48話 神獣白虎
「メエエエエ!」
山羊の絶叫が谷にこだましていく。
神殿から見えた炎はもう消えている。
「柚月……!」
その獣の叫び声に私の焦りが高まっていく。
——無事でいて!
巫女が青ざめて振り向く。
「蛙神の女神さま……」
「だから、その呼び方、やめて……!」
私はイライラを隠せなかった。
柚月が神殿に入ってしばらくして、山羊と虎の鳴き声が響いてきた。
ビャッコに入ってから、ずっと悩まされていた風は不気味に静まり返ったまま。
絶対、ヤバいことになってる……
「神殿の横の通路から、入りまする」
「横の通路……?」
巫女たちは正面の石段を避け、崖沿いの細い道へと進路を変えた。
確かにいったん谷底に降りるより、神殿の横から入った方が時短になりそうだった。
「分かった」
この世界に来た最初の夜の光景を思い出した。
神殿から見た、湖に浮かぶ朱色の鳥居。
思えば、あの「秒で戻るつもり」から、いったい、もう何日この世界にいるんだろう。
「……そうだ、あの御簾の奥の部屋!」
その言葉に巫女が眉間に皺を寄せて、振り返った。
「掛け軸ない?」
「掛け軸は、すでにありませぬ……」
「ないか……」
私の前を行く巫女は再び前を向いて、足を速めた。
もしかして「瀬をはやみ」の詠唱で、キマイラの呪いが解けるかもと、ぼんやりと考えた。
あの歌でキマイラのお腹の勾玉が反応して、バーンとなったりする?
でも、次の巫女の言葉が私の頭を切り替えさせた。
「その奥には、草薙剣が、あるはずで、ございます……」
「草薙剣!?」
裏切りの女神が振るった剣。
キマイラを産み出した、呪いの剣。
——それで、その呪いの草薙剣で、キマイラを斬ったら……どうなる?
でも、抜いたらダメだって、ミヤビさんが……
「……」
もしかして、草薙剣でキマイラを斬ったら……倒せる?
その疑問を飲み込んだ。
ビャッコ二日目の最初の襲撃のあと——
裏切りの女神と草薙剣への嫌悪を示したミヤビの顔を思い出した。
草薙剣を抜く……
ビャッコの巫女たちにとっては、呪いの剣……
それを言ったらダメだ。
でも、もしかして……
私たちは横の入り口から神殿内部に足を踏み入れた。
目の前に大剣を持ったフォーゲル、巫女たちが薙刀を構えて走っていく。
「メエエエエエ!!!」
山羊の怒号が響く。
温度が高くなってくる。
「柚月ッ!! 待ってて!!」
そのとき——
通路の先に、巨大な獣の姿が見えた。
*
暗い洞窟を歩いていた。
隣にはマカーべがいる。
松明の灯りに照らされたその横顔をちらりと見る。
その顔は緊張をしているようだった。
——神殿にいる、キマイラ……
昨晩の、あの双頭のキマイラより、大きい?
私はぎゅっと胸元の勾玉を握る。
命のお守り……
——神獣玄武……
お願い。
御加護を……
白い服に毛皮のチョッキを着たビャッコの男衆が前を歩いている。
松明を持つ者七名。
腰の剣の柄に手をかけた男衆七名。
やがて、縄梯子がかけられた一角に出た。
男衆が素早く登っていく。
——あれ、登るの……?
「チ、ヒロ……」
マカーべがためらいがちに声をかけて、背中を向けて腰を落とした。
「しっかり、つかまれ」
「うん……」
私はマカーべの首に両手を回した。
右手が痛み、顔が歪む。
両足をマカーべの腰にぎゅっと回す。
鎖帷子の上に着た毛皮のチョッキが温かい。
マカーべは私を背負ったまま、縄梯子を力強く登っていく。
上に出ると男衆に引き上げられた。
松明の灯りが、見覚えのある煉瓦を照らした。
——煉瓦造りのトンネル……?
ここ、神殿の地下……?
あの日、この世界に来たときに見た煉瓦造りのトンネル。
あのときは、こんな事になるなんて、まったく想像もつかなかった。
「ヴェエエエエ……!!」
山羊の悲鳴がトンネルに響いた。
——柚月?
日向……?
上に、誰かがいる。
ミワーノも上がってきた。
「チヒロ……上に……」
「マカーベくん、行こう!」
男衆が走り出す。
私の体が一瞬にして持ち上げられた。
マカーベは私を軽々と抱えると走り出す。
階段を登ると神殿の石畳の通路に出る。
扉はない。
一気に気温が上がった。
通路の向こう側の広間に、巨大な獣の体がちらりと見えた。
そのとき、白い風が通路を駆け抜けていった。
*
白い風が竜巻となって、LEDライトに照らされる。
神獣朱雀の炎は、すでに消えかけていた。
「スザク!! 戻ってきて!」
「バウバウ!!」
スザクは元の姿に戻っていた。
尻尾を巻いて私の足元に駆け寄ってくる。
キマイラが山羊の頭を振る。
憎悪の目を小さなスザクに向ける。
山羊の顔も、虎の顔も神獣朱雀の攻撃に血まみれだった。
ツノを前にし、こちらに狙いをつけた。
ミヤビが私の前で薙刀を構える。
「神獣! 白虎! お願い!」
私は絶叫した。
そのとき、風が、私の髪を揺らした。
「白虎?!」
「ヴェエエエエ!!」
キマイラはそのしなやかな虎の体で、私とスザクに向かって飛びかかった。
「……!!」
——契り……なにを契る……?
風が、そう言った。
たしかに、そう聞こえた。
「この美しい地を守る!! ビャッコの地を守る!!」
自然と口をついた。
目の前に山羊のツノがあった。
——フ、フフ……
風が笑ったような気した。
一瞬、神殿の空気が止まった。
次の瞬間、私の前に白い風の壁が立ち昇った。
白い風が渦を巻く。
その中心に、虎の影が立っていた。
「「ヴェエエエッ!!!」」
キマイラが、竜巻に飲まれたように回転しながら持ち上げられていく。
そのまま、天井に叩きつけられる。
次いで石畳の床に、打ち付けられるように落下した。
衝撃音とともに石畳が割れ、舞う埃がライトに照らされた。
「神獣……白虎……?」
白い風が、虎を形作ったように見えた。
「「ヴェエエエエ!!」」
「「グアァァァアア!」」
山羊と虎が吠えた。
「シャアアッ!!」
その二つの首の間から、黒い大蛇が鎌首をもたげた。
びりびりと神殿の空気が震える。
キマイラは、立ち上がった。
「柚月ーッ!!」
横の通路から、大剣を構えたフォーゲルと、息を切らした日向が飛び出してきた。
「……柚月ッ!」
同時に反対側の通路からも、かすかな声が響いた。
マカーべに抱き上げられた千尋だった。
「千尋ッ?! 日向ッ!!」
来てくれた!
やっぱり、無事だった。
涙がこぼれ、膝が揺れた。
でも、感動に浸っている暇はなかった。
「マジャバー!!!」
フォーゲルの絶叫が神殿に轟き、大剣がキマイラに切り掛かる。
「マカーベ!!」
ミヤビの叫びに応え、千尋を床に下ろすや否や、長剣を閃かせて飛び出した。
男衆も一斉に続く。
「者ども!! 今ぞッ!!」
ミヤビが薙刀を振りかざす。
三方から冷たい刃が、キマイラを切り裂いていく。
その体から血が吹き出し、キマイラは怒号を上げた。
「「ヴェエエエ!!」」
しかし、キマイラは倒れなかった。
神殿内の空気を一気に焼き尽くすような熱波が私たちを襲った。
キマイラの虎の口の奥で、赤い光が不気味に膨れ上がった。




