりと唾を飲む。
「あれ、登るの……?」
「上は狭く、全員は上がれませぬ……」
タイラーが蒼白な顔をして言った。
「五名までかと……」
「じゃ、イシカーワさんとタイラーはスザク見ててね」
「わんわんわん」
柚月が梯子に手をかけた。
揺らすとミシっと揺れた。
「少し揺れるけど、大丈夫そう」
身軽にかんかんと音を立てて登っていく。
登り切ると身を乗り出してオーケーサインを出した。
「ミヤビさん、先に行って」
ミヤビは私に頷いて薙刀をテラスに置くと、鏡を懐に入れて登り出した。
みしっと揺れる。
それでも身軽に一分も経たずに登り切った。
「私が先の方が、いいよね?」
梯子に手をかける。
冷たい金属の感触。
思ったより滑る。
ところどころ錆びてる。
背中の草薙剣が邪魔で気になる。
でも、登らないと……
私は梯子を登り始めた。
風が吹き梯子にしがみつく。
踏み板がぐらつく。
「きゃっ!」
踏み板が折れて、ずり落ちた。
眼下には神殿のテラスと屋根の下はヒュドラの大群……
落ちたら、死ぬ……
「日向! 頑張れ! もう少し!」
上につくとミヤビに引き上げられた。
「マカーベ! 来て!」
マカーベは千尋を担いだまま梯子に手をかけた。
梯子がみしっと軋んだ。
「こ、怖いよ……」
千尋の震える声が聞こえる。
ここまではヒュドラは来られない。
私はほっとして座り込んだ。
空が高い。
4畳半ほどのスペース。
腰までの石の手すりがある。
「……キモすぎ」
柚月の声が聞こえた。
「なにが……?」
立ち上がる。
「マジか……やば」
三百六十度、湖が見渡せた。
しかし、湖はヒュドラの黒い影で埋め尽くされていく。
もはや、水面はなかった。
生きている層が、うねっている。
湿った風が吹く。
東から重い雲が、迫り出してきていた。
「曇りになったら、ダメだよね……」
「はあ……はあ……」
マカーベと千尋が上がってきた。
五人が揃うと途端に狭くなった。
「怖かったよ……頭にまだ、血が昇ってる……」
マカーベから下ろされた千尋が腰を落とした。
「千尋……どうしよう?」
「……こんなにたくさん、いるの……?」
ヒュドラに埋め尽くされた湖面は、黒い塊がうねり、低いうなりが空を震わせた。
これ……どうやって、青竜を解放するの……?
でも——
「ミヤビさん、鏡を出して!」
そのときヒュドラに覆われた湖面で、何かに見られた気がした。




