59話 水上の神殿
無言の中、小舟は進む。
ナガノは船尾で、櫓を漕いでいた。
流れに乗って、霧の中を進んでいく。
両岸は見えない。
だけど誰かに見られている気がした。
——現地民? ヒュドラ……?
スザクが船縁に顔だけを出して、一点を凝視している。
何か、いる……?
「……静かすぎる」
ナガノがつぶやいた。
「……?」
「鳥が鳴いてない……」
「……それって?」
「オロチが……いるから?」
「……分からない」
茶色く濁った水面は穏やかだった。
でも、いつヒュドラが出てくるかと思うと喉が締まった。
今、出てきたら、絶対に死ぬ……
背中の草薙剣を前に回し、祈るように抱える。
柚月も千尋も胸元の勾玉を握りしめている。
ミヤビもマカーベ、イシカーワも緊張した面持ちを隠せない。
私はひょうたんを出した。
蓋を外し、口をつける。
その瞬間、思わず目が見開いた。
——甘い……おいしい……
予想外の甘さに一瞬緊張が解ける。
柑橘系の香りに蜂蜜の甘さが胃に染みた。
——お姉さん、ありがとう。
ジェスチャーで二人にも勧める。
二人とも一口飲んで目を丸くした。
「今、九時だ」
ナガノが小声で言った。
船は入り組んだ狭い水路に入っていた。
「もうすぐ着く。俺はこの水路から入った高台で待機する」
私たちはうなずいた。
待つのも危険だ。
「そこから神殿が見える。もしオロチが出たら、迎えにはいけない……」
「……そうなったら、仕方がない」
柚月が冷静に答えた。
ナガノさんまで、危険に晒すわけにはいかない。
もし、ナガノさんがオロチに食われたら、私たちも帰れない。
お姉さんを悲しませる事態だけは避けたい。
「神殿の中だったら、オロチに襲われない?」
私はイシカーワにささやき声で尋ねた。
「イシカーワさんは、助かったんだもんね?」
「お、お、覚えてない……」
ナガノはため息をついた。
「今なら、引き返せる……」
ナガノの目が光った。
覚悟を求められている。
「行きます……」
私は草薙剣を掲げた。
「ここまで来て、引き返せない」
柚月がスザクの頭を撫でた。
「神獣青竜を呼び出せれば、オロチも倒せます」
千尋も静かに言った。
「分かった」
ナガノも覚悟を決めたように言った。
「もしオロチが出たら俺も帰れない。明日の昼までは待つ。神殿まで迎えにいく」
「……ありがとうございます」
「高台は狭い。だから絶対にオロチは起こすな……」
私たちは黙ってうなずいた。
その間も、何かに見られている気配はずっとしていた。
ミヤビが薙刀を岸部の葦に向けた。
水路の葦が揺れ黒い影が隠れたような気がした。
風はなかった。
船は水路を抜ける。
霧が晴れ、視界が一気に広がり、白い光に包まれた。
「……ッ!」
私たちは口元を押さえた。
湖……?
一面の水。
雲ひとつない空が水に反射して青く輝いていた。
目の高さに朱色の鳥居の上の部分が見えた。
そしてその向こうに、神殿。
半ば水没する形で、半分だけ水面に出ているのが見える。
「幻想的……」
千尋が小声でつぶやいた。
濁った水は、ここでは透き通っていた。
水の流れはない。
朱色の鳥居が半分ほど水面下に見える。
その下は、光を飲み込む闇だった。
その闇の中にヒュドラが潜んでいるような気がした。
「神殿の中に、船をつける」
ナガノが静かに船を寄せていく。
神殿の正面の扉をくぐるときに、頭を屈めなければならなかった。
柚月のライトが中を照らす。
マカーベが松明に火を灯した。
ぼんやりと空間が照らし出される。
一面水に覆われていた。
小舟がこつんと階段上の広場の縁に当たった。
「ここまでだ……」
マカーベが先にゆっくりと降りる。
水音が、異様に大きく響いた。
「……!」
この場の誰もが動きを止めた。
耳を澄ます。
緊張した時間が流れる。
柚月が、その足元にライトを照らした。
くるぶしまで水に浸かっている。
ミヤビ、イシカーワも慎重に降りた。
私が降りるときはマカーベが抱き降ろしてくれた。
「チヒロ……」
マカーベが小声で呼ぶと、千尋が顔を赤らめた。
「ヒナタ……」
私もマカーベに降ろしてもらった。
力強い腕だった。
千尋が赤くなるのも、分かる気がした。
柚月は自分で、音も立てずに降りた。
「スザク……おいで」
柚月はライトを千尋に渡し、スザクを抱き抱えた。
私たちが水の中に降り立つと、ナガノは手を振って船を離した。
音もなく船は神殿を出て、光の中に消えていく。
湖の向こうにナガノが消えてからも、私たちは動けなかった。
うかつに動いてヒュドラを起こしたら、ナガノさんが危険になってしまう。
誰もが緊張した顔で、耳を澄ませていた。
どのくらいそうしていたかは、分からない。
体が足から冷えてきていた。
「……」
千尋がライトを奥に向けた。
奥に簾が見える。
私たちは、うなずきあった。
とぷん……ちゃぷ……
どうしても、歩くと水音が立ってしまう。
私たちは静かに歩を進める。
イシカーワが松明を持ち、ミヤビとマカーベは武器を構えた。
柚月はスザクを抱いたままゆっくりと歩き、私は草薙剣の柄に手をかける。
柄を通して、今までにないほど剣の鼓動を感じた。
あれほど重く感じた草薙剣は、今は驚くほど軽かった。
お前も緊張してる?
——違う。
これは、緊張じゃない。
警告してる……?
いや、喜んでるの?!
先頭のマカーベと千尋が簾に手をかけたとき、神殿の外で爆音が立ち上がった。
激しい水飛沫と何かが水の中で暴れる音。
足元の水が波打った。
——く、来る……
「ヒュ、ヒュドラ……」
大波が押し寄せ、すさまじい水飛沫が私たちを襲った。
引き波に足が取られそうになり、イシカーワに手を掴まれた。
松明の火が、大きく揺らいだ。
そして——
「「ヴゥオオオオオオッ!!!」」
「「ヴァアアアアッ!!」」
複数の叫び声。
湖の向こうで複数のヒュドラの頭が盛り上がるのが見えた。
そして、黒いうねりが神殿に向かって近づいてくる。
神殿の入り口の光が何かに遮られた。
水柱が三つ上がった。
巨大な顔が、水を割って現れた。
その口が私たちを噛み砕こうと牙を剥き出した。




